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忘却のイクリプス  作者: 枕 小粒


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5/10

第5話 帰る場所

 会社からは三日間の有給休暇をもらった。


 理由は「体調不良」。

 嘘ではなかった。


 そして、もう心は決めていたのだが、

 上司に電話をかけたとき、退職したいと言葉にするまで、妙に時間がかかった。


 しかし、返ってきたのは、拍子抜けするほど事務的な声だった。


「……じゃあ、休み明けに一度、顔出して」


 電話を切ったあと、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。




 休みの間、私は部屋を片づけた。


 引っ越し先も決まっていないのに、押し入れから段ボールを引きずり出し、要るものと要らないものを分けていく。


 不思議と迷いはなかった。


 服も、本も、使っていない食器も、次々と箱に入れていった。




 休み明け、出社して上司と向かい合った。


 引き留められると思っていたわけではないけれど、何も言われないのは、それはそれで少しだけ寂しかった。


 仕事は淡々と引き継がれ、月末で退職することが決まった。


 デスクを片づけながら、私はようやく実感した。

 ――本当に、辞めるんだ。




 退職願を出した夜、伯母へ連絡した。


 会社を辞めたこと。


 一度、墓参りも兼ねて帰ろうと思うこと。


 理由は聞かれなかった。


 いつでも帰ってきていいよ、と言われ、帰省中は伯母の家に泊まればいいとも言ってくれた。


 ひと晩悩んだ末、今度の週末に帰ることにして伯母へ電話した。


「今度の土曜日に一泊で帰ってもいい?」


「わかったよ。じゃあ駅まで迎えに行くね」


「電車の時間、分かったら教えて」


「うん、わかった」




 そして次の土曜日。


 私は新幹線と電車を乗り継いで、夕方に地元の駅へ辿り着いた。


 あいにく天候は雨で、山は霞んで見えない。


 改札を抜けると、探すまでもなく伯母が手を振って待っていた。


「久しぶりだねー」


 実際、一年ぶりだった。


「うん。今日はありがとう、春おばちゃん」


「いいよいいよ、気にしなくて。さ、車あっちだから」


 雨は少し止んでいたが、車に乗って走り出すと、また強くなってきた。


「伯父さんは今日お仕事?」


「ううん、家で待ってるよ。千紘が帰ってくるの楽しみにしてる」


「そっか」


「今日は雨だからね。明日お墓参りに行こうと思ってるけど、いい?」


「うん、いいよ」


 車は橋を渡り、上り坂に入る。


 スキー場を過ぎ、トンネルを越えると、景色は別世界のように変わった。


 高校時代、毎日バスで見ていた風景だ。


「懐かしいでしょ」


 伯母の声に、私は窓の外を見ながら頷いた。


「帰ってきていいのよ。うちに住めばいいって伯父さんも言ってる」


「……うん」


 ありがとうと言ったつもりだったけれど、声にならなかった。


 悟られないよう、必死に外を見続けた。




 駅から三十分ほどで伯母の家に着いた。


 玄関には伯父が立っていた。


「おー、よく来たね、千紘ちゃん」


「伯父さん、お久しぶりです」


「さあさあ、上がって。ゆっくりしていきなさい」


 リビングのソファに座り、他愛ない会話が始まる。

 祖母のこと、地元の話。


 仕事を辞めたことには、誰も触れなかった。


 夕食は伯母が用意してくれた。

 味付けは、やっぱり祖母に似ている。


 その日はお風呂に入って、早めに眠った。




 翌日は晴れた。


 家から少し離れた高台の墓地へ向かう。


 開田家代々の墓。その隣に遠野家の墓。

 どちらも掃除が行き届いていた。


 伯父と伯母に感謝しつつ、しゃがんで手を合わせる。


 〈おばあちゃん、お父さん、お母さん、ただいま〉


 〈千紘は元気です〉


 しばらくして目を開け、立ち上がった。


「もういいの?」


 伯母の問いに頷き、墓を後にする。


 帰り道、高台から山が見えた。


 山頂付近から、いつものように薄く煙が立ちのぼっている。


 その裏手に、一瞬だけ黒い揺らぎが見えた気がした。


 でも、見直しても何もない。

 ――疲れてるんだ。




 帰宅後。


「千紘ちゃん、今日の電車は何時?」


「15時です」


「じゃあ、それに間に合うよう送るね」


「ありがとうございます」


 遠慮するのもおかしくて、素直に礼を言った。


「そうそう、千紘に渡したい物があって」


 伯母は奥の部屋へ行き、箱を持って戻ってきた。


「はい。開けてみて」


 中には腕時計が入っていた。


「おばあちゃんが昔使ってたの。整理してたら出てきてね」


「結構いいやつみたいだから、千紘が持ってきな」


「……ありがとう」


 祖母の時計。

 ぼんやりと、記憶がよみがえる。


 玄関を出るとき、伯父が言った。


「いつでも帰ってきていいからな。ここに住んでもいいんだから」


「はい、ちょっと考えさせて下さい」


 また連絡するとだけ伝え、車に乗り込んだ。




「また、いつでもおいでね」

 駅で伯母にそう言われ、別れた。


 時計のことを思い出し、帰りの電車で着けてみる。


 サイズはぴったりで、時刻も日付も合っていた。

 形見だと思うと、胸が少し温かくなる。


 新幹線へ乗り換えたあと、いつの間にか眠っていた。


 到着のアナウンスで目を覚ます。


 不思議な夢を見た気がするけれど、内容は思い出せない。


 自宅に着くと、またすぐ眠ってしまった。


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