その6:彼に話が通じないんだけど、どうしたらいいのかわからない。
彼の解説によると、W氏の返信に記載されていた彼のメール部分は、日曜日にわたしの目の前で送ったものの全文とのこと。
つまりたったの五行に対し、倍の返信をつけて来たことになる。
改めてW氏のメールを最後までスクロールしてみると、文末に『了解』というひと言が残っていた。
どうやらW氏は、自分の返信に更に返信するような形で、さっきのメールを送って来たらしい。
彼にしてみれば、一度『了解』で終わった話題に、何故W氏が改めて――しかも、的外れな内容を――返信して来るのかが理解できない、ということらしい。
理解できないというより、W氏は元々そういうところがあるのだけど、数年振りにそれを見てうんざりしたため、わたしにも見せて感想が欲しかったらしい。
『らしい』ばかりで自分でもうんざりする。でも正直な気持ちを言えば、こんなおすそ分けはいらなかった。
* * *
水曜日。昼休みが終わる頃に彼からメールが届いた。
W氏との飲み会は再来週になったとのこと。
わたしは返信をしなかった。
というか、この連絡すらいらないのに……と思っていた。
今週末だという話ならまだわかるけど、来週でもなく再来週の予定なんて、いつでも話ができるのだから。
彼がW氏に影響されて来ているような気がして、居心地が悪かった。
今日は定退日。好きなものを食べて好きなことをするリフレッシュ日。
そう決めているのに気分が沈んでしまった。
どうにかして切り換えないと……
* * *
W氏との飲み会の日には、うちに来ないようにお願いした。
積もる話もあることだろうし、午後七時から始まる飲み会が午後九時にお開きというわけにはいかないはず。
彼がどれくらい飲んで来るのかはわからないけど、夜中になってから酔った彼の相手をしなければいけないのを考えると、それだけで心が重くなるから。
「なんでだよ。別にいいじゃないか」と彼は不満そうだった。
「あなたの家の方が帰るにも近いでしょ? ひょっとしたらこの辺は終電が終わっているかも――」
「終電前には離脱したいんだよ。そのための口実なんだから」
「わたし、それまで起きてなきゃいけないじゃない」
「いつもはもっと夜更かしだろ?」
「そういうことじゃなくて……」
『起きている』ということと『起きていなければならない』のは別なのに。
わたしは不眠症でもなければ、毎日必ず夜更かしをしているわけでもない。
彼が来ている時はどうしても夜更かしになるけど、ひとりで過ごす日は眠くなったら早めに寝ることだってある。
「わかったよ。じゃあ勝手に寝てろよ。俺は玄関先で寝るから」
「そういうことを言うのはやめて」
彼は何故わたしを困らせるようなことを言うのかしら。彼と話をしていて、こんなにも毎回イライラしなければいけないのは悲しい。
すべてW氏の件があってからのような気がする。
「鍵を開けておいてくれれば、それでいいから」
「だから、何故そうまでしてうちに来なきゃいけないの?」
「土曜の夜からこっちに来るのは面倒じゃないか」
「……え?」
また彼の『面倒』が出た……と思うよりも先に、彼が何を言い出したのかがわからなかった。
「だから、土曜はいつも遅くまで寝てるだろ? その前の日に飲み会があったら、いつもより寝るかも知れないじゃないか。そしたら、昼過ぎに起きて、それから何か食べてシャワー浴びて……って考えたら、こっちに来るのが夕方か夜になるだろう? そんなの面倒じゃないか」
「じゃあ、無理して来なくてもいいんじゃない?」
途端に彼がむっとした。
「来るなっていうのか?」
「そんなこと言ってないでしょ。無理したり面倒だっていうなら――」
「無理してないし、一度帰るのが面倒なだけだから、直接こっちに来た方が早いじゃないか」
「でも、飲み会の次の日はお昼過ぎまで寝ているんでしょう?」
その間、普通に目を覚ましたわたしは何をしていればいいの?
映画に行った日のことを思い出す。
あの日は『普通』に起きた彼が『いつも通り』に朝食を食べたり支度をしたりするのを、わたしはずっと待っていたのだから。
誰かが寝ていると思えば、大きな音を立てないようにしなきゃいけないという意識が働く。洗濯くらいならできても、掃除機を掛けるのははばかられた。
「それが嫌なら起こせばいいじゃん。俺が起きるかどうかは知らないけど」
彼は平然とした顔で言う。
「そんなことするくらいなら放っておくわよ」
だって、起こしてもその時に起きるかどうかわからないじゃない。飲み過ぎて二日酔いにでもなっていれば結局、その日一日が潰れてしまう。
彼は「勝手に出掛けて来てもいいよ」と言うけど、そういう問題じゃない。
彼が留守番をしていると思えば、こちらもあまり遅くならないように、時間を気にしながら用事を済ませなければいけなくなる。
ちょっと気になるお店を覗きに入ってみたり、脚が疲れたから、じゃあカフェでひと休み……などということができないのだから。
「何か俺に来て欲しくない理由があるのかよ?」
「そんなこと誰も言ってないでしょう?」
「じゃあなんで『来るな』って言うんだ」
彼が突然、話の通じない宇宙人にでもなってしまったような気がした。
「わたしはあなたのなんなの? 召使い? 奴隷? どうしてわたしをあなたの都合に合わせて振り回そうとするのよ!」
彼は一瞬、ポカンと口を開ける。
次の瞬間「じゃあ勝手にしろ!」と怒鳴り、テーブルの上の缶ビールを手で薙ぎ払った。
缶が二本、中身を撒き散らしながら飛ぶ。ひとつはテレビの画面に当たり、ひとつはキッチン近くの床に音を立てて転がった。
それほど広くないLDKの床はビールにまみれた。
彼はスマートフォンとバッグを手に取るとそのまま出て行き、大きな音を立てて玄関のドアを閉めた。
* * *
しばらくの間、ビールの匂いが充満する部屋の隅に座り込んでいた。
掃除をしなければ――と頭ではわかっている。
不幸中の幸い、床はフローリングでカーペットやラグも敷いていない。ざっと水分を拭き取ってシートタイプの掃除用具でもう一度拭き上げれば、それで済む。
わかっているのに、身体が重くて身動きが取れなかった。
いつの間にか携帯を握り締めている。ひょっとしたら彼から連絡が来るかもと思ったらしい。
彼は一旦頭に血が上るとしばらく冷静になれない。そのため『物理的に』わたしとの距離を取るという癖がある。
電話かメールかは知らないけど、彼から連絡が来るまでは、こちらからは何もしない。早ければ一時間程度、遅くても翌日かその翌日には来るのだから。
彼はわたしから連絡をして来ないのが不満らしい。だけど、わたしが悪い場合ならともかく、そうじゃないのに機嫌を取るようなことはしたくない。
ふと思い付いて、メッセージアプリを立ち上げる。
いつも連絡している相手と話したかった。でも彼女は彼女の週末を送っているだろうから、本当なら干渉したくなかった。
しばらく迷ってから、スタンプをひとつだけ送る。
『ご機嫌いかが?』という意味のスタンプで、それに対する反応を見てから考えようと思っていた。
ほどなく彼女からメッセージが届いた。
『あれ?めずらしいね』
ハテナマークがついた顔の絵文字つきだった。
『今、大丈夫?』
『ぜんぜんおっけーだよ』
『ごめんね』
『何?どうしたの?』
『彼とケンカした』
『大丈夫?』というスタンプが届く。
『どうしたらいいのかわからない』
そう送った途端、涙が出て来て止まらなくなった。