廻
ガタン ゴトン
揺り籠のような揺れを感じた。重い瞼を持ちあげると、見慣れない光景が目に飛び込んできた。
ここはどこだ。
慌てて体を起こしたが、なんとなく体が重いし、痛い。床についた手には、堅い床板の感触があった。
見回すと、そこは電車の中のようだった。一両だけのその電車には、両サイドにロングシートが設置されており、自分以外誰もおらず、窓の外の景色は真っ暗だった。対照的に、車内は明るい。その明るさが、窓から見える外の黒を不気味に浮かび上がらせているようだった。
今は夜なのか? いくらなんでもこれは暗過ぎる。
窓から外を眺めてみるが、まるで、窓の外に真っ黒なペンキをぶちまけたような、一面の黒だった。どこまでが地面で、どこまでが空なのか、それすらわからない。走っているはずの線路すら見えなかった。
しかし、この電車が走っているという感覚は確かにある。揺れも感じるし、聞こえてくる音は確かに電車が走っている音だ。
「なんだよ、これ……」
思わずそう呟いてた。
「あなたの電車ですよ」
思わぬ返事が返ってきた。
驚いて背後を振り返ると、そこには車掌服に身を包んだ子どもが立っている。
おかしい。さっきまで、そこには誰もいなかったはずなのに。
「誰だ?」
「車掌です」
帽子を目深にかぶったその表情は窺えない。
「なぁ、ここはどこなんだ?」
「さぁ」
「なんで、俺この電車に乗ってるんだ?」
「さぁ」
「この電車、どこに向かってるんだ?」
「さぁ」
まったく同じ答えが続いて、俺は面食らった。
「さぁって……お前、車掌なんだろ。なんでわからないんだよ」
「私はあなたの電車の車掌以外の何物でもありませんので」
わけがわからなかった。これが自分の電車だと言われても、そんな記憶はない。
「どういうことだよ、俺はこんな電車に覚えはないし、あんたにだって初めて会った」
「そうでしょうね、私もあなたにお会いするのは初めてですよ」
ますますわけがわからない。
そうしている内にも、電車は休むことなく走り続けている。音や振動で確かに走っていると感じられるのに、景色は真っ暗のまま流れないのは妙な感覚だった。
俺は不安になってもう一度車掌に尋ねた。
「なぁ、どうして俺はこの電車に乗ってるんだ?」
「ご自分で考えた方がよろしいと思いますよ」
「考えてもわからないから聞いてるんだろ」
どうやら教える気がないらしい。
俺は諦めて、窓枠に手をかけてみた。窓はまるでそこにぴったり埋め込まれているようにビクともしなかった。
他に人影を探して車内を見回すが、やはり自分と車掌と名乗った子ども以外誰もいない。壁には広告なども何もなく、殺風景な車両だ。
「この電車、駅には止まらないのか?」
答えを期待せず聞いてみた。
「止まりますよ」
「え、嘘!?」
止まるという事実に対する驚きと、まともな答えが返ってきたことに対する驚きで声が上擦った。
「いくつか止まるべき駅があります」
「降りられるのか?」
「降りてどうするんです?」
「いや、どうするって……」
降りてどうするかなんて考えていなかった。とにかく降りたかった。帰りたかった。
「どこに?」
「え?」
「この電車を降りて、あなたはどこへ帰ろうというのですか?」
口に出していないのにどうして考えていることがわかったのだろう。
目の前の車掌に薄ら寒いものを感じながら、答えられずに逃げるように窓の外に目をやった。相変わらず真っ暗なままだ。止まる駅にはいつ着くのだろう。
「もうすぐ着きますよ」
また心を読んだかのように答えられた。
「……お前も座れば?」
車掌はずっと立ったままだ。ゆっくり走っているとはいえ、多少は車両も揺れているのに、車掌はぐらりとも揺るがない。まるでこの電車に生えているようだ。
「私は車掌ですので。座席はお客様のためのものでございます」
少し笑ったようだった。車掌と言ってはいるが、どうみても小学生くらいの容姿で、見た目の割に大人びた物言いをしているが、笑った時だけは年相応に感じられた。
この車掌は一体何者なのだろう。
そう思ったが、車掌はその疑問には答えてくれなかった。
お互い黙ったまま、電車は暗闇の中を静かに進んで行った。
ガタン ゴトン
ガタン ゴトン
何分経ったのかはわからないが、電車が速度を落とし始めたのがわかった。どうやら止まるべき駅とやらに着くようだ。
「今止まる駅に名前はあるのか?」
「ありませんよ」
至極当然のことのように答えられた。
「さっき、止まるべき駅って言ってたけどさ、止まる理由はなんなんだ?俺は降りられないって言うし、誰か乗るのか?」
「えぇ、乗りますよ」
妙な電車だが、ちゃんと乗ってくる客がいるということに、なぜか安堵した。少なくとも、この車掌と二人きりの空間が終わるのだ。
「ドアが開きます」
車掌の事務的な声の後、ドアが音もなく開いた。真っ暗な中に人影がぼんやりと浮かび上がり、電車に乗り込んだ。
乗ってきたのは、ランドセルを背負った小学生の男の子だった。
黄色い学童帽を被り、黒いランドセルには光を反射するテープが無造作に貼られ、右側には給食袋が下げられている。
懐かしいな、なんて思いながらその小学生を見ていると、自分の向かいのシートに歩み寄り、背負っていたランドセルをシートにポンと乗せるとその横にちょこんと座った。
「ドアが閉まります」
車掌の声の後にドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出した。
「一人か?」
試しに男の子に話しかけてみた。
「うん」
すぐに答えが返ってきて、少しホッとした。
「どこに行くんだ?」
「次の駅まで」
「そうか。なぁ、教えて欲しいんだけど」
小学生は黙ったままこちらを見た。その顔を見て、どこかで会ったことがあるような気がしたが、どこで会ったのか思い出せなかった。
「この電車、どこまで行くか知ってるか?」
「知らないよ」
「そっか。この電車、どこを走ってるか知ってるか?」
「知らないよ」
「じゃあ、さっきお前が乗ってきたのはどこなんだ?」
「知らないよ」
まるでその言葉しか知らないような答えに、車掌に抱いた感覚と同じものを感じた。
「お兄さん、何歳?」
突然男の子が尋ねてきた。
「え、俺? 一七だよ、高校三年」
「大人だね」
男の子は笑った。
「大人なんかじゃないって」
「高校生はもう大人だと思うよ」
「そうかな」
思えば、自分も小学生の頃は、近所の高校生たちを見て大人だなあと思っていた記憶がある。
だが、いざ自分が高校生になってみると、中身は全然変わらないと実感した。
「ねぇ、お兄さんは小学生の頃、学校楽しかった?」
随分唐突に聞くんだなと思いながら、小学生の頃のことを思い出した。
「そうだな……楽しかった、と思う。嫌だった記憶はあんまりないし、毎日学校行って友達と遊ぶのが楽しかったな。あの頃は、勉強するって言うより友達と遊びに学校に行く感じだった」
小学生の頃は、毎日が楽しかった。
何も考えずに、友達と一緒に学校に行って、勉強して、たまにいたずらして先生に怒られて、いっぱい遊んで、放課後も友達と遊ぶ。難しいことなんて、何も考えなくてよかったあの頃が懐かしい。
そんなことを思い出していると、突然窓の外に景色が映し出された。
「な、なんだ?」
自分の向かいの窓、男の子の背後に景色が流れて行く。よく見ると、自分が通っていた小学校、校庭、通学路、そして小学生の頃の自分と友達の姿だった。どういうことかわからず呆然としていると、会話が聞こえてきた。
――なぁ、お前将来の夢の宿題ってなんて書く?
――僕は警察官!
――へぇ、すっげー!
その会話を聞いて、小学生の頃の友達とこんな会話をしたことがあると思い出した。あの頃、自分はなんて答えたっけ。
――お前こそ、何書くの?
――えー……俺はお金持ちになりたいかな。
――なんだそりゃ!
笑い合う二人の小学生を窓越しに見つめていると、男の子が口を開いた。
「将来の夢をちゃんと言える友達がうらやましかった」
男の子は淡々とした調子で続けた。
「将来のことなんか、全然思い浮かばなかったんだ。ただ、毎日友達と遊んでいられればいいなって。ううん、むしろそんなことが当たり前で、ずっと続くんだと思ってたんだ。いつか大人になって、働くようになるなんて考えてなかったんだ」
男の子の紡ぐ言葉に、俺は心臓を掴まれたような思いだった。まったく同じことを俺は思っていた。
「この頃はよかったよね。毎日が楽しかったし、時間なんてあっという間に過ぎちゃって」
「お前……」
「ねぇ、どうしてみんな今のままでいられないの?」
男の子は笑っていた。その言葉に悲しみは感じられない。
「……」
俺は、その質問に答えることができなかった。
やがて、窓の外の懐かしい景色は消え去り、元の真っ暗闇に戻っていた。
電車はその後も走り続けた。
ガタン ゴトン
「こんな言葉をご存知ですか?」
突然車掌が口を開いた。
「そちらのお客様はまだわからないかもしれませんが」
車掌は男の子に目を向けて微笑んだ。男の子は首を傾げるだけだ。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
流れるように紡いだそのフレーズは、授業で聞いたことがあった。確か、方丈記だっけ。日本三大随筆と習った記憶がある。
「これは、流れて行く川の水のように、ずっと同じものはこの世にないのだということを表しているとされています。流れて行った川の水は、もう二度と元の場所へは戻ってこられません。時の流れも、同じですよ」
車掌は男の子に微笑んだまま続けた。
「ずっとこのままでいたいと思うのは、誰もが抱く思いです。ですが、留まることはできません。水は流れるしかありません。あなたは、流れて行く先に希望があると信じて、流されていくしかないのですよ」
男の子は黙って車掌の話に耳を傾けていた。気づけば、俺も車掌の話を真剣に聞いていた。
「じゃあ、諦めるしかないの?」
男の子が尋ねた。車掌は尚も微笑んで答える。
「諦めるのではありませんよ。楽しい時間は永遠ではありませんが、流れて行く先でまた楽しい時間を見出せばよいのです。辛いことがあっても、いつか流れて過ぎ去ってしまいます。考えなさい、流れて行く川の中で、自分がどんな選択をするべきなのか」
「……なんだか難しいね」
男の子は首を捻って考える素振りをした。
「でも、考えてみる」
車掌はその返事を聞くと、満足そうに頷いた。
すると、電車がまた速度を緩め、駅に止まった。
「ドアが開きます」
音もなくドアが開き、男の子が立ち上がってランドセルを背負った。
「お兄さんはまだ乗って行くの?」
「あぁ」
俺は降りられないらしいし、真っ暗な向こう側に行く勇気はなかった。
「ばいばい」
「じゃあな」
お互い手を振って、男の子――小学生の頃の俺――は電車を降りて行った。
「ドアが閉まります」
真っ暗闇に吸い込まれていくランドセルを見送って、ドアは閉まった。再び、ゆっくりと電車は動き出す。
「あんた、子どもには優しいんだな」
「そうですか?」
車掌は首を傾げる。
「私は、人を見て態度を変えたりしませんよ」
「あ、そう」
それでも、やはり子どもに対する口調より俺に対しては若干素っ気ない感じがしてしまうのは気のせいだろうか。
「気のせいですよ」
口には出していないのに、また車掌の答えが飛んできた。
ガタン ゴトン
ガタン ゴトン
単調なリズムを刻んで走っていた電車のスピードがゆっくりと落ちてきた。
次の駅に到着したらしかった。
「ドアが開きます」
再び車掌のアナウンスの後にドアが開いて、真っ暗闇から人影が電車に乗り込んできた。
学ランを着た、男子中学生だった。
ショルダーバッグを肩に掛け、少し襟元を着崩したその少年は、暗い顔のまま小学生の時のように俺の向かいのシートに座った。
「ドアが閉まります」
ドアが閉まり、電車が動き出した。
少年をみると、無表情でずっと俯いている。寝ているわけでもなく、じっと足元を見つめていた。こいつも、俺なのだとわかった。
「なぁ」
俺は声をかけてみた。すると、少年はゆっくりと顔をあげた。
「……何?」
力ない返事が返ってくる。中学の頃、俺はこんな感じだっただろうか。ぼんやりしていてあまり当時のことを思い出せない。
「覚えてないんだ」
少年は唐突にそう呟いた。まるで俺を責めているような感じだった。
「いや、うん……悪い」
なぜかすごく申し訳なくなって謝った。自分に謝るなんて変な感じだ。
「仕方ないよな」
少年はそう呟いた。
「小学生の頃はさ、喧嘩したってすぐ仲直りできてたじゃん」
遠くを見るような目で、少年は話し始める。
「すっごく単純なことで友達になったり、喧嘩したり、仲直りしたり、本当単純だった。中学になるとさ、なんかみんな大人ぶって、変な意地はって、いろいろ考えるようになってどんどん複雑になっていった」
そんなものだっただろうか。
「周りのことをやけに気にするようになって、自分の考えを押し殺して周りに合わせるようになるんだよ。空気読まないで自分の意見を押し通そうとすれば、反発を食らうからさ」
「そんなもんか?」
すると少年は俺を見た。
「そんなもんだったじゃん」
突然、窓の外が明るくなった。
窓の外に見えたのは、中学の教室だった。そこには学生服を着た俺と友達がいた。
「あいつ……」
一緒にいた友達は、小学校の頃からの幼馴染だった。
「あいつはいじめられてるって言ってた」
少年が口を開いた。
「俺は言ったんだ。黙ってるから駄目なんだって、ちゃんと言い返してやれよって」
窓の外の幼馴染は笑っている。
――僕は君みたいに強くないんだよ。
あぁ、確かにそんなことを言われた気がする。
「あいつへのいじめはどんどん酷くなっていったけど、物を隠されたり壊されたりしても、あいつは文句なんか一言も言わなかった」
少年はじっと俺を見つめる。
「俺も、何もしなかった」
まるで心臓を突き刺されたようだった。
「いじめられているのを見ても素知らぬふり。あいつが助けを求めて来なかったから、俺は何もしなかった」
少年の目が俺の体を射抜く。
その間にも、窓の外の風景はどんどん移り変わり、幼馴染がいじめられている様子が流れて行く。
「助けてって一言、あいつに言って欲しかった」
幼馴染のボロボロになった机と椅子が見えた。
「そう言われなきゃ、動けなかったんだ」
ボロボロの鞄を持って帰る幼馴染の背中には、絵具のシミがあった。
「そんなことを理由にして逃げてた。ただ怖かっただけなんだ」
幼馴染の机の上には、花が活けられた花瓶が置かれていた。息をするのが辛くて、気づかない内に俺は心臓の辺りをぐっと掴んでいた。痛いほど心臓が脈打っている。
「あいつは、誰も責めなかった。俺のことも責めなかった。俺はそれに甘えてた」
窓の外を流れて行く幼馴染と目が合った。俺は目を逸らせなかった。
「なぁ」
中学生の俺は、悲しそうな顔で俺を見ていた。
「後悔してるか?」
ガタン ゴトン
「ドアが開きます」
車掌の声でドアが開く。
気づけば、窓の外の景色は消え去り、電車は駅に着いていた。中学生の俺はすっと立ち上がって、何も言わずに電車を降りて行った。
俺は、声をかけることができなかった。
「ドアが閉まります」
車掌の声でドアが閉まり、再び電車は走り出す。
「大丈夫ですか?」
車掌が声をかけてくるが、俺は何も言えずに首を横に振った。まだ、息をするのが苦しい。
「無理もありませんね」
「……なんだよ、この電車……さっきから、どういうことだよ」
これは悪い夢なのだろうか。夢なら早く覚めて欲しい。
「夢じゃありませんよ」
車掌はそんな俺の願いを一言で打ち砕いた。
「現実でもありませんが」
「……なんだよ、それ」
俺は深く息を吸って、吐き出した。嫌な汗をかいた。
「なぜそれほど気に病んでいるのです」
「なぜって」
「ご自身のせいでご友人が死んだのだと、思い込んでいるのですか?」
また息が止まるかと思った。
「事故と処理されたのなら、素直にそう受け取っておけばいいじゃないですか。ただの事故で死んだのなら、あなたがそれほど気に病む必要もないでしょうに」
「なんで、それを……」
車掌は答えなかった。
確かに、幼馴染は交通事故で死んだ。
トラックにはねられて、即死だった。運転手のよそ見運転のせいだということになっていたが、俺は違うと思っていた。
あいつは、自分で車道に出て行ったんじゃないかって。
「集団と違う道を歩くということは、勇気のいることですよ」
車掌は答えなかった代わりにそう口を開いた。
「あなたの当時の選択が間違っているなどとは誰にも言えることではありません。集団から敵意を向けられるかもしれない恐怖は、誰もが抱くことです」
「……慰めてくれてんの?」
車掌は答えなかった。
それきり黙ってしまった車掌に声をかける気にもなれず、じっと電車の走る音を聞いていた。電車に揺られている内に落ち着いてきて、呼吸も楽になっていった。
ガタン ゴトン
窓の外の暗闇をぼんやりと眺め、中学生の俺が座っていた座席を見つめた。
――後悔してるか?
中学生の俺の言葉が頭の中で繰り返された。俺はあいつに答えてやることができなかったけれど、あの時の俺の表情を見ていてわかった。
確かに、俺は何もしなかったことを後悔しているのだった。
ガタン ゴトン
ガタン ゴトン
しばらく走って、電車が速度を落とした。また、駅に止まるらしい。
「ドアが開きます」
車掌の言葉でドアが開き、乗車したのは高校の制服を着た自分だった。
「ドアが閉まります」
ドアが閉まり、電車が動き出す。高校生の俺は、こちらを一瞥すると向かいの座席に座った。そこは乗ってくる奴の指定席にでもなっているのだろうか。
小学生や中学生の俺を見るのと違って、これは今の俺も同然だった。ますます変な感じだ。
高校生の俺は、不貞腐れたように座席に座って、真っ暗な窓の外に目をやっている。俺には何も見えないが、他の奴には外が見えているのだろうか。
「……なぁ」
思い切って声をかけてみると、目だけが俺を見た。目つき悪いな、俺なんだけど。
「……」
返事はない。俺ってこんな無愛想なのかな。
「なんか、つまんなそうな顔してるな」
「……あんたもな」
馬鹿にしたような返事が返ってきた。
「やっぱ、学校つまんないか」
「つまんないも何も、もう行ってねぇよ、学校なんか」
高校生の俺は吐き捨てるように言った。
他人の振り見て我が振り直せっていう言葉があるけど、こういう時ってなんて言うんだろうなんて考えていた。我が振り見て我が振り直せ?
「学校行かないで何してんの?」
「何も」
「つまんなくね?」
「まぁな」
そこで、窓の外に向いていた顔がこっちに向いた。
「俺さ、小学校の時から将来の夢とかなんにも持ってなかったじゃん?」
俺は頷いた。
「今まで適当にやってきたからさ、いざ進路のこと考えて、大学行くために勉強しててもなんかしっくりこないんだよな。親は大学行けって言うけど、何のために大学行くんだろうって考えても、答えなんか出せないし」
高校生の俺はうんざりした様子でため息をついた。
「大人はみんな言うんだ、もうお前は大人なんだぞって。おかしいよな。ほんの数ヶ月前まで中学生で子供扱いされてたのに、高校に入学した途端、もう大人だなんて言われるんだぜ」
俺は黙って話を聞いていた。
「そんな突然大人にされた子どもが将来の選択迫られたって、簡単に答えなんか出るはずないだろ」
俺は黙っていた。
高校に入学してすぐ、進路調査票なんて出されてまったく書けなかったことを思い出した。目の前の俺が言うこととまったく同じことを思っていた。
でも、周りの奴らはどんどん進路調査票を提出していった。俺が思うことは、単なる子どもが駄々をこねているのと同じなのだとわかっていたが、それでも不満を抱かずにはいられなかった。
「おかしいだろ、こいつら。なんでそんな進路の話がぽんぽん出てくるんだよ」
そう思っていた。
「それでも、とりあえず勉強はした。もし、この先やりたいことが見つかってから勉強ができなかったんじゃ話にならないと思ったんだ」
目の前の俺は興奮した様子もなく淡々と話し続ける。
「そうやって、一年が過ぎて二年が過ぎた。いつまでたっても進路は決まらなかった」
俺と目が合う。目に映るもの全てを軽蔑したような、そんな目をしていた。
「考えたんだ。このまま勉強してて、何になるんだろうってさ。いつからか、学校にすら行かなくなった」
その時、窓の外に景色が浮かんできた。
「進路のことも、学校でいじめにあってることも、学校行かないから親に怒鳴られたことも、なにもかも」
見覚えのある光景のような気がした。
「本当、どうでもいいやって」
その景色が目に映った瞬間、俺は前のめりになって膝から崩れ落ちていた。
「どうにでもなれって」
俺は床に転がりながら、高校生の俺を見上げた。無表情の俺が俺を見下ろしていた。
息ができない。
たまらず首に手をやるが、何の気休めにもならなかった。見えない何かが、俺の首を締めあげる。
「ぁ……はっ……!」
息を吸おうと口を開くが、空気が喉を通らない。
高校生の俺の背後、窓の外には宙にぶら下がる二本の足が見えた。同じ制服を着ていた。
「っ……」
あぁ、そうか、俺は。
首にかかる圧力のせいで、眼球が押し出されていくような気がした。頭に血が溜まっていく。だんだんと薄れていく意識の中で、高校生の俺の言葉が頭に響いた。
「これで、許されると思っていたのか?」
ガタン ゴトン
ガタン ゴトン
気づけば、俺は目が覚めた時と同じように床に転がって電車の揺れに身を任せていた。
もう苦しくない。首に手をやると、まだ少し痛むような気がした。
起き上がると、窓の外は相変わらず真っ暗で、車掌も変わらずそこに立っている。
高校生の俺は、もういなくなっていた。気を失っている内に駅に着いたのだろうか。
「えぇ、駅に着きましたので、お降りになられましたよ」
車掌が答えた。
「……おれ、死んだんだ?」
「はい、そうです」
車掌が間髪いれずに答えた。
「自殺なんて、随分思い切ったことをしたものですね」
その口調は心なしか怒っているようだった。顔を見る限り、怒っているようには見えなかったが。
「なに怒ってんだよ?」
「怒ってなんていませんよ」
ムキになったように答える車掌に、俺は首を傾げた。
「あんた、自殺はよくないことっていう人? 自殺すると地獄行くぞとか」
「いいえ」
「じゃあ、辛かったら死んでもいいよって人?」
「いいえ」
どっちだよ。
「私はどちらでもありません」
はぁ、さいですか。
「ってことはさ、ここあの世?」
「そうとも言えるかもしれませんね」
じゃあ俺は幽霊ってことなんだろうか。
「なんで、俺こんな電車乗って、人生振り返りの旅なんかしてんだ?」
「最初にも言いましたが、これは貴方の電車です。この電車が存在するのは、貴方に原因があるんですよ」
原因ね。未練でもあるって言うのだろうか、この期に及んで。
「思い残すことが何かあったんじゃないですか」
車掌の言葉に、俺は考え込んだ。
思い残すことと言われても、ピンとこない。今の俺は、ここがあの世だということも、どうでもいいとすら考え始めていた。
「そのままでも構いませんけれど、貴方はずっとこの電車に乗り続けることになりますよ」
「は?」
「これは廻る電車なんです」
車掌は相変わらず、電車の揺れにびくともせずそこに立っている。
「先程、貴方はご自身の死の記憶の駅を通り過ぎました。なので、最初の記憶の駅に戻ることになります」
俺は困惑しながらも、車掌の言葉を頭の中で反芻する。
「つまり、この電車はずっと同じ線路を走り続けてるってことか?」
「えぇ、そうです」
にべもなく車掌は続けた。
「ここは輪廻の世界。永遠と生から死を繰り返す世界です」
ということは、この電車が走っている線路は円形ってことなのか。
「自殺した奴は、この輪廻の世界に来るのか?」
「ほとんどの方はそうですね」
全員が乗るわけじゃないのか。じゃあ、俺が乗ってしまった理由ってなんなのだろう。
「繰り返しますが、それは貴方に原因があるのですよ」
車掌の言葉を聞きながら、俺は電車に揺られていった。
ガタン ゴトン
ガタン ゴトン
俺はまた床に転がった状態で目を覚ました。
真っ暗な世界の中を、俺と車掌を乗せた電車は変わらず走り続けている。最初に自分が死ぬ記憶を見てから、何度こうして意識を失っただろう。体を起して座席に座り直すと、車掌が口を開いた。
「もう少しで、最初の駅に着きますよ」
俺は座席の背もたれに背を預けて、ため息をついた。
自分が死ぬまでの記憶を一周してからは、電車は定期的に駅で止まり、当時の記憶を窓の外に映して走り続けていた。俺が生まれてから死ぬまでの、短い生涯を永遠と繰り返す。二週目からは過去の自分が電車に乗ってくることはなかった。
「なぁ、ここが輪廻の世界で、この電車は俺の心残りの形なんだとしたらさ、あんたは何なんだ?」
車掌は首を傾げる。
「何、といいますと?」
「死神ってやつなのか?」
すると車掌は可笑しそうに口元に手を当てて小さく吹き出した。そんな風に笑ったのは初めて見た。
「私は車掌以外の何者でもありませんよ」
俺の質問がそんなに可笑しかったのだろうか。一頻り笑った後、車掌は落ち着いて元の調子に戻った。
「私たちは電車が来たらそれに乗って、貴方のような方と一緒に輪廻を巡る役目があるというだけの存在なんですよ」
「たち?あんた以外にも車掌がいるのか?」
「えぇ」
車掌は軽い調子で答える。
「私たちが何の為にこうして車掌として電車に乗り続けなければならないのかは誰も知りません。ですが、私たちにはこれしかありませんから」
そこで車掌は咳払いをした。
「余計なお話でした。失礼しました」
「いや、別に謝る必要はないだろ」
俺はなんとなく可笑しくなって笑ってしまった。
車掌はバツが悪そうに帽子を深く被り直してそっぽを向いた。
「なぁ、俺が心残りっていうのをなくせたら、あんたはこの電車から降りられるのか?」
「えぇ、その時はあなたも降りることになりますから、一緒に降りますよ」
俺はさらに尋ねた。
「心残りを消すには、どうしたらいいんだ?」
「貴方次第です」
俺次第、ね。
「貴方は、その心残りとやらを思い出したのですか?」
「……まぁ」
車掌に聞かれ、俺は頷いた。
「驚きました」
「何が?」
「この世界に来る方々は、ご自身の記憶のほとんどを失った状態で目を覚ますので」
そうだったのか。
思えば、俺も過去の記憶を見るまではそのことをまったく覚えていない状態だった。
「ご自身のトラウマと向き合って、この世界にやってきた理由を思い出すのは容易なことではありません。なので、驚きました」
褒められているんだろうか。
「これほど褒めているのに気づかないんですか?」
あ、うん、ごめん。
「まぁ、トラウマと向き合うって言うか、今まで無駄に自分が死ぬとこ体感してきたわけじゃないからな」
電車の外に流れて行く景色を眺めながら、死ぬ瞬間の記憶を手繰っていた。息ができない、頭に血が回らない苦しさで頭が埋め尽くされながらも、必死に記憶を手繰っていたのだ。
だが、心残りに思い当たったとして、俺はこれからどうしたらいいんだろう。
「思い出したのであれば、ご案内することはできます」
俺は首を傾げた。案内ってどこにだ。
「今まで一度も止まっていない駅があります」
「え?」
「思い出されたのであれば、その駅に止まりましょう」
車掌はそう言うと、右手をドアに向けて掲げた。すると、電車のスピードが落ち始め、やがて止まった。
「ドアが開きます」
車掌の声でドアが開く。
暗闇の中から電車に乗ってきたのは、中学の頃にいじめられていた幼馴染だった。
「ドアが閉まります」
車掌の声でドアが閉まる。
電車がゆっくりと動き始め、幼馴染は俺の向かいの座席に座った。中学の頃の姿のままの幼馴染を前にして、俺はなんと声をかけようか迷っていた。すると、向こうから声をかけてきた。
「久し振りだね」
「あぁ」
俺は緊張しながら、頷いた。
「元気だった?」
幼馴染は穏やかな笑顔で尋ねてきた。
「まぁまぁ。お前は?」
「元気だったよ」
まるで死人の会話じゃないな、と俺は苦笑した。
「どうして、この電車に乗ってるの?」
それを聞かれて俺は答えるのを一瞬迷った。だが、幼馴染の顔を見ていると、もうすでに知っているんじゃないかという気がした。
「あー……首吊った」
それを聞いても幼馴染は表情を変えなかった。
「……そう」
「怒らないんだな」
「今更怒ってもしょうがないじゃない」
「……そりゃそうだけどさ」
そこで幼馴染が小さく笑った。
「何か、僕に言いたいことがあったの?」
先を促すような幼馴染の笑顔に、俺は意味もなく背筋を伸ばした。
「あのさ、俺さ……お前がいじめられてるの見て、なんにもしなかったじゃん」
「うん」
「正直、お前を庇って俺もいじめの対象になったらって思うと怖かったんだ」
「うん」
「お前が助けてって言ってこないのをいいことに、俺はずっと逃げてた」
「うん」
「……俺、ずっと後悔してた」
幼馴染は笑顔のまま、俺の話を聞いてくれた。
「お前を助けてやれなかったこと、ずっと後悔してた。何の力にもなってやれなかったこと、見捨てたこと、ずっとずっと心のどこかに残ってて、なんであの時動けなかったんだろうって、ずっと後悔してたんだ」
「うん」
「首吊って意識なくなる直前の記憶見て、やっと思い出せた。……俺、ずっと、謝りたかったんだ」
俺は幼馴染を見た。
「お前が事故で死んだあの日から、ずっとずっとお前に謝っておけばよかったって思ってた。俺、お前に謝らなきゃいけない」
幼馴染はあの日と変わらない、悲しそうな笑顔で俺を見ていた。
「助けてやれなくて、ごめん」
幼馴染は笑っていた。
何も言わずに、ただ笑って俺を見つめていた。
ガタン ゴトン
「ドアが開きます」
車掌の声でドアが開く。次の駅に着くと、幼馴染は何も言わずに電車を降りて行ってしまった。
「ドアが閉まります」
車掌の声でドアが閉まる。動き出した電車の中で、車掌が口を開いた。
「気は晴れましたか?」
「これってさ、本人に伝わったりするのか?」
「さぁ、私にはなんとも」
車掌は困ったように笑って、続けた。
「もしかしたら、彼もこの輪廻の世界に捕らわれていて、先程の彼は彼自身だったのかもしれませんよ」
「本当か?」
「確証はありません」
ぴしゃりと車掌は言い放った。
「ですが、貴方が伝わってほしいと念じれば、伝わるかもしれません。人の思いの強さは計ることができないものですから」
そんなものなのだろうか。
だが、幼馴染の姿を前にして言えたことで、心のどこかが軽くなったような気分だった。
やっと、謝ることができた。
「次に止まる駅で、降りられますよ」
「え、まじで?」
車掌の突然の言葉に、俺は驚いて声が上擦った。
「気が晴れたように感じるのなら、きっと次の駅で貴方はこの電車を降りられるはずです」
「もし、降りられなかったら?」
「また輪廻を巡ってもらうしかありませんね」
何でもないことのように言ってのけた車掌を横目で睨んだ。
車掌はドアに向けて右手を掲げた。
「ドアが開きます」
車掌の声でドアが開く。
俺は立ち上がって、開いたドアに歩み寄った。電車の外は相変わらずの真っ暗闇だった。
「さぁ、降りてみて下さい」
車掌の声が背中にかかる。
「本当に降りられるのか?」
「貴方次第です」
俺は唾を呑みこんで、恐る恐る足を踏み出してみた。真っ暗なその先に、足場はあるのだろうかと探りながら突き出した爪先が、何かに触れた。思い切ってそこに体重をかけ、両足を着く。目では見えないが平らな足場が確かにそこにあるようだった。
続いて車掌も俺の隣にひらりと降り立った。背後でドアが閉まり、電車が動き出した。
車掌は敬礼をして、誰も乗っていない電車を見送った。
ガタン ゴトン
暗闇の中に、電車の明かりが遠ざかっていき、やがて消えた。
あの音も、もう聞こえなくなった。
二人きりで残された形となったが、真っ暗闇なのに車掌の姿や自分の姿ははっきりと見えた。不思議なもんだ。試しに適当な方向に手を広げてみても、空を切るばかりだった。
「無事に電車を降りられましたね。おめでとうございます」
「あぁ、ありがとな」
車掌の小さな手で拍手され、なんとなく気恥ずかしくて目を逸らしてしまった。
「なぁ、俺はこれからどこに行ったらいいんだ?」
「一歩を踏み出して頂きます。私とは、ここでお別れになります」
車掌は笑顔でそう告げた。俺は周りを見回した。
「踏み出すって、どこに?」
「どこへでも、貴方の思うままに一歩踏み出して頂ければそれで結構です」
そう言われても、どういうことなんだ。
「詳しいことは知らなくても大丈夫ですよ」
そうは言われても、不安は残る。だが、ここにいつまでいてもしょうがない。
「なんか、世話になったな」
「私は役割を全うしただけですので」
「お前は、これからどうするんだ?」
「また電車が来るのを待ちます」
「……そっか」
俺はしゃがんで車掌と目線の高さを合わせた。
「どうしました?」
俺は何気なく車掌の帽子を取った。
「あ、何するんですか!」
珍しく慌てた様子の車掌に、俺は可笑しくなって笑った。
「女の子なんだしせっかくかわいいんだから、こんな帽子がっつり被ることないと思うぞ」
そう言って、軽く帽子を被せてやった。
「うん、これならいいな。顔もちゃんと見えるし」
俺は満足げに頷いて見せた。車掌は心なしか顔を赤くしていた。
「……貴方、何言ってるんですか」
「正直、帽子を目深に被ってるのはちょっと不気味だからな。俺の後に乗ってくる奴にはもうちょっと視覚的に優しくしてやれよ」
からかうように言うと、車掌は口を尖らせた。そうしていれば、年相応の子どものようだ。
「な、なんでわかったんですか?」
「何が?」
「……私が、女だってことです」
「いや、なんとなくだよ」
正直なところ、最初はわからなかったが、車掌が吹き出して笑った時の仕草が、女の子みたいだなと思ったからだ。
「うん、まぁ、さんざん俺のくだらない人生の振り返り旅に付き合わせて悪かったな」
「これが私の役割ですから」
「あぁ、それでも悪かったな」
俺は笑って立ち上がると、車掌の頭に軽く手を乗せた。
「一歩、踏み出せばいいんだな」
「はい」
俺は目の前の暗闇を見る。この先に何があるのかさっぱりわからないが、不思議ともう怖くはない。心も軽い。
「じゃあな」
「いってらっしゃいませ」
車掌の声に背中を押され、俺は暗闇に向かって一歩踏み出した。
ドボン
地面があると思った先には、何もなかった。
踏み出した足はそのままバランスを崩し、俺の体が傾くのがわかった。気づけば、俺の体は水の中に投げ出されていた。
息ができない、と思ってもがいたが、落ち着いてみるとまったく苦しくないことに気づいた。
辺りは相変わらず真っ暗なままだったが、不思議とこの水の中は落ち着いた。
体を動かしてみると、足の先が何か柔らかい壁のようなものを蹴ったような気がしたが、暗いのでそれが何かはわからなかった。
手や足を動かしてみる。いろんな方向へ動かしてみると、柔らかい壁のようなものにぶつかった。
あの真っ暗な世界とは違って、触った感覚で周りの状況が知れるのは少し安心できた。
俺は、一体どこに来てしまったのだろう。
しばらくして、俺は自分の膝を抱えて、水中に浮かんでいた。
何度か眠ったり起きたりを繰り返している内に、一体どれだけの時間が経ったのだろう。
すると、どこかから音が聞こえてくるのがわかった。
それは、誰かの話し声のような気がした。
女の人の話し声、男の人の話し声。他にも、何の音かわからないが静かな音、大きな音。
その音を聞きながら、俺は動き回るのを止めて、静かに眠りについた。
やがて、真っ暗な中に一点の光が現れた。
その光に、俺は不思議と安心感を覚えた。
あぁ、光だ。
光の先に出た俺は、大きくはじまりの声をあげた。
2011.4 執筆