その10:彼に付き合いきれなくなってきたんだけど、どうしたらいいのかわからない。
「次からがもっと酷いんだ。それでさすがにどうしようか迷ってる」
彼にうながされて、わたしはメールを開いた。
『「サシ飲みの件はチャラ」は了解
それ以外でWが何を言いたいのか、まったくわからん
愚痴りたいなら日記でも書いてくれ
金と俺の時間を浪費する話じゃないなら聞いてもいいが
結局どうしたいんだ?』
彼は本気で『わからない』わけじゃないようだった。なのにこんな書き方をしたのは、W氏の『察して』や『構って』をブロックするつもりなんだと思う。
まぁわたしも、自分たちの記憶と明らかな齟齬がある人との会話はきついと感じるし。
彼に対しても時々あるのだから、恋人でも親友でもないのだとしたら、距離を置きたくなる気持ちは理解できる。
『まあ単に今の自分の状況だと、Nに迷惑がかかるなあと思ったんで。
Nがかまわないなら俺はいつでもOKだけど。
あ、金には困ってないぞ。母親の遺産が少しはあるんで。
Nが負担するのは時間かな。』
『なんにせよ、何かしら俺に迷惑がかかる前提なら遠慮してくれ
Wの意図がわからないのが困る
独り言をつぶやきたいなら俺にメールするよりSNSで書いた方が何倍もいいだろ?
暇人がわんさと湧いてレスしてくれるぞ
俺はやってないから知らんけど』
『いやNが困らんならサシ飲みしてもいいんだけど。
俺は、スケジュール的に大変かなあって思っただけで。
あと俺が今ちょっとアレなんで、それにつき合わせるのも悪いなあと。
1から10まで聞いて欲しいからさ。
他のやつには言えないけど、一度全部吐き出したかったし、
じゃあ誰がいいかと思ったらNが浮かんだんで、持ちかけたんだが。
マジで兄弟には言いたくない話もあるからさ。』
『迷惑がかかる前提ならほっといてくれと言ってる
俺はそういうサービス業じゃないんだ
身内にも話せないような話をされても持てあますし
メンタルケアは自分でどうにかしてくれないか
身内に言えないなんて、どんだけ重い話なんだよ
俺の精神的にくるような話されても
「そんなこと言われてもオレにどうしろと?」だよ』
『いや俺は別に迷惑じゃないよ。大丈夫。
Nが迷惑に思うかなあと思っただけ。
まぁ精神的に来る話ではあるかも知れんが、だから身内にだけは話せんのだ。
どうしても嫌ならいいよ、別に。
でもなあ。もう身内にも見放されてるんだよな、俺。
親父にも兄弟にも。
俺だけが悪いんじゃないのに。
と言うか逆に、俺に否があるとは思えないのに、
何故かやつらが勝手に怒り出すんだよな。
Nにまで見放されたら、俺はもう一人でやっていくしかない。
あ、聞いて欲しいのはもう終わった話だから、
アドバイスが欲しいとか助けて欲しいわけじゃない。
ただ聞いてほしいだけなんだ。』
こんなにも噛み合わない会話ってあるんだろうか。
彼も、変に皮肉を混ぜるからややこしくなるのに。それでも二回も『迷惑だ』と伝えてるのに『俺は迷惑じゃない』と返されると困惑する。
彼が宇宙人に見える時があるけど、W氏はもっと遠い星の人か寄生虫のように思ってしまう。
「なんか……申し訳ないけど、読んでて気持ち悪くなった。もう返事を書かない方がいいんじゃない? そのうちWさんも諦めるんじゃないかな」
「やっぱ書かない方がいいのかな。でも何度も送って来るからさ」
「相手をしているから、Wさんもまた送って来るんじゃない? メールでもメッセージでも、どちらかがやめないと終わらないよ? 直接知らない人だからなんとも言えないけど、今までWさんが『それじゃ』って切り上げたことあるの?」
彼はしばらく無言で考えていた。
わたしは携帯を持っているのも気持ち悪くなって彼に返す。
彼はため息をついて携帯をポケットへねじ込んだ。
「あいつがメールでも電話でも『それじゃあ』ってやめたことはなかったような気がするな……電話も、ワン切りやメールで呼んだりして相手に掛けさせるような性格だったし」
なんてケチなんだろう。
もっとも、無職だから仕方ないのかも知れないけど。
でも今だって無職らしいから――
「ねえ、仮にWさんの家でサシ飲みするとしたら、割り勘だよね?」
少し嫌な予感がして来たので訊いてみる。
すると彼ははっとして顔を上げた。
「それは……わからないな」
わたしは、彼が腹を立てた時のことを思い返していた。
自分の怒りには冷却期間を取れるのに、他人には距離をおけないのも、彼のいいところであり、同時によくないところなのかも。
「やっぱり、しばらく放っておいた方がいいよ。なんにでも冷却期間って必要でしょ?」
* * *
彼からまた水曜日にメールが届いた。内容はW氏の件で、返信するなと言ったのにしたらしい。
W氏の件だけじゃない。
週末はなるべく邪魔が入らないように配慮している代わりに、水曜日はわたしの邪魔をしないで欲しいと何度も言っているのに、どうして狙ったように送って来るんだろう。
よほどの用事でもない限り水曜日は返信しないと言っているので、わたしはそのメールを放置しようと決めた。
W氏のメールを転送されても困るし、どうしたらいいか訊かれてこちらは真面目に考えて答えてるのに、それを簡単に破られるのも気分がよくなかった。
「どうしたの? 彼から?」
ほろ酔いの彼女は機嫌を損ねた様子もなく訊ねる。
今日は最初から彼女の部屋に行き、二人でケータリングを頼んだ。
せっかくゆっくり楽しめると思っていたのに水を差されてしまい、わたしは気分が悪かった。
「ごめんね、大した用事じゃないからほっとくよ」
「いいの? また何通もメールが来るんじゃない?」と彼女はクスクス笑う。
「いいよ。さすがに電源切っておくわけにはいかないけど、サイレントにしてバッグに入れておく。もう付き合っていられないよ」
「じゃあ付き合うのやめたら?」
「あ、そうか。今度Wさんの話を振って来たらもう聞かないって――」
「ううん。話にじゃなくて、彼と付き合うのやめたら?」
ふふ、と彼女は息で笑い、桃のカクテルを飲み干した。
「……本気?」
「もう充分わかったでしょ? 結局男なんてそうなのよ。彼はあなたに寄り掛かってばかり。Wさんって人も、あなたの彼に寄り掛かろうとしてるじゃない。彼ら、似た者同士だと思うわ」
「うん……それはわたしも思ってた」
「あなただって、男の人は女の人より優位なつもりをしている気がする、って言ってたじゃない」
彼女はソファから立ち上がり、わたしに近付く。
「言ったけど……」
「だから……ね、もうやめましょ?」
彼女はわたしの頬を両手で挟み、上を向かせる。しっとりした細い指が、火照った頬に触れると気持ちよかった。
「あたし、そろそろ水曜日だけじゃなくて週末のあなたも欲しいわ。もちろん週末だけじゃなくずっと……同居の手段が色々あることは、今の世の中に認知されつつあるわ。部屋をシェアしてるっていう話にしてもいい」
彼女は一瞬だけ、悲しそうに目を伏せる。
「ごめん……だってやっぱり、世間向けには男の人と付き合った方がいいかなって思ってたんだけど」
「そろそろいいんじゃない? パートナーの件も、あなたさえ許してくれればあたしは――学生の頃からずっと付き合っているのに」
彼女は我慢できないという表情でわたしに近づいた。
甘い香りがするのは彼女が飲んだ桃のカクテルだろうか。
もちろん、彼女自身の肌の香りも甘い。
学生の頃からの、わたしの大切な彼女――わたしたちはそっと目を閉じた。