とある卒業式の日
卒業間近のある日。君は僕に、歌を書いてほしいと言った。僕が趣味で作詞をしていることを、彼女は知っていた。
気恥ずかしかったけれど、もうすぐ離れてしまう彼女の最後の笑顔が見たくて、僕は歌を書いた。
せっかくの、彼女に想いを伝えるチャンスを掴んだのに、いざペンを取ると思うように手が動かない。
――こんなにも 想いは溢れそうなのに。
正直になれない僕の心が、邪魔をする。
僕は、ずっと前から君が気になっていた。桜の木を眩しそうに見上げる、その横顔に心を奪われて。
でも、僕の不器用さが顔を覗かせ、君に「好き」を伝えられないでいた。
夏の、夕日の差し込む教室で、学級日誌を君に渡した。
ありがとう。それだけの会話に、僕は胸が高鳴っていた。
秋の文化祭でも冬の木枯らし吹く帰り道でも、情けない僕は、君の横顔を時折盗み見るだけ。
――こんなにも、想いは溢れそうなのに。
正直になれない僕の心が 邪魔をする。
僕は、ずっと前から君が気になっていた。花壇の花を愛おしそうに見つめる、その横顔に心を奪われて。
でも、僕の不器用さが顔を覗かせ、君に「好き」を伝えられないでいた。
君を想い続けるには、一年の月日は短すぎて。
でもせめて、ただ君を見ていることから卒業したくて。
今、ペンを取る。
僕は、ずっと前から君が気になっていた。桜の木を眩しそうに見上げる、その横顔に心を奪われて。
だから僕は、不器用さを隠して、君に「好き」を伝えることに決めた。
今日。僕は桜の木の下で、彼女にこの歌を送る。
――彼女の、最後の笑顔が見たくて。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今日。僕は桜の木の下で、彼女にこの歌を送る。彼女の、最後の笑顔が見たくて。
――今さらながら、やっぱり恥ずかしいよなあ。
肩から下げた通学鞄の中にある便せんを思い浮かべ、僕は長い息を吐いた。何度も何度も歌詞を書き直して、ほぼ夜通しで書き上げたものだ。だが、人に送るという前提で歌を書くことは、予想以上に緊張を強いるものだったことに、僕は初めて気が付いた。
しかも、内容はまるで恋文のよう。
最後に「彼女の、最後の笑顔が見たくて」なんて書いたけれど、これで彼女が不愉快にでもなったらどうするんだよ。
心の中で自分に突っ込みを入れるが、書いてしまったものは仕方がない。そもそも、クラスでも密かに人気があって、小柄で笑顔が可愛らしくて、真面目でしっかり者という彼女に告白なんて。無謀と言うほかない。
でも。だからこそ、この機会なんじゃないか。
裏庭の桜の木の下で彼女を待ちながら、僕はひとりでに呟く。今日見事に彼女から「ごめんなさい」と言われたとしても、高校を卒業してしまえば彼女と会うこともなくなる。大学が彼女と遠く離れてしまうことは、彼女が友人と話していたのを偶然耳に入れ知っていた。
これも、一つの思い出。か。
「――ごめんね、遅くなって」
声のした方に顔を向けると、春風に肩までの髪をなびかせながら、彼女が走ってくる姿が見えた。
「先生と長く話し込んじゃって。なかなか終わってくれないんだもん、中谷先生」
「ああ、先生の話はいつも長いもんな」
白髪交じりの人の良さそうな笑顔を常時浮かべている担任を思い浮かべ、僕は苦笑する。あの人は、ホームルームに限らず、授業中のおしゃべりも途轍もなく長いのだ。
「――あのさ。これ」
彼女の息が整うのを待って、僕は通学鞄から便せんの入った封筒を取り出した。封筒の隅には、桜のイラストが小さく添えられている。滅多に足を踏み入れない雑貨屋で、購入したものだった。
僕から封筒を受け取った彼女は、しばらくそれをじっと見つめた後、不意に言った。
「これ、今読んでもいいかな」
「え」
「楽しみにしていたのよ。どんな歌を書いてくれるのか、わくわくしていたの」
「――大した内容じゃないよ」
「そう? まだ見ていないけれど、きっと素敵な歌だと思うな」
ふわりと微笑む彼女を、午後の柔らかな日差しが照らす。その笑顔に押されるように、僕はこくりと頷いてしまった。彼女は、封をそっと開けて便せんを取り出した。
――過ぎてゆく時が、途方もなく長く感じた。便せんに視線を落としたまま動かない彼女と、そんな彼女をじっと見つめる僕。二人の間の沈黙に、遠くから卒業生の賑やかな声が重なる。
僕は、何だか無性にいたたまれない気持ちになって「じゃあ。本当に、大した中身じゃないから」と、言い終わらないうちに彼女にくるりと背を向けた。恥ずかしさと、元来の不器用さが、きっと僕をそうさせたのだと思う。
返事も感想も待たぬまま、僕は駆け足でその場を去ろうとした。
「――待って」
他の誰でもない、彼女のその声に、僕はぴたりと足を止めた。けれど、このまま振り向く勇気が今の僕にはない。彼女に背を向けたまま、僕はじっとしていた。
「ありがとう。すごく、素敵な歌だった」
彼女の表情が見えないことが、唯一の救いだった。どうせ、言われることはわかっている。構える必要なんて、これっぽちもないんだ。言いきかせながら、握りしめた拳に汗がにじむ。
「私もね、短かったなって、思ったの」
「え?」
予想外の言葉に、僕は思わず彼女の方を振り返った。そこにあった、今にも泣き出しそうな少女の顔に、僕は心臓をどきりとさせる。
「一年間。誰かと過ごして、その誰かのことを知るには、実はとっても短いんだなって」
返す言葉が思い浮かばす、僕はただ語りかけるような彼女の声に耳を傾ける。
「私、その人のことをずっと見ていたつもりだったけれど、多分今でも、知らないことだらけなんだなって。もっともっと知りたいけれど、その人に会うのも、多分今日が最後なんだろうなって。この歌を読んで、ちょっと寂しくなっちゃった」
彼女の言わんとすることが、わかった気がした。彼女には、想い人がいるのではないか、と。
それは、誰なんだい。ききたいけれど、僕の気の弱さが顔を覗かせ邪魔をする。踏み出しかけた足を止めさせる。
「――そっか。やっぱり、卒業の日ってそんな風に思う人多いのかもね」
情けないくらいに、つまらない言葉だけが口を出る。違う。僕が伝えたいことは、もっと違うことなのに。
「そうだね。でも」
「――でも?」
「この歌を読んで、勇気が出たの。私もこの歌のように、最後にちゃんと想いを伝えようって。だから、とても嬉しかった。この歌を書いてくれて」
泣きそうな、でもどこか嬉しそうな。マーブル色のようないろんな感情の混ざった笑顔で、彼女は言う。そんな彼女に、僕は最後にできることをしようと思った。
「じゃあ、その人に伝えに行きなよ。君の想い」
伝わるよ、きっと。力強く言い残して、僕は今度こそ彼女に背を向けた。彼女の背中に少しだけ、勇気を送れたのだと思うことにした。
「――わかった」
三度目。僕は、踏み出そうとしたその足を止めた。
「伝えるよ、私――今」
二度目。僕は、彼女を振り返った
「あなたに。伝えます」
初めて。僕は、彼女の頬を伝う涙を見た。
「――あなたのことが、好きです」
春風が、桜を吹雪かせた。まだ音のない僕の歌は、だが透明色の音になって、風に乗り青空に届くようにさえ思えた。