第6話 黒の兆
いつもの満員電車も、この道の景色も、今日で見納めだ。
デスク周りの片付けをもう一度確認し、上司と同僚に挨拶を済ませる。
昼前、会社を出ようとした、その時だった。
「千紘さーん」
後ろから声をかけられ、私は立ち止まり、振り返って言った。
「日和さん、昨日はありがとう」
昨日、ささやかな送別会を開いてくれたのだ。
それを思い出し、自然とそう言葉が出た。
「いえいえ、こちらこそ、昨日はありがとうございました」
少し間を置いて、日和はにやりと笑う。
「千紘さん、昨日の帰り際に〇〇君から、何か声かけられてませんでした?」
「そうだった?」
帰り際、連絡先を交換しようと言われた気がする。
でも、咄嗟に断ったのだった。
「千紘さん、人気あるんですよ」
日和が、耳元でひそっと囁く。
「そんなわけないよ……日和さんのほうが――」
途中で言葉が詰まった。
顔が熱くなるのがわかる。こういうのは、昔から苦手だ。
「うふふ、本当ですよ」
日和は、少しだけ悪戯っぽい顔で微笑んだ。
「千紘さん、また今度、食事でもしましょうね」
「うん、またね。じゃあ」
軽く手を振り、私は会社を後にした。
会社を辞めてからの数日間、特に何をするでもなく家にいた。
というより、何もやる気が起きなかった。
スマホを眺めれば、相変わらず火事のニュースが目に入る。
海外に目を向けても、山火事や大規模火災の話題ばかりだった。
――そういえば。
先日巻き込まれた、あのビル火災。
原因は結局、報道では「不明」のままだった。
あの黒い揺らぎは……。
あのスーツの男性は、何を知っているんだろう。
ふと思い立ち、かばんの底を探る。
指先に、紙の感触が当たった。
名刺だった。
……消防庁。
……特別災害。
聞いたことのない肩書きだった。
消防庁の公式サイトを調べてみたが、「特別災害対策室」という部署は見当たらない。
わからないことだらけだ。
でも――私は一般人だ。
知らなくてもいい。消防の人たちが対処すべきことだ。
そう思いたいのに。
名刺をポケットに入れ、床にごろんと横になる。
天井を見上げると、視界の端に積み上げられた段ボールが入った。
無機質な箱が並ぶ様子は、都会のビル群みたいだ。
田舎に帰れば、もうこんな火事に巻き込まれることもないだろう。
……やっぱり、帰ろう。
それが一番いい。
夕食の材料を買いに、近くの商店街にあるスーパーへ向かうことにした。
家から歩いて十分ほどの距離だ。
普段なら、目的地だけを見て早足で歩く。
けれど最近は、周囲に目が向くようになっていた。
今まで気づかなかった店。
見慣れない路地。
少し遠回りして、普段は通らない裏通りへ出た、その瞬間だった。
胸が重くなる。
息が、しづらい。
――また、この感覚。
私は無意識のうちに呼吸を整えていた。
ゆっくり、深く。
すると、少しずつ楽になっていく。
周囲を見渡したとき、一軒の骨董品屋が目に入った。
その店から、黒い揺らぎが漏れ出している。
煙ではない。
熱でもない。
空気そのものが歪んでいるような、不気味な揺らぎ。
しかも――
それは、いつもよりはっきりと見えていた。
黒い揺らぎは、うねるように周囲へ広がっていく。
〈このままでは、必ず火事が起こる〉
理由はわからない。
でも、確信だけはあった。
〈でも……どうしよう〉
まだ火の気はない。
この状態で消防に連絡しても、相手にされるとは思えない。
〈消防……そうだ〉
ポケットに入れた名刺を思い出す。
スマホを取り出し、電話をかける。
呼び出し音が鳴ったところで、指が止まり、一度通話を切った。
〈……もし、間違いだったら〉
〈でも、火事が起きたら――きっと後悔する〉
私は、もう一度電話をかけた。
数コールの後。
「はい、霧島です」
「あの……私、開田千紘といいます。先日、病院の玄関で名刺を頂いて……」
「あぁ、開田さんですね。どうされました?」
私の名前を聞いた瞬間、声のトーンがわずかに上がった気がした。
「実は今、〇〇商店街にいて……信じてもらえないかもしれませんけど、これから火事が起こります」
「嘘じゃないんです。でも、どうしたらいいかわからなくて……」
「大丈夫ですよ、開田さん。詳しい場所は分かりますか?」
「えっと……少し待ってください」
周囲を見回すと、自動販売機が目に入った。
「〇〇区〇丁目〇番地って書いてあります」
「わかりました。すぐに消防を向かわせます。私も向かいますので、開田さんは安全な場所にいてください」
通話が切れた。
〈……信じてくれたのかな〉
その不安は、すぐに打ち消された。
サイレンの音とともに、消防車が次々と集まってきたのだ。
消防隊員たちが、慌ただしく動き始める。
「火災発生の恐れがあります。危険ですので、立ち入らないでください」
規制線が張られ、人々は通りの外へと誘導されていく。
私は骨董品屋の向かい側にいたが、消防隊員に離れるよう指示された。
「その人は協力者だ」
聞き覚えのある声。
振り向くと、あの名刺の男性――霧島が立っていた。
「連絡、ありがとうございます」
私が軽く会釈で返すと、彼は店の方へ視線を向ける。
「あの骨董店ですね」
私が頷くと、彼は低く呟いた。
「……何か重い空気は感じますが」
そして、こちらを見て問いかける。
「開田さん、あなたは、どう感じていますか?」
「私には……黒い、モヤモヤしたものに見えます」
「……見えるのですか」
一瞬、霧島の表情が揺れた。
私は、店の中から黒い揺らぎが漏れていることを伝えた。
「店の中からは、何か感じますか?」
私は再び呼吸を整え、店をじっと見つめる。
黒い揺らぎは、店の中心から出ているようだ。
そこには、揺らぎを凝縮したような黒い塊が見える。
それを伝えると、霧島は静かに頷いた。
「ありがとうございます。後は、こちらで対応します」
そう言い残し、数人の消防隊員とともに店の中へ入っていった。
――彼は「感じる」と言っていた。
私は「見えている」。
では、私は何を見ているんだろう。
どうして、見えるんだろう。
しばらくして、黒い揺らぎは消えていった。
店から霧島と消防隊員が出てくる。
彼らは、私の前で立ち止まり。
「これが、火事の原因です」
そう言って、透明なビニール袋に入った黒い石の破片を見せた。
「詳しいことは話せません。ただ――今後もご協力いただけるようでしたら、またご連絡します」
私は言葉を失い、ただ頷くことしかできなかった。
石で、火事が起こる?
すぐには、理解できなかった。




