ありがとう。そして、さよならだよう
『絵本』と『エロ本』は一文字違いの親戚です。
「忌々しい光景だな……」
モニタールームに到着した局長が、開口一番に毒を吐く。
「面目次第もございません。浜松には連絡しましたが、我々はどうすれば?」
「何もできん。アノ浜松がしくじれば全て終わりだ」
「…………」
〝終わり〟という言葉が具体的に何を指しているのか、今は考えるだけの勇気は無い。
「クぅぅぅマぁぁぁ★ 親玉の登場だベア。あまり拙者を待たすと、ハゲ頭にハチミツ塗りたくって、チンパンジーの檻にブチこむなり」
局長の存在に気づいたプー左衛門。既に取調室内の空気は高山の頂上並に薄くなっており、Mr.キャリコの表情が曇っている。
<だあァァァァァめえェェェェェだッ! こんにゃろ、やられたッ!>
携帯端末のモニターに浜松が。後ろの方でポチが白旗を振っている。
「ど、どうした?」
<例の攻性フィルターがきっちり展開してあって、どうしても接近できないのよッ!>
マズイ。敵は確実な防衛手段を用いて侵入している。爆弾を積んだトラックに乗って突っ込んで来た。帰り道を必要としていないから、最高にタチが悪い。このままでは、被疑者が緩慢に死にゆくのを見守るだけだ。
ピッ、ピッ、ピッ……
プー左衛門がオモチャのケータイを取り出し、指の無い手でボタンを適当に操作している。すると──
ブゥゥゥゥゥン、ブゥゥゥゥゥン、ブゥゥゥゥゥン……
すぐ近くから聞こえる振動音。
「何のつもりだ……?」
局長が上着の内ポケットからケータイを取り出した。
「────────────────────────────────────ッ!?」
ケータイのモニターを見た局長が固まった。
「局長?」
課長が小さく声をかける。が、老体は小刻みに震え、今にも崩れ落ちそうになっている。
<『とある男』からの遺言を伝えるクマ……「実験は成功した」──繰り返す。「実験は成功した」──>
プー左衛門の口元が不吉な感じに歪んだ。
「い、いや、ありえん……あってたまるものかッ!」
局長は何かを隠すようにケータイを切る。明らかな動揺を周囲に見せながらも、どうにか平静を保とうと、深呼吸を繰り返している。
<ちょっと、今のは何?>
訝る浜松が携帯端末の中から呼びかける。
「な、何でもないッ! それよりだ……ん? 宇野君、江戸川室長はドコだ?」
「え? あ、そういえば……」
プー左衛門の映るモニターにばかり集中していて、室長が姿を消している事に気づかなかった。
<おやぁ、働き者の公僕が一人足りないようだベア。も し か し て、とっても愉快なイベントを起こそうと、下準備に向かったのではぁ?>
手で口元を押さえながら嘲笑する。
(ま、まさかッ!?)
息が止まりそうな面持ちで内線電話を手に取り、施設別に設定された番号を押した。
<はい、こちら江戸川ッ!>
案の定、いなくなった本人が電話に出た。しかも、何か作業中のようで、ガタガタと物音が聞こえる。
「よせよせよせッ、やめるんだ江戸川君ッ! 電源ケーブルに触るんじゃないッ!」
電話は配電室につながっており、そこは、管理局の設備に電力を供給している心臓部だ。
<このまま貴重な情報源を見殺しにはできませんッ! 停電後のシステム復旧とデータの紛失は、国家調査室が責任をもって──>
「そうじゃない、コレは罠だッ! 頭を冷やせッ!」
局長の怒号が飛ぶが、状況の先読みと全体の俯瞰には至らず。
<ガシャンッ!>
受話器から聞こえてきた何かを割る音。局長の両目がカッと見開いたまま瞬きを止めた。
フオォォォォォォォォォ――――――――――――――――――――――――――ン
建物全体が息を引き取るような……そんな不吉な音とともに照明が全て落ち、モニタールームのPCやコンソールがシャットダウンする。
「くそッ! 若僧めがッ!」
「局長、予備電源に切り換わるハズなのでは?」
課長が訝る。
「予備は優先度の高い設備や機能に回される。ここはもう使えん」
「優先度が高い? ここ以上に優先される場所はありません」
「…………」
「局長ッ!」
「 政府にも知らせておらん機密事項だ。聞くな」
<あたしの肉体が保管されてるのよ。予備電力は生命維持装置に全て回される仕組み>
浜松が半ば諦めかけたような声で呟く。
「深見ッ!」
局長の怒号が飛ぶが、もう遅い。機密は機密でなくなった。
「や、やっぱりね……ムフ、まさに冥土の土産……だ…………」
Mr.キャリコはテーブルの上に上半身を沈め、力無く呟く。血圧・脈拍の上昇、筋肉の弛緩、血中の二酸化炭素濃度が危険値に達し、死の臭いがし始めた。
(ここまで…………か……)
課長は酷い虚脱感を覚え、壁に寄り掛かって大きく息を吐いた。ついに逮捕できた偽P・D・Sの生みの親が、目の前で公開処刑されようとしている。しかも、自分の職場の中でだ。
<局長ッ、予備電源はどのくらいもつのよッ!?>
「予備は万一の停電に備えた復旧までの繋ぎに過ぎん。大元の電源ケーブルを破壊するといった事態は想定外だ」
<つ、つまり……?>
「すまんな、深見……人間としてのオマエとは二度と会えそうにない」
局長がほんの一瞬だけ頭を下げた。
浜松は見たことの無い表情のまま静止画と化した。
課長は床の上に崩れ落ち、魂を抜かれたかのようにうなだれた。
そして──
「さ、ようなら…………現実社会。わ、私は……一足さ、先にぃ…………ネッ……トのう、海えぇ…………」
Mr.キャリコが滅びた。
<愚かなり電薬管理局ッ! 愚かなり人類ッ! この瞬間を待っていたあああああッッッ!!>
沈黙した電子の砦に、プー左衛門の雄叫びが木霊した。その声はまさに審判の一声だった。あらゆる力を荒唐無稽に行使できる、禍々しき神のごとき存在。自らの圧倒性を誇示し、自らの有利性を主張し、自らの絶対性を押しつける。ネットという巨大な電子のスープから生成された、決して踏み込んではいけない領域の住人。
<は、は、は……あぁ、やっちゃったか。もう人間には戻れない……か>
すっかり脱力し切った浜松が、独り言のように呟いた。人は己の無力を分かり過ぎた時、何もしなくなる。思考も止まる。局長も課長も分析官もだ。つながったままの内線電話の受話器からは、最後の判断を誤った室長の呻き声が、微かに聞こえていた。
<ボク達に被害はありませんが、なんだか口惜しくてたまらないですね>
<そうじゃのう。儂等の土俵で打つ手無しとは、不愉快極まりないわい>
<それで浜やんはどうなるン? 死んでしまうンか?>
郡山、土佐、出雲の三匹は、モニターの中で静かに揺らめきながら、この事態の行く末を静観する他なかった。出来る事は何も無い。
<むぅ~~、浜松は死んでしまうのか?>
泳ぐ事をやめた浜松にポチが問いかける。
<『浜松』という黒出目金は生き残る。けど、『深見素赤』っていうバカな女は、バカのまま死んじゃう>
彼女は自嘲気味に答える。
<おぉ~~、ついに希代のクソビッチもここまでということか。なら、ファックな奇跡が起きちゃって、どうにもこうにも助かっちゃた時は、ポチがグーで死ぬまで殴ってやるんだぞ>
相変わらずポチに表情は無い。浜松の膝の上にチョコンと腰かけ、あさっての方に目を向けている。
<はいはい、どうぞ。こんな顔面でよけりゃ、グーでもチョキでも好きなだけ──>
<来たみたいだぞ>
<────え?>
ブウウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ────────ッッッン……
不快な音がしてモニターが揺らいだ。携帯端末だけではない。モニタールームの全モニターと、取調室内のノートPCもだ。
<────────ッ、クマッ!?>
プー左衛門の姿がぶれて雑音を纏う。
「……何だ?」
状況の変異を察知した課長が立ち上がり、ポチと同じくあさっての方に視線をやる。
ボロッ、ポロポロポロポロポロポロポロポロ……
<バカなッ!? コレは……〝侵食〟されてるベアッ!?>
ヌイグルミの毛がみるみる抜け落ちていき、重度の皮膚病に侵されたかのように、皮膚が露出していく。
「何が起きている……?」
局長も分析官も事態が把握できず、ただただ戸惑いながら立ち上がる。
「局長ッ、システムエラー回復ッ! こちらからのアクセスが可能ですッ!」
「よ、よし……生きている予備電源を全て『第二解体室』に回せッ! どんな弱い電力でも構わん。サーバー、災害システム、非常灯ランプ、給湯室のポットだろうが何でもいいッ!」
局長が慌てて分析官に指示を出す。
「しかし、サーバーの電力まで回してしまったら、管理局の防衛機能が失われ、中枢が丸出しになります」
課長も慌てて立ち上がる。
「深見素赤の肉体がその〝防衛機能〟なのだよ」
「なんですとッ!?」
「政府に知られたら私の更迭どころか、管理局そのものが閉鎖されかねない機密事項だ」
「では、管理局にまつわるネットの都市伝説は……」
「事実だ。だが、強制はしておらん。この件は深見から進んで身を投じた」
「文字通り彼女は生きた防火壁になったと?」
「にわかには信じがたいだろうがな」
<フザけるなああああああああああああああああああ──────────ッッッ!>
急に発せられたプー左衛門の怒号。既に半分程の体毛が抜け落ち、映像自体が目に見えて劣化し始めていた。
<局長ッ、貴様のせいで拙者は────クマッ!?>
バタバタバタッ、ドタドタドタッ、ワイワイ♪ ガヤガヤ♪
<いっただきま~~っす☆>
子供だ。4、5歳くらいの子供達が急に映像内に現れて、プー左衛門の体に次々と抱きついていく。そして。
――カプッ
噛みついた。とっても可愛らしく、腕や脚や頬に噛みついていく。
<クぅぅぅマぁぁぁ……コ、コードがものすごい速さで、書き換えられるぅぅぅ……ネット環境を維持できないベぇぇぇアぁぁぁ……>
震え、苦悶し、血の涙を流し始めた。そんなクマのヌイグルミに、そっと差し伸べられる一本の手。白く、滑らかで、程良くムチッとした優しい手。
<あらあら、まあまあ。よそ様のおうちなんだから、もっと行儀良くしましょうねぇ>
『アンジェリーナ』がそこに居た。