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うちの王子が最近他の令嬢の所に通っているのですがこれって浮気でしょうか??

作者: すばる

シリアルに砂糖と蜂蜜とイチゴジャムをぶち込んでさらにキャラメルを追加した糖度200%のお話です。砂糖を吐く準備をお願いします。




 少しばかり傾いた午後の陽光が黄色く射し込む部屋に、カリカリとペン先が紙を削る音が響く。重厚なマホガニーの机上で、ほんのり桜色に色づいた細い指先が時折ペラリと書類を捲る。


 書類に目を落とすのは十五、六歳ほどの若い女性だ。ミルク色のエンパイアドレスに包まれた華奢な身体をふっくらとしたビロードのクッションを敷いた椅子に預けている。伏せられた亜麻色の睫毛は薄絹のように彼女の黒真珠の瞳をけぶらせており、月の女神の如き静謐な美貌をより一層神秘的なものにしていた。


 少女と言っても差し支えない年頃であろう彼女は、ふと、顔を上げて壁際に向けて訊ねた。


「――スティーヴン殿下は?」


 壁に同化するように生真面目に控えていた女官は一瞬口籠ったのちに返答した。


「……シールズ子爵家に向かわれました」

「っ、そう。今日も、なのね……」


 彼女——フェドラはクッと柳眉を寄せた。


 フェドラはクレイトン公爵家の第二子であり、この国の王太子スティーヴンの婚約者だ。

 彼らの婚約は、二人の年齢が漸く片手の指の数を超えたばかりの頃に国王とクレイトン公爵の間でとり決められたものだ。貴族派への対抗策として、国王派の筆頭であるクレイトン公爵家との繋がりを固くするためのものだった。


 そんなよくあるような政略で婚約した彼らだったが、存外仲は良い。


 王族教育などの共通の授業を二人並んで受講したり、休みの日には二人でお忍びで城下に繰り出したり。夜会でのファーストダンスだって、互いに互い以外の異性と踊ったことはない。

 勿論、誕生日などの記念日には贈り物をし合い、祝いの言葉も忘れない。


 しかし、二人の結婚が一月後に迫る現在、スティーヴンはとある令嬢の元に通うようになってしまっていた。


 リサ=シールズ子爵令嬢。


 天使のように愛らしいと評判の令嬢で、その人並外れた美貌を一目見ようと伝手を頼ってシールズ子爵家の茶会やパーティに参加しようとする貴族もいるそうだ。尤も、彼女に対面できたのはシールズ子爵家の縁者だけであるようだが。


 シールズ子爵令嬢の噂はフェドラも聞いていた。会った者が皆、口を揃えて「愛らしい」と言うリサに興味がないわけではなかったが、王太子の婚約者として騒ぎ立てるようなことはできない、と抑えていたのだ。


 それなのに。


(スティーヴ……どうして……!)


 フェドラがリサの噂を耳にした丁度その頃、スティーヴンもシールズ子爵家に頻繁に赴くようになった。政務や結婚式の準備に影響を及ぼすほどの時間ではないにせよ、貴族達の口の端に上るほどだ。


 そしてその噂を口遊み、耳を傾けたりする人々は「王太子様まで虜になるほどの愛らしさなのか!」とますます彼女を褒め称えた。


(貴方だけは、と思っていたのにっ……!)


 悔しい。心臓を掻き毟られるような感情がフェドラを満たした。


 ガタリ、と突然の音に女官は驚いてフェドラの方を振り向いた。そして、椅子を引いて立ち上がった彼女の俯いた表情を確認してギョッと目を剥いた。


「え、あの、どうなさって」

「……行くわよ」

「へ?」


 ドレスの裾がバサリと翻る。フェドラの瞳は爛々と光を放っていた。


「シールズ子爵家に行くわ! 準備なさいッ!」




***




「——殿下、如何なさいました?」


 困惑の乗った問いかけに、スティーヴンは散らばっていた意識を拾い集めた。


 振り返ると、二十歳前後と見られる妙齢の女性がそこにいた。次代の王として諸外国との外交に赴き、東の国の後宮にすら訪れたことのある彼の目をしても、彼女は美しかった。


「ああいや、少し考え事をしていてね」

「はぁ……そうですか」


 スティーヴンが肩を軽く竦めると、彼女は長い溜息を吐いた。それにピクリと眉を跳ねさせた彼が目で問うと、彼女は渋々といった様子でへの字に曲げた口を開いた。


「殿下の『考え事』の中身は大体想像がつきますから」

「そんなに分かりやすい?」

「ええ」


 彼女がどこか得意げな笑みを浮かべて見せるのに、スティーヴンは苦笑で応えた。片頬で笑う彼女の冷やかすような態度から、スティーヴンの「考え事」に関する彼女の予想は恐らく正しいとみられたのだ。


「あまり意地悪をしては嫌われますよ」


 彼女はそう言って、スティーヴンの目の前にある大きな箱へと手を伸ばした。


 妙に大きな箱だ。いや、箱というよりは柵で上部を囲ったテーブルと言うべきだろう。女性の胸の下ほどの高さまでの柵が立てられ、中には清潔で柔らかそうな布が敷かれていた。


 その柵の向こうから彼女がそうっと抱き上げたのは、小さな赤ん坊だった。彼女はその赤子を宝物を捧げ持つかのように慎重に華奢な両腕で包み込んだ。胸元ですよすよと眠る赤子を見つめる彼女のターコイズの瞳は愛し気に細められている。


 生後半年といったところだろうか。

 閉じられた目を縁取る長い金色の睫毛は羽毛の影を落とし、まろい頬は白桃の赤みを帯びていた。赤子らしい薄い唇は小さく開き、微かな寝息を漏らしていた。


「別に意地悪のつもりは無いんだけどね……」


 先程の女性の言葉に対してだろう、やや不服そうに呟いたスティーヴンだったが、一転して彼女に抱えられた赤子に向かって甘く蕩けるような視線を注いだ。溶け切ったチョコレートのような目は、普段「王太子」として接する貴族達には見せることはないだろう緩み切った笑みを纏っていた。


 その時。


「た、大変です!」


 ドタドタと音をさせ、家令が部屋に駆け込んできた。スティーヴンよりも十歳ほど年上の家令は顔を青ざめさせ、冷たい汗を額に浮かべていた。驚愕の余韻であるのか、朝はきちんと整っていたであろう黒髪は乱れ、毛先が跳ねていた。


 彼の無作法な振る舞いに眉を顰めつつ、彼女は普段よりも幾何か鋭くなった声で要件を訊ねた。


「何事ですか」

「そ、それが——」


 息を乱した家令が口にした報告に、思わずスティーヴン達は顔を見合わせた。






 シールズ子爵邸の前には、小ぶりな馬車が停まっていた。豪華なものでこそないが実のある、しっかりした造りのものだった。


 その馬車の戸が滑らかに開き、数刻前に王宮を出たばかりのフェドラがしなやかに降り立った。


 落ち着いた淡い青の外出着に身を包んだ彼女は、ミニハットについたヴェールの下からチラリとシールズ子爵邸を見遣った。


 この邸は老朽化が進んでいたものを若き現シールズ子爵の代になって新しく建て直されたものだ。そのため、煉瓦の外壁は陽の光に赤く映えているし、花崗岩の石畳はキラキラと艶を帯びていた。道の脇に植えられた木々にも古木はあまり見られず、緑が照る若木が多く立ち並んでいた。


 邸の前にはずらりと清潔感のある使用人達が整然と並び、その立ち居振る舞いから、経験豊富な者達であることが察せられた。


 フェドラが緊張を深い息に変えて吐き出していると邸の玄関扉が開き、家令が強張った面持ちで出てきた。


「クレイトン公爵令嬢、どうぞ中へ。ご案内いたします」

「……ええ。お願いするわ」


 フェドラの厳しい表情に家令はピクリと蒼褪めた頬のあたりを引き攣らせたが何も言うことはなく、「こちらです」と一礼の後彼女を先導して歩き始めた。


 彼女達が玄関ロビーに入ると、スティーヴンと赤子を抱えた妙齢の女性が連れ立っているのが見え、フェドラは益々表情を険しくさせた。


「スティーヴン殿下」

「……フェドラ、これは」


 スティーヴンが言いかけた言葉を遮るように、フェドラはキッと彼を睨みつけ——


「私だって……







 私だって、赤ちゃん(リサ)に会いたかったのにー!」







 絶叫と共にフェドラはワッと床に泣き伏した。


 彼女が来た時点でこうなることを大体予想していたスティーヴンはサッと駆け寄ってフェドラを抱き起こし、広げた腕の中に彼女を包み込んだ。そして潤んで大粒の涙をボロボロと零す目元に、懐から取り出した白いハンカチを宛がってやった。


「スティーヴばっかりずるいぃぃい! 私もホントは挨拶したかったのー!!」

「うんうん」


 スティーヴンはフェドラが苦しくない程度の力でギュッと抱き締めた。彼女は折角整えられた髪が乱れる勢いでぐりぐりと彼に頭を押し付けてきた。背中に回された彼女の手は握りこまれ、彼の上着を皺にしていた。


「あー、いい子だから泣き止んで? ほら、ドレスも汚れちゃうよ?」


 幼子に対するように亜麻色の頭を撫でたり、トン、トン、と一定のリズムを小さな背中に刻んだり。グスグスと泣き自分の胸に顔を埋める婚約者をスティーヴンは苦笑しつつ穏やかな声で宥めた。


 そんな彼の仕草に、ハンカチを彼から奪い取り自分の目に当てて涙を吸い取らせていたフェドラは顔を上げ口をむぅっと尖らせた。不服そうにぷい、とそっぽを向いて低い声で、


「ないでまぜん」

「「……」」


 いやどう見ても泣いてるよね??


 その場にいた者達の心の声が一つになった瞬間だった。


「泣いでないんでずっでば!」


 かなり無理のあるフェドラの否認に絶句して思わず宙を仰いだスティーヴンだったが、彼も流石は一国の王太子。意に反してフワフワと空の彼方に飛ぼうとする意識をなんとか留め、ぎこちなく頷いた。


「……そうかー泣いてないのかー」

「ぞうでずよぉー」


 ずび、と鼻を鳴らすフェドラは、見事な棒読みで納得のセリフを絞り出したスティーヴンの胸元に視線を固定したままプクリと頬を膨らませた。どうやら恥ずかしさから彼の顔を直視できないらしい。

 その姿に彼は一瞬デレデレといっそ悲惨なまでに顔を緩ませたが、涙が浮かぶ大きな黒目を上向けられるとヒュン! と音がしそうな勢いで溶け崩れた顔を引っ込めてキリリと王子らしい微笑を浮かべた。


「あの……」


 そんな二人におずおずと背後より掛けられた声にスティーヴンはフェドラを胸に収めたまま振り向いた。










「ふわぁぁぁ……」


 フェドラは妙齢の女性——シールズ子爵夫人の腕の中を目を細めつつ覗き込み、抑え気味の歓声を上げた。


「可愛い……っ」


 頬を染め、感極まったようにフルフル震えるフェドラに、シールズ子爵夫人はクスクスと笑い声を上げた。


 赤ん坊は小さな鼻息を立てて眠っていた。玄関ロビーでの騒ぎにもかかわらず起きて泣き出すこともなく母親の腕に納まっている。


 シールズ子爵令嬢(リサ)は噂通り尋常でなく可愛らしい赤ん坊だった。

「百年に一度の美貌」「地上に舞い降りた天使」と貴族達に称えられるのもむべなるかな。


 シールズ子爵夫人のお産に立ち会った産婆達は、生まれたばかりの彼女のあまりの愛らしさに卒倒しかけたそうだ。お付きのメイド達も余りの眩しさに暫くは直視できなかったとか。輝かんばかりの美しさへの賛辞は産後に子爵夫妻を訪ねた人々によってあっという間に広まり、いつの間にか絵姿まで出回るようになり、デビュタントすらしていない彼女は一躍社交界で時の人となった。


 しかし一番星のように輝く一方でリサは危険にもまた晒されることとなった。愛らしすぎる彼女を狙い、誘拐犯が出没するようになったのだ。


 幸い設立されたばかりのリサのファンクラブ、正式名称「リサたん親衛隊」(ネーミングセンスにリサの父であるシールズ子爵は思わずその場に崩れ落ちたらしい)の働きによって未遂に終わったが、依然として危険があることには変わりない。


 実は、スティーヴンはシールズ子爵夫人とは乳姉弟の関係にある。

幼い頃は彼の遊び相手兼世話役を務めていた上、王家の信厚い乳母の娘ということを買われ、一昨年シールズ子爵に求婚されて結婚する前まではスティーヴン付きのメイドをしていたこともある。縁故による採用ではあったが、飛びぬけて優秀なメイドだった。


 姉同然である彼女の娘の身が危ういと知ったスティーヴンは個人的な伝手を頼り、子爵夫妻が優秀な護衛の手配をするのに手を貸した。それがきっかけでリサと会うようになったのだが、他の貴族達と同様、彼もまたリサの愛らしさの虜になってしまったのだった。


 そしてまた、ここに一人。天使過ぎる美貌の虜囚が爆誕しようとしていた。


「う゛っかわいぃ~っ! ほっぺふわモチ……おててちーちゃいのねぇ~!」


 子爵夫人の許しを得て、恐々と伸ばされたフェドラの細い指の腹がリサの頬に僅かに沈む。古代彫刻の如き顔貌を原型を留めないほどにくしゃくしゃにしたフェドラは、震えすぎて力の入らない手で口元を押さえた。


「可愛すぎるわよ……うぅ」


 感情が振り切れてしまったがために再び泣きだしてしまったフェドラに、彼女を生温かい目で見守っていたスティーヴンはそっと新しいハンカチを差し出した。


「……ありがとうございます」


 フェドラはちょっと頬を染めながら四隅の揃ったハンカチを受け取った。さっき玄関ロビーで泣いたこともあり、彼女の目は薄っすらと赤みを帯びていた。フェドラは目のふちに薄くとどまる涙を残滓の一滴も残さぬように拭き取ろろうとしているのか、ハンカチをギュッと目元に押し付けた。


「あ、こら。そんな強くしちゃ駄目でしょ」


 スティーヴンは彼女を窘めると、ハンカチを掴むフェドラの手を目元から退けさせた。そしてキュッと握られた手からスルリと抜き取ったハンカチをそっと彼女の目尻に当てた。


 二人の様子を微笑まし気に見守っていたシールズ子爵夫人は、涙が拭われたのを見計らってフェドラに訊ねた。


「抱っこしてみますか?」


 フェドラは夫人の申し出にポカンと呆けた。目と口を円く開いた顔が青くなったり赤くなったりした。それを数度繰り返した後、唇を巾着のように引き結んだフェドラの様子に「あ、これはまたおかしな方向に行ってる気がする」と直感したスティーヴンだったが、いつものことだと口を挟むのは止めにした。


「い、いえ、今日は止めておきます……」


 案の定、フェドラは「抱っこしたくて仕方がない」という内心が丸分かりの悔しそうな目をしているにもかかわらず、王太子妃教育で鍛え上げられた表情筋を総動員して平然とした顔を作っていた。

尤も、声が震えてどもっている時点でその努力は全くの無駄と化していたのだが。


 スティーヴンと子爵夫人だけでなく、居合わせたシールズ子爵家の使用人達は目元を緩く下げた。その場の空気はまるで完成から十五分間テーブルに放っておかれたオニオンスープ(一人前)の温度だ。きっとどんな猫舌だろうとゴクゴク飲み干せてしまえるに違いないぬるさだ。


 一つ大きな難を逃れたとばかりにホッと息をつくフェドラ。しかしそう易々と上手くはいかなかった。


「『今日は』ですか……。では、『また』お越し下さるということでしょうか?」


子爵夫人は善良そうな笑顔だ。しかしスティーヴンと使用人たちは裏側からチラチラ見え隠れする悪戯心を覚った。夫人の背からにょっきり生える黒い尻尾の幻覚が彼らを襲った。『……うちの奥様がすみません』『いや……こちらこそうちの婚約者が失礼したね』彼らは目と目で通じ合った。今だけは運命共同体だ。


「う……」


 子爵夫人の容赦のない追撃にフェドラは右に左に視線をよろめかせた。白磁の頬には羞恥の色が刷かれ、彼女の動揺は誰の目にも明らかだった。


 彷徨っていたフェドラの目がチラリとリサに向いた。微かな寝息を立てる小さな天使。ひたすらに愛らしいその姿に、フェドラはグッと何かを堪えるような面持ちになり、


「く」

「『く』?」

「……来るわ。また」


 ぷい、とそっぽを向いたフェドラの耳介は紅潮していた。白魚の指先はもじもじとドレスの裾を摘まんでいる。


 フェドラの可愛らしい様子に、彼女の隣に立つスティーヴンとリサを抱えた子爵夫人はどちらともなく顔を見合わせ、可笑しそうに密やかな笑いを零したのだった。




***




「そんなにリサに会いたかったのなら妙な意地を張らずに素直に私についてくればよかったのに」


 帰りの馬車の中でスティーヴンは肩を竦めてそう言った。フェドラは「うっ」と小さな呻きを洩らして、オリーブグリーンの座席に身を縮こめた。


 目を泳がせ、「あー」「うー」と往生際悪く返答を渋っていたフェドラだったが、やがて観念したように薄ら赤い面を伏せた。亜麻色の前髪がレースのカーテンのように表情を覆った。


「だって……私は王太子妃になる身なのに、簡単に流行に乗っていたら、み、『みーはー』みたいじゃない」


 なんなのこの娘。可愛すぎか。いやいつも可愛いけど。シールズ子爵家で散々可愛い婚約者の姿を愛でていたが遂に色々と突き抜けたスティーヴンはにっこりした。


「……そっかー、フェドラは偉いね。ちゃんと王太子妃になった時のことを考えてくれているんだ」

「勿論! そのために王族教育も頑張ったんだから!」


 スティーヴンの賞賛に、フェドラはパッと顔を上げて胸を張った。満面の笑み。えっへん、という声が聞こえてきそうだ。


フェドラは王太子妃になるべく教育された者だ。感情を面に出さないようにする方法なんて幾つも知っているし、魑魅魍魎蔓延る宮廷での立ち回りも当然身につけている。


 だが、スティーヴンの前では未来の王太子妃として被る仮面や筆頭公爵家たるクレイトン公爵家の令嬢という記号を脱ぎ去って、年相応でいっそ幼げな素直さを見せる。いや、素直と言うには意地っ張りなので一周回って素直と言うべきか。


「……ねぇ、フェドラ」


 自身のものより大きく厚い手がそっと頬に添えられると、フェドラは目を見開いた。鳩が豆鉄砲を食らったような表情に、嗜虐心が湧き上がってくる。


 ふと、シールズ子爵夫人の言葉が蘇った。


『あまり意地悪をしては嫌われますよ』


(ああ、確かに私は意地悪だな)


 夫人は『あまり』と言った。ならば、『すこし』の意地悪なら許されるだろうか。


 固まったまま彫像のように動かないフェドラの頬に当てた手を後頭部の方に滑らせる。もう一方の腕で彼女の腰へと手を回して華奢な体躯を引き寄せた。そこで我に返ったらしく、手のひらでスティーヴンの身体を押し返そうとしてきた。


(ごめんね。逃がしてあげるつもりはないんだ)


 スティーヴンは座席から腰を少し浮かせた。執務の合間に行っている武術の修練のお蔭か、流水のように自然にフェドラは彼の腕の中に抱き寄せられた。


「……ひぅ!?」


 小さな悲鳴がスティーヴンの首のあたりで上がった。唇を離した彼は小さく笑みを浮かべてストンと元の座席に身体を預けた。悪い笑みだった。


 一拍空けてフェドラはパッと自身の額を押さえた。


「あ、ああ危ないわよ!? 揺れて怪我でもしたらどうするにょ!」


 熟れた林檎の頬。薄い水膜の張った大きな瞳。カーテンの隙間からの明るさで睫毛がキラキラとしている。水気をたっぷり含んだ珊瑚色の唇は衝撃と動揺と噛んでしまったことへの羞恥を表してかプルプルと震えていた。全部、スティーヴンの宝物だ。彼の瞳は緩やかに細められた。


「意地っ張りだから、おしおき。それにもう止まっているから大丈夫だよ」

「えっ」


 スティーヴンの言葉に、馬車の振動が既に止んでいることに気づいたフェドラは、猫のように毛を逆立てた。


「~~っ、ばか!」








「もう夕方だからね。今日はもう結婚式の準備はここまでにしておこう」というスティーヴンの言によって、フェドラは自宅であるクレイトン公爵家に帰ってきていた。


 フェドラの好みを反映して、彼女の部屋は白を基調に青を差し色として纏められている。フェドラは毛足の長いペールブルーの絨毯を踏んで部屋の中央のソファーに腰掛けた。ネグリジェの裾を気にしながら今日のことを思い返す。


 玄関ロビーでは気が動転していたこともあって気付かなかったのだが、自分はスティーヴンにかなり恥ずかしいことをされていたのではないだろうか。抱きしめられたり撫でられたり涙を拭われたり。何より、


(額にキスって! そんな雰囲気じゃなかったわよね!? 何がどうしてく、口づけになるのよ!?)


 馬車の中でのスティーヴンの暴挙。

 あの時の柔らかく融けるような感触。薄い皮膚越しに、体温が侵食される感覚。よく知ったものであるはずなのに、フェドラは何度されても平然と取り繕うどころか慣れることすらできない。


 入浴して、メイド達に隅々まで洗われ磨かれた。洗い残しなどあるはずがない。それなのに、柔らかな感触だけが拭い去られることなく刻印のように額に残されていた。


 昔からずっと、スティーヴンに消えない印を刻まれ続けている。日々重ねられていくそれがひどく疼くので、今では思考の半分以上が彼のことで占められているように思う。


(それって、なんだかずるい……そうよ!)


 スティーヴンがフェドラに印を付けていくというのなら、フェドラが彼に印を刻んだって文句はないはずだ。せいぜい悩めばいい。


 亜麻色の毛先をブラシのように纏めて弄ぶ。フワフワとした毛が空気をくすぐった。フェドラは楽しげに唇を吊り上げた。


「……今度は私から意地悪してやろうかしら」


















 ——一週間後、「意地悪」を実行したフェドラがスティーヴンに返り討ちにされて赤面しつつ「反則よー! そんなの反則なんだからー!」と負け犬の遠吠えのお手本のようなセリフを叫ぶ、かどうかは神のみぞ知る。




以下、蛇足。


王太子 スティーヴン(18歳)

フェドラを溺愛している。ツンデレの気がある婚約者に「意地悪」して照れるのがめちゃくちゃ好き。フェドラしか勝たん。リサのことは別枠で可愛がってる。というかそもそもお兄ちゃん属性なので小さい子は皆可愛い。赤ちゃんってホント天使だよね。


公爵令嬢 フェドラ=クレイトン(15歳)

王宮だとスティーヴンと侍女さんたちの趣味で十九世紀初頭みたいなエンパイアラインのドレスを着せられることが多い。本人は衣服に対して無頓着なところがあるので彼らが選ぶことが多い。結婚式の準備のためにほぼほぼ王宮に泊まり込み状態。因みに父であるクレイトン公爵は王宮に泊まり込むのは反対してるけど命令なので何も言えない。誰が手を回したのかはお察し。


子爵令嬢 リサ=シールズ(0歳)

恐らく国一番の美形赤ちゃん。百年に一度な天使過ぎて誘拐犯とか当然沸くので、王太子の個人的な伝手で護衛が手配された。色々な人から贈り物という名の貢物が贈られている。この後フェドラからも最高級の玩具が届く。


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