表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約破棄の夜、私は王宮の嘘を鳴らす鐘を盗んだ 〜真実の鐘を眠らせた王子を断罪します〜

作者: 銀細工ナギ
掲載日:2026/05/26

婚約破棄の場で、真実を告げるはずの鐘が嘘を鳴らした。


王宮の誓いを見届ける真鐘を守ってきた調律師令嬢リディアは、第二王子から反逆の罪を着せられ、婚約を破棄される。

けれど彼女だけは気づいていた。

鐘は真実を認めたのではない。声を奪われていたのだ。


失った婚約の指輪。

眠らされた真鐘。

そして、彼女を信じる一人の騎士。


これは、嘘に利用された鐘の声を取り戻し、自分の人生を自分の手で選び直す、ひとりの鐘職人の物語です。


 真鐘が、嘘をついた。


 春告げの祝宴のただなか、王宮の大広間を渡った音は、誰の耳にも美しく聞こえただろう。

 銀の匙をそっと重ねたような、涼しく澄み切った一音。楽士たちは弓を止め、着飾った貴族たちは感嘆の息を吐いた。国の大事な誓いにのみ鳴らされる真鐘が、誓いの正しさを認めた音だったからだ。


 けれど私、リディア・カンパネラにはわかった。


 澄んだ音の底に、あるべき震えがない。

 真実を受けた真鐘は、消え際にほんの少しだけ銀色の余韻を返す。耳ではなく、胸骨の裏側で聞くような微かな振動。それは祖父から父へ、父から私へと教えられた、鐘の息遣いだ。


 今の真鐘は、きれいに鳴ったのではない。

 声を奪われて、ただ鳴らされたのだ。


「皆にも聞こえただろう」


 鐘の綱から白い手袋の指を離し、第二王子エドガルド殿下は微笑んだ。


「私は真実のみを述べた。私の婚約者リディア・カンパネラは、明日の王位継承宣誓に用いられる真鐘へ不正な細工を施し、王家を欺こうとした」


 大広間にざわめきが広がった。

 明日、国王陛下は第一王子を正式な後継とする宣誓を行う。その誓いを見届ける真鐘に細工したとなれば、反逆に等しい。


「よって、私とリディアの婚約はこの場をもって破棄する。鐘を守る家の娘が鐘を汚した以上、我が妃として迎える道理はない」


 殿下のすぐ隣で、鉱山侯爵令嬢シェリル様が青白い顔を伏せていた。今夜、殿下が彼女を伴って現れた時点で、会場の誰もが次に語られる筋書きを察していたのだろう。


 私だけが知らされていなかった筋書きを。


「お待ちください、殿下」


 私は広間の中央へ一歩進んだ。左右から近衛兵が動いたが、まだ剣には手を掛けない。


「その真鐘は判定をしておりません。音が眠らされています」


「苦しい言い訳だな。調律師である君が細工し、露見しそうになれば鐘のせいにするのか」


「私は今朝の検分で、鐘に異常がないことを確かめました。検分後に触れられた方を調べてください」


「触れたのは私だ。だからこそ、今しがた鐘の前で誓った。『リディアが細工を企てたと知り、私は王家のためにこれを告発する』と。真鐘は私を正しいと認めたではないか」


 殿下が片手を上げる。二人の兵が、今度こそ私の腕を取った。


 真鐘は大人の両腕で抱えられるほどの大きさで、広間の奥、白い石の台座に吊られている。青みを帯びた銀青銅の表面に、春の灯りが滑っていた。


 あと数歩近づければ。せめて内側を一目見ることができれば。


「触れさせてはならない!」


 殿下の声が鋭く飛んだ。


「罪人にもう一度、国の鐘を汚させる気か。地下の控え室へ連れて行け。明朝、陛下の御前で裁きを受けさせる」


 引き立てられる私の背に、囁きが刺さる。

 恩知らず。王家に取り入った職人娘。やはり身分違いだったのだ。


 五年前、真鐘を最も正確に聴ける者として私が選ばれ、その務めを王家へ結びつけるため殿下との婚約が決まった。恋から始まったものではない。それでも、私なりに誠実であろうとした。殿下のお声が鐘に受け入れられる日を守ることが、婚約者としての愛になり得ると思っていた。


 その鐘を使って、殿下は私を葬ろうとしている。


 私は振り返らなかった。

 泣くのは、真鐘の声を取り戻してからでいい。


     ◇


 地下の控え室は、罪人を置く牢ほど冷たくはなかった。明日の宣誓に参加する貴族が酔いを醒ましたり、衣装を直したりする部屋である。けれど扉の外に二人の兵が立てば、絨毯も長椅子も牢の飾りに過ぎない。


 壁の燭台が三本目まで短くなった頃、鍵の音がした。


「取り調べなら、供述は変わりません」


「それは困る。私は取り調べの権限を持っていない」


 入ってきた男の声に、私は顔を上げた。


「ユリウス様」


 近衛騎士ユリウス・ローデンは、灰色の外套を腕に掛けていた。式典用の銀鎧ではなく、夜番の濃紺の制服を着ている。鐘廊の警護を任される伯爵家の次男で、私が夜遅くまで調律をしていると、黙って明かりを一つ増やしてくれる人だった。


「リディア嬢。怪我は」


「ありません。ですが真鐘が」


「あなたは自分より先に鐘を心配すると思った」


 呆れたような言葉なのに、その目に嘲りはなかった。張り詰めていた息が、ほんのわずかにほどける。


 ユリウス様は扉の外へ目配せし、卓上に布包みを置いた。中には小さなパンと水、それから細長い紙が入っている。


「今日の鐘廊への立ち入り記録です。あなたの検分が終わった朝八時以降、正式な記録はありません」


「正式な、ですか」


「夕刻、私は殿下に鐘廊の鍵を求められた。祝宴で自ら鐘を鳴らすので、事前に祈りたいと。王族の祈りを拒む理由はなく、私が扉を開け、外で待った」


 彼の拳が、卓の上で静かに握られた。


「私の落ち度です」


「いいえ。祈りと言われて、王子が国の鐘を害するなど誰が考えますか。殿下はどれほど中に?」


「十分ほど。その際、グランツ侯爵家の紋章を付けた小箱を従者が運んでいた。鉱山を持つ家なら、鐘を眠らせる鉛を入手できる」


「眠り釘……」


 祖父の書き残した修理帳に、一度だけ出てきた言葉だ。真鐘の内側、誓文を刻んだ溝へ柔らかな鉛の釘を打てば、鐘は魔力を音へ変えられなくなる。何を誓っても、ただの上等な鐘のように澄んで鳴る。


「朝になれば、釘は抜かれます。鉛は柔らかい。傷を磨かれれば、私が何を言っても調律師の負け惜しみになる」


「陛下へ今すぐ伝える」


「記録のない立ち入りと、小箱の目撃だけで、第二王子を拘束できますか。明日の宣誓を前に、陛下は騒ぎを伏せようとなさるかもしれません」


 ユリウス様は答えなかった。答えないことが答えだった。


 私はパンの横に置かれた水を一口飲んだ。冷たい水が喉を落ちると、頭の中の音が整理されていく。


 真鐘を守る者は、鐘を政治の武器にしてはならない。

 だから私の家は、命じられた時に調律し、問われた時に音を説明するだけで生きてきた。たとえその慎ましさを利用され、私自身が罪人にされても、決まりに従って朝を待つべきなのかもしれない。


 けれど、眠らされた真鐘で明日の継承宣誓が行われれば、鐘は王国の前で二度目の嘘をつく。


「ユリウス様。お願いがあります」


「聞く前から、近衛の服務規定に触れそうな予感がする」


「おそらく、たいへん正しい予感です」


 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。


「私を逃がしてください。逃亡のためではありません。真鐘を盗むために」


 彼は目を見開き、それから片手で額を押さえた。


「やはり、聞かなければよかった」


「朝までに鐘を工房へ運び、眠り釘を取り出して傷を修復します。釘そのものと、目覚めた鐘を陛下へお持ちします」


「鐘の無断持ち出しは、あなたに掛けられた罪を実際に犯すことになる」


「はい。処罰は受けます。でも、していない罪で黙って裁かれるより、したことの責任を取る方がいい」


 ユリウス様は長いこと、何も言わなかった。

 やがて彼は腰の鍵束を外し、卓に置いた。金属が小さく鳴る。その音には、濁りがなかった。


「七年前、母の葬儀の後、私は王宮裏の礼拝堂に小さな鐘を頼みました。覚えていますか」


「白百合の意匠の風鐘……まだ見習いだった私が彫りを失敗して、葉を一枚増やしたものです」


「母は百合が嫌いで、野葡萄が好きだった。増えた葉のおかげで、あれは母の鐘になった」


 彼は少し笑った。


「あの時あなたは、誰も聞き分けない小鐘を三度も鋳直していた。そんな人が、国の鐘へ偽りを仕込むとは思えない。私はあなたの耳だけではなく、あなたが費やしてきた時間を信じます」


 胸の奥に押し込めていた痛みが、急に熱を持った。

 泣いてはいけないのに、こういう言葉はずるい。


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い。鐘を盗む騎士になるのは初めてです。失敗したら、二人でたいそう格好悪く捕まる」


「鐘の扱いだけは、私にお任せください」


 私は差し出された灰色の外套を羽織った。

 その夜、婚約を失った私は、初めて自分の意志で王宮の決まりを破った。


     ◇


 真鐘が置かれた鐘廊には、夜の花の匂いが流れ込んでいた。


 祝宴はすでに終わり、廊下を巡回する兵の足音だけが規則正しく遠ざかっていく。ユリウス様が交代命令を伝えるふりをして警護を外し、私は外套の頭巾を深く被って石台へ走った。


「ごめんなさい。今、起こします」


 吊り金具を外す前に、真鐘の縁へ指先を当てる。冷たいはずの金属が、熱病の人のように鈍く重たく感じられた。


 内側を覗き込む。

 誓文の最後の一行、「偽りは己が声にて砕けるべし」という刻印の上に、黒ずんだ筋があった。


「ありました。鉛が溝へ打ち込まれています」


 ユリウス様が灯りを寄せ、息を呑んだ。


「抜けますか」


「ここでは無理です。無理に剥がせば刻印が欠けます。炉でゆっくり温めて、鉛だけを流します」


 真鐘を厚い毛布で包む。見た目よりはるかに重い鐘を二人で木箱へ下ろした時、私の左手から何かが石床に当たって鳴った。


 婚約指輪だった。


 青い宝石を囲む細い銀の輪。五年間、調律の邪魔になる日も外さなかったものを、私はしばらく見下ろした。


「外しておいた方がよいですね」


 笑おうとした声が震えた。


 殿下を愛していたのかと問われれば、答えに迷う。私はきっと、いつか生まれるかもしれない愛を大事にしていた。共に国の鐘を聞き、誓いを違えない夫婦になる未来を。


 その未来が、軽い音を立てて石の上に落ちている。


 ユリウス様は指輪を拾わず、私が拾い上げるまで待ってくれた。


「参りましょう。夜明けは待ってくれません」


「はい」


 私は指輪を掌に握り込み、真鐘の箱を持ち上げた。


 子爵家の王都工房は、王宮の北門から馬車で半刻ほどの職人街にある。父は領地の鐘の修繕へ出ており、留守を預かる老職人は私の姿と真鐘の箱を見て腰を抜かしかけた。


「お嬢様、これは、いったい」


「叱るのは後にして、炉を起こして、バルト。王国で一番、叱られる価値のある修理をします」


 バルトは一度だけ口をぱくぱくさせ、それから職人の顔になった。


 炉の火が赤く育つ。私は髪をまとめ、袖を縛り、真鐘を支持台へ固定した。炎を直接当てれば魔力の筋が壊れる。炭の量を少しずつ変え、鐘全体を眠りから覚ますように温めていく。


 やがて刻印の上で、黒い鉛が汗のように滲んだ。


「受け皿を」


 溶けた鉛が一滴、二滴、白い磁器の皿へ落ちる。最後に、細い釘の頭がころりと転がった。

 その頭には、獅子と二本の麦穂の刻印がある。


「第二王子殿下の私庫印です」


 ユリウス様の声が低くなった。王子個人の支払いで買い付けた金属には、横流しを防ぐため私庫の刻印が打たれる。殿下は、私を罪に落とす道具へ自らの印を残したのだ。


「急いだからでしょう。鐘など、鳴らせば皆が信じると思われた」


 そして、実際にほとんど成功していた。


 鉛を流したあとの誓文には、針ほどの欠けができていた。このままでも鐘は偽りに反応する。しかし欠けた声は乱れ、法の証として疑われる可能性がある。


「誓銀が要ります」


 私は呟いた。


「真鐘の傷は、誓いのために差し出された銀でしか塞げません。父が管理する予備は領地の保管庫です。今夜中には届かない」


 工房に沈黙が落ちた。炉の炭だけが小さく爆ぜる。


 左の掌を開く。

 青い宝石の指輪は、炎を映して静かに光っていた。


 王家から婚約の証として贈られる指輪は、真鐘の前で清められた誓銀で作られる。いつか婚姻の誓いへ結びつくようにと。


「使えます」


「リディア嬢」


「もう結ばれない誓いです。それなら、せめて壊された真実を塞ぐために使いたい」


 宝石を外し、銀の輪を小さなるつぼへ入れる。

 熱の中で、五年分の未来が丸く崩れ、液体の光になった。涙は出なかった。不思議なくらい、惜しいとは思わなかった。


 細い道具の先へ銀を取り、誓文の欠けへ一筋ずつ置いていく。

 火を落とし、冷却を待つ時間が一番長かった。窓の外が藍色から薄青へほどけ始める。城の朝鐘が遠くで鳴るまでに、私たちは真鐘を磨き終えた。


「試します」


 私は作業台の前に立ち、綱の代わりに取り付けた革紐を握った。


「私、リディア・カンパネラは、婚約破棄を悲しんでいない」


 紐を引く。


 真鐘は、ひどく耳障りな、割れた音を工房いっぱいに響かせた。


 バルトが目を丸くし、ユリウス様は一瞬黙った後、肩を震わせた。


「試す誓いに、なぜそれを選んだのです」


「短くて、確実に嘘だからです」


 今度こそ、涙が一粒だけ頬を伝った。けれど私は笑っていた。

 真鐘は目覚めた。私の痛みさえ、正しく音にしてくれた。


「では、次は私が」


 ユリウス様が紐を受け取った。まっすぐに私を見る。


「私、ユリウス・ローデンは、リディア・カンパネラの名誉を取り戻すため、己の意思で彼女に加担した」


 鐘が鳴った。

 澄んだ音が工房の梁まで昇り、消えかけたところで、銀の余韻が私の胸の奥へ触れた。


 これが、真実の音だ。


「行きましょう」


 私は真鐘を包むための毛布を広げた。


「今度は盗んだ鐘を、堂々と王宮へ返しに」


     ◇


 朝の謁見の間は、祝宴よりも冷たく、静かだった。


 玉座には国王陛下。その右手に第一王子、左手にエドガルド殿下が立っている。昨夜の目撃者として呼ばれた貴族たちが左右の列を作り、その最前列でシェリル様が指を組みしめていた。


「リディア・カンパネラは逃亡したと聞いたが」


 陛下の声が落ちると、開かれた扉から歩み入った私は、床に膝をついた。


「逃亡ではございません、陛下。告発された罪とは別の罪を犯して、戻って参りました」


 後ろでユリウス様とバルトが木箱を下ろす。毛布を外された真鐘を見て、ざわめきが波のように広がった。


「真鐘を盗み出したのか!」


 エドガルド殿下が声を荒らげた。昨夜の余裕ある笑みはない。


「ご覧ください、父上。この女はやはり鐘を意のままにしようとしたのです!」


「無断で持ち出し、修復いたしました。その処罰はお受けします」


 私は磁器の皿を両手で掲げた。中には黒い鉛の欠片と、釘の頭が載っている。


「しかし修復前、真鐘の誓文にはこの眠り釘が打ち込まれていました。真鐘から判定の声を奪い、どのような偽りにも澄んだ音を返させる細工です。釘の頭には、第二王子殿下の私庫印がございます」


 陛下の侍従が皿を受け取り、玉座へ運んだ。陛下の眉間に深い皺が刻まれる。


「エドガルド。これは」


「陥れられたのです! 調律師なら刻印のある鉛を用意して、鐘に入れることなど容易い。昨夜、自らの罪を隠すために!」


「では、鐘へお尋ねになればよろしいでしょう」


 私は立ち上がり、真鐘の横に退いた。


「私が自分に都合よく調律したとお思いなら、まず私から誓います」


 紐を握る手は震えなかった。


「私、リディア・カンパネラは、昨日の朝の検分以前にも、昨夜の修復時にも、真鐘へ偽りの判定をさせる細工を施したことはございません」


 一音。

 冷たい謁見の間を、清らかな音が一直線に走った。そして消える寸前、銀の余韻が確かに返った。


 列席者たちが息を止める。


「私の細工だとお疑いでしたら、殿下もお誓いください。昨夜まで、真鐘を眠らせる細工を命じたことも、なさったこともないと」


「馬鹿馬鹿しい! 罪人が触った鐘など証にならない」


「昨夜は、その罪人が検分した鐘の音を、殿下ご自身の潔白の証になさいましたのに?」


 殿下の顔が歪んだ。


 陛下が玉座の肘掛けを打った。乾いた音に、全員が身を固くする。


「真鐘は王家の証だ。調律師を疑うなら、王族こそ鐘の前から逃げてはならぬ。エドガルド、誓え」


「父上」


「誓え」


 殿下は青ざめたまま、真鐘の前に進み出た。私から紐をひったくるように受け取る。


「私、エドガルドは、真鐘を眠らせる細工など命じていない。あの女の告発は、すべて私を陥れるための偽りである!」


 殿下は乱暴に紐を引いた。


 真鐘が叫んだ。


 澄んだ外側の音を内側から砕くような、鋭い不協和音。昨夜なら封じられていた偽りの響きが、石の天井へぶつかり、幾重にも反響する。


 殿下の手から紐が落ちた。


「違う。これは、その女が」


「もう、おやめください」


 細い声が、殿下の言葉を遮った。


 シェリル様が列から踏み出していた。美しい顔は泣き腫らしたように赤く、それでも彼女は陛下へ深く礼をした。


「陛下、わたくしからも証言をお許しください。眠り釘は、我が父の鉱山で作らせたものです。ですが父もわたくしも、用途を知りませんでした。殿下は『古い鐘の補修に必要だ』と仰って」


「シェリル!」


「昨夜、祝宴の前に用途を聞かされました。リディア様が捕らえられれば、次はわたくしが婚約者になるのだから口を閉じろ、と。拒めば、侯爵家が王位継承を妨害したことにすると」


 シェリル様は震える手を重ね、真鐘を見た。


「わたくし、シェリル・グランツは、今申し上げたことに偽りを含めておりません」


 ユリウス様が紐を渡す。彼女が引いた真鐘は、柔らかく、澄んだ余韻を返した。


 エドガルド殿下の膝が床に落ちた。


 真鐘を利用して切り捨てられかけたのは、私だけではなかったのだ。


 陛下は目を閉じ、長い沈黙の後に命じた。


「エドガルドを拘束せよ。王族としての権限を停止し、真鐘への冒涜、偽証、二人の令嬢への脅迫について改めて裁く。グランツ侯爵家については、令嬢の証言を踏まえ調査する」


 兵に囲まれた殿下は、最後まで私を睨んでいた。


「たかが鐘職人の娘が」


「はい。鐘職人の娘です」


 私は静かに頭を下げた。


「ですから、殿下の嘘がどれほど粗雑に作られていたか、聞こえてしまいました」


 殿下が連れ去られ、重い扉が閉じる。


 陛下は玉座から降り、真鐘の前までいらした。傷を塞いだ新しい銀の線を指先でなぞる。


「この銀は、予備の誓銀ではないな」


「殿下より賜った婚約指輪を溶かしました。破棄された誓いの証で、傷ついた誓いの鐘を修復することができました」


 陛下は苦しげに息を吐いた。


「王家の者が負わせた傷を、そなたが自らの指輪で直したか。リディア・カンパネラ、無実の者を拘束し、名誉を傷つけたことを詫びる。鐘の持ち出しは、緊急の保全行為として不問とする。望む補償を申せ」


 失った婚約の代わりに、別の縁談を与えられる。以前の私なら、それを務めとして受け入れたかもしれない。


 私は真鐘に残った銀の線を見る。

 溶けた指輪は、もう私の指へ戻らない。戻らなくていいのだ。何を守り、誰と歩くかを選ぶ手は、今、空いている。


「では、一つだけお願い申し上げます。カンパネラ家の調律師を、婚姻によって王家に縛る慣例を終わらせてください。真鐘に仕える者が、鐘の前で誰を恐れることもないように」


 陛下はしばらく私を見つめ、やがて深く頷いた。


「許す。そなたを王立鐘工房の初代工房長とし、真鐘の保全に関して独立した発言権を与えよう」


「身に余る光栄にございます」


 礼をした視界の端で、ユリウス様が笑っていた。

 それは祝宴で向けられたどんな微笑よりも、私の胸を温かく鳴らした。


     ◇


 それから半年後。


 王都の北の職人街に、新しい鐘工房の看板が掛かった。

 大きな鐘から、店の扉に付ける小さな鈴まで扱う工房である。奥の施錠された作業室では、王宮から運ばれた真鐘の定期検分も行う。王族であれ工房長の許可なしには入れない、少しばかり物々しい工房だ。


「工房長、お客様です」


 バルトの妙に弾んだ声に顔を上げると、入口にユリウス様が立っていた。

 あの夜の責任を問われた彼は、一月の謹慎と始末書十二枚を命じられた。ところが復帰後は、真鐘警護の責任者に昇進した。陛下いわく「二度と盗まれぬよう、盗み方を知る者に守らせる」ためらしい。


「定期検分は来週のはずですが」


「今日は私用で来ました。直していただきたい鐘がある」


 彼は背中に隠していた小箱を作業台に載せた。

 蓋を開けると、掌に載るほどの小鐘が現れる。銀青銅らしいが、縁はわずかに傾き、彫られた花は百合なのか野葡萄なのか、判断に迷う形だった。


「これは……味わい深い出来ですね」


「正直に出来が悪いと言ってくださって構いません。一から自分で作りたかったのですが、鐘作りは剣より難しい」


「なぜご自分で?」


「差し出す誓いには、自分が費やした時間も入れたかったからです」


 ユリウス様は小鐘の隣に、青い宝石を置いた。

 あの夜、指輪から外して工房の引き出しにしまったはずの石だった。バルトを見ると、口笛を吹く真似をして奥へ消えていく。


「誓銀の指輪を、私が性急に贈るつもりはありません。あなたは、ようやく何にも縛られず選べるようになったのだから」


 ユリウス様の声が、少しだけ震えた。


「それでも、いつかあなたが選んでくれる可能性を願って、この鐘を調律していただけませんか。私があなたを愛していることを、毎日まっすぐ思い出せる音に」


 私は不格好な小鐘を持ち上げ、そっと鳴らしてみた。


 少しかすれた、まだ整っていない音。

 それでも耳を澄ませば、作り手が何度も失敗しては炉へ戻り、金槌を振るった時間が聞こえるようだった。


「ユリウス様。一つ、試してもよろしいですか」


「何なりと」


 私は奥の作業室から、検分を終えたばかりの真鐘を台車に載せて運んだ。彼が驚いて姿勢を正す。


「これから申し上げることは、工房長としてではなく、リディア個人としての誓いです」


 真鐘の紐を握る。


「私、リディア・カンパネラは、ユリウス・ローデン様と共に生きたいと、自分の意思で願っています」


 鐘を鳴らした。


 明るい一音が工房の窓を抜け、初夏の街へ飛んでいく。

 長く、優しく、銀の余韻が返ってきた。


 ユリウス様は何かを言おうとして、結局、目元を押さえた。


「困ったな。私が言うはずだった言葉を、先に国中へ鳴らされてしまった」


「鐘職人の求婚は、音が先なのです」


「では、返事も音で?」


「いいえ。大切なことは、ちゃんと言葉でも申し上げます」


 私は彼の作った小鐘と青い石を、両手で大事に包んだ。


「喜んで。この鐘を二人の誓いの鐘に調律させてください」


 半年前、真鐘は嘘をつかされた。

 けれど、鐘が本当に失われたことは一度もない。偽りに塞がれた声は、取り戻せる。溶かしてしまった未来の代わりに、自分の手で新しい音を作ることもできる。


 窓から吹き込む風が、作業台の小鐘をかすかに揺らした。

 まだ少し不器用なその音を、私はこれから一生かけて、彼と聞いていくのだと思った。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


この物語は、「真実を告げる道具が、もし嘘をつかされたら」という発想から始まりました。

真鐘はただの魔法道具ではなく、リディア自身の生き方を映す存在でもあります。彼女は最初、王家のため、婚約者のため、家の役目のために鐘を守っていました。けれど最後には、自分の意思で鐘を守り、自分の意思で未来を選びます。


婚約指輪を溶かして真鐘を修復する場面は、この話の中心です。

破られた誓いの象徴を、真実を取り戻すための銀に変える。

リディアにとってそれは、過去を捨てることではなく、過去に意味を与え直す行為だったのだと思います。


ユリウスとの関係も、最初から完成された恋ではなく、「信じる」「共に責任を負う」「時間をかけて音を整える」ものとして描きました。

最後の小鐘はまだ不格好ですが、だからこそ二人にふさわしい誓いの形になったのだと思います。


偽りに塞がれた声も、取り戻せる。

壊れた未来の代わりに、新しい音を作ることもできる。


そんな余韻が少しでも残っていれば嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ