その7:彼が突然うちに来たんだけど、どう迎えたらいいのかわからない。
* * *
彼からの連絡は水曜の昼休みまでなかった。
謝罪の言葉はなく、テレビが壊れていないか問われただけ。
やはり男性はどこか、女性よりも優位な立場にいるつもりをしているような気がしてならない。
彼は初めてお付き合いする男性だったけど、もうこのまま連絡がなくてもいいやという気持ちになっていた。
「考え過ぎよ」
水曜日の夜、彼女はそう言って笑った。
今日はホテルのディナーヴュッフェ。気のおけない彼女とお喋りをし、好きなものを食べて飲んで時間を気にせず過ごすのは、わたしにとって唯一の癒し。
彼といる時も楽しいけど、いつもどこか気が休まらない。何故なら、彼はわたしに癒しを求めているから。
しかもそれが、毎週金曜夜から日曜夜までほぼ丸二日間続く。休息を取るはずの週末が、仕事をしている平日よりも疲れてしまう。
「たまたま、彼がそういう人なんだと思うな」
「そうかしら……でも彼の友人も女性を莫迦にしているような気がしてならないの」
W氏のことを頭に浮かべるたび、不愉快な気持ちになった。
「例えばどんな?」
「煙草をお母さんに買いに行かせていたとか、無職なのに飲み歩いていたとか……お母さんに負担ばかり掛けて」
「それは女性というより、母親だからという気がするけど」
「そうかも知れないけど……」
「それで、彼の飲み会っていつだっけ?」
「来週の金曜……結局、うちには来ないことになったの」
「そう。じゃあ一緒にどこか行く?」
「それもいいけど、たまにはひとりでぼぉっとしようかなぁって」
「いいねぇ、それも」
この後は、彼女の家で映画を鑑賞することになっていた。
明日はそのまま出勤するため、わたしは着替え一式が入った小さいスーツケースを持って来ている。
今日はもう彼からのメールもないだろうから、彼女に気兼ねをすることなく過ごせそうね。
* * *
W氏との飲み会の当日。わたしは自宅でのんびり過ごし、映画を観ながらそのままソファでうとうとしていた。
日付が変わる頃に彼からメールが来た。
『悪い
癖でそっち行く電車に乗っちゃった』
驚いてスマートフォンの時計を確認する。でもまだ終電時間じゃなかった。
何故こんなメールを送って来たんだろう。
『今どの辺?この時間ならまだ電車あるんじゃない?』
駅の近くにはネットカフェもあるけど、一応確認のつもりで返信する。
知らん顔して鍵を掛けたままでもよかったけど、本当に玄関先で寝られたら困るし。
『そろそろ××駅になるかな』
「はぁ? あと三駅しかないじゃない」
思わず声をあげてしまう。十分ほどで最寄り駅だった。
飲み会はここから電車で三十分以上の場所……間違ったんじゃなく、彼は最初から騙し討ちで来るつもりをしていたのかも。
そう考えると気分が悪い。
『わたし寝てたんだけど
鍵は開けておくけど』
嘘じゃない。一応。
メールを送ってからテレビを消し、テーブルの上も片付ける。
鍵を外す。キッチンの灯りだけ残して居間は消灯した。
居間にいたら「起きてたじゃん」と言われかねない。うとうとしていたから寝ていたといえるけど、彼はきっと認めない。
二十分ほど経った頃、物音がした。
わたしはベッドに潜り背中を向けていたけど、それでも彼の気配はわかる。
居間を歩き回る音。荷物を床に下ろす音。そして水道から水を出す音。
「あれぇ? 何もないじゃん」と文句が聞こえる。
探しているのはビールだと思う。
でもわたしは平日は家で飲まないので買い置きをしない。
金曜の帰宅途中にスーパーへ寄り、彼が飲む分を買って来ている。今週は来ない予定だったから、買ってあるわけがないのに。
部屋のドアが開いた。居間の光が差し込む。
「なぁ、ビールが一本もないんだけど? 何かないの?」
彼はわたしの肩を揺すった。
「さっきメール送ったんだから、まだ熟睡してないだろ? 起きろよ。飲む物ないんだけど」
さすがにわたしも不機嫌になりながら起き上がる。彼は一瞬目を丸くした。
「あれ? ほんとに寝てたの? 悪い――でさ、ビールないんだけど。なんで?」
全然悪いと思ってないよね……そう思っても口に出せない。『面倒』だから。
「なんでって、あなたが来ない時は買ってないよ。わたし飲まないもん」
「えぇ? 気が利かないなぁ。ないならさっきのメールで言えよ」
ドアを開けたまま、彼は居間に戻って行く。
知りたいなら、普通はあなたから訊くものじゃないの?
「しょうがないからコンビニ行って来るわ……二度手間じゃん」
財布を手に取り、彼はまた家を出て行った。
彼がコンビニに行くと時間が掛かる。ついでに雑誌を立ち読みしたり、何かと物色する癖があるから。
彼が出て行ってすぐ、わたしはドアを閉めてベッドに潜り込んだ。
* * *
カーテンの隙間から日光が射していた。
あの後、すぐに寝入ってしまったらしい。
居間の方から軽いいびきが聞こえる。彼は飲みながら寝てしまったみたい。
起こすべきか迷う。ベッドで改めて寝たら、確実に昼まで眠るだろうし。
かといってソファに陣取られても迷惑だし……
スマートフォンを確認すると、五時半を過ぎたところ。
睡眠時間は短かったけどすっきりしている。起きてしまおうか。
「ねえ、そんなとこで寝てたら風邪ひくよ」
ソファで寝ている彼を揺り起こす。でも彼は一瞬目を開けた後、またすぐ眠ってしまう。
「ねえ、せめてベッドに行って寝てくれない? ここにいられると邪魔なの」
少しきつい言葉を掛けると、彼が反応した。
「邪魔ぁ? 悪かったな……ベッドが占領されてたから仕方なくソファで寝てやってんのに」
来てくれなんて頼んでいないし……という気持ちが湧く。もやもやした気分を押し込めながらテーブルの上を片付け始めた。
「あれ? ……これどうしたの?」
林立している缶の中に一本だけ、ベルギービールの瓶があった。すうっと血の気が引く。
「ああこれ? 飲み足りないなぁと思って冷蔵庫漁ったら出て来たから……でもなんか甘くて好きじゃなかったな」
悪びれる風もなく彼が言う。
「なんで勝手に飲むのよっ?」
思わず大きな声が出た。
「なんだよ……こんなの今時、その辺でも売ってるだろ?」
「これは売ってないのよ! こないだお土産でもらったばかりなのに」
途端に彼の目が鋭くなる。
「もらった? いつ? 誰に?」
「水曜日によ。いつもの――」
「ああ、あのモデルだか女優だかやってる同級生って人ね。ってか知らないよ。そんなに飲まれたくなかったんなら、名前でも書いとけよ――あーあ、目が覚めちゃったじゃないか」
彼は一気に不機嫌になり、そのままバスルームへ向かった。
わたしは茫然としたまま後ろ姿を見送る。
シャワーの水音がかすかにして来た途端に、怒りと悲しさが一気に湧き出した。
『あのビール、彼が勝手に飲んじゃった』
メッセージを送ってから時間を思い出した。
『ごめん、まだ早い時間なのに』
でもすぐに既読がついた。
『起きてたよ』
『ごめんなさい』
『あたし、休日は早起きだから』
笑顔のマークがついている。
『ビールはまだあるからさ、今度うち来た時に飲もう』
『ごめんね』
じわっと涙が溢れ出る。でも間もなく彼がシャワーからあがるのを思い出して、慌てて深呼吸した。
『彼がゆうべ急に来たの』
『ああ、了解』
彼女は『またね』というスタンプを最後に送ってくれた。長く話していられないことを察したようだった。
携帯をカウンターに置くのと同時に、バスルームのドアが音を立てる。
わたしは急いで片付けを再開した。




