第5話 帰る場所
会社からは三日間の有給休暇をもらった。
理由は「体調不良」。
嘘ではなかった。
そして、もう心は決めていたのだが、
上司に電話をかけたとき、退職したいと言葉にするまで、妙に時間がかかった。
しかし、返ってきたのは、拍子抜けするほど事務的な声だった。
「……じゃあ、休み明けに一度、顔出して」
電話を切ったあと、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。
休みの間、私は部屋を片づけた。
引っ越し先も決まっていないのに、押し入れから段ボールを引きずり出し、要るものと要らないものを分けていく。
不思議と迷いはなかった。
服も、本も、使っていない食器も、次々と箱に入れていった。
休み明け、出社して上司と向かい合った。
引き留められると思っていたわけではないけれど、何も言われないのは、それはそれで少しだけ寂しかった。
仕事は淡々と引き継がれ、月末で退職することが決まった。
デスクを片づけながら、私はようやく実感した。
――本当に、辞めるんだ。
退職願を出した夜、伯母へ連絡した。
会社を辞めたこと。
一度、墓参りも兼ねて帰ろうと思うこと。
理由は聞かれなかった。
いつでも帰ってきていいよ、と言われ、帰省中は伯母の家に泊まればいいとも言ってくれた。
ひと晩悩んだ末、今度の週末に帰ることにして伯母へ電話した。
「今度の土曜日に一泊で帰ってもいい?」
「わかったよ。じゃあ駅まで迎えに行くね」
「電車の時間、分かったら教えて」
「うん、わかった」
そして次の土曜日。
私は新幹線と電車を乗り継いで、夕方に地元の駅へ辿り着いた。
あいにく天候は雨で、山は霞んで見えない。
改札を抜けると、探すまでもなく伯母が手を振って待っていた。
「久しぶりだねー」
実際、一年ぶりだった。
「うん。今日はありがとう、春おばちゃん」
「いいよいいよ、気にしなくて。さ、車あっちだから」
雨は少し止んでいたが、車に乗って走り出すと、また強くなってきた。
「伯父さんは今日お仕事?」
「ううん、家で待ってるよ。千紘が帰ってくるの楽しみにしてる」
「そっか」
「今日は雨だからね。明日お墓参りに行こうと思ってるけど、いい?」
「うん、いいよ」
車は橋を渡り、上り坂に入る。
スキー場を過ぎ、トンネルを越えると、景色は別世界のように変わった。
高校時代、毎日バスで見ていた風景だ。
「懐かしいでしょ」
伯母の声に、私は窓の外を見ながら頷いた。
「帰ってきていいのよ。うちに住めばいいって伯父さんも言ってる」
「……うん」
ありがとうと言ったつもりだったけれど、声にならなかった。
悟られないよう、必死に外を見続けた。
駅から三十分ほどで伯母の家に着いた。
玄関には伯父が立っていた。
「おー、よく来たね、千紘ちゃん」
「伯父さん、お久しぶりです」
「さあさあ、上がって。ゆっくりしていきなさい」
リビングのソファに座り、他愛ない会話が始まる。
祖母のこと、地元の話。
仕事を辞めたことには、誰も触れなかった。
夕食は伯母が用意してくれた。
味付けは、やっぱり祖母に似ている。
その日はお風呂に入って、早めに眠った。
翌日は晴れた。
家から少し離れた高台の墓地へ向かう。
開田家代々の墓。その隣に遠野家の墓。
どちらも掃除が行き届いていた。
伯父と伯母に感謝しつつ、しゃがんで手を合わせる。
〈おばあちゃん、お父さん、お母さん、ただいま〉
〈千紘は元気です〉
しばらくして目を開け、立ち上がった。
「もういいの?」
伯母の問いに頷き、墓を後にする。
帰り道、高台から山が見えた。
山頂付近から、いつものように薄く煙が立ちのぼっている。
その裏手に、一瞬だけ黒い揺らぎが見えた気がした。
でも、見直しても何もない。
――疲れてるんだ。
帰宅後。
「千紘ちゃん、今日の電車は何時?」
「15時です」
「じゃあ、それに間に合うよう送るね」
「ありがとうございます」
遠慮するのもおかしくて、素直に礼を言った。
「そうそう、千紘に渡したい物があって」
伯母は奥の部屋へ行き、箱を持って戻ってきた。
「はい。開けてみて」
中には腕時計が入っていた。
「おばあちゃんが昔使ってたの。整理してたら出てきてね」
「結構いいやつみたいだから、千紘が持ってきな」
「……ありがとう」
祖母の時計。
ぼんやりと、記憶がよみがえる。
玄関を出るとき、伯父が言った。
「いつでも帰ってきていいからな。ここに住んでもいいんだから」
「はい、ちょっと考えさせて下さい」
また連絡するとだけ伝え、車に乗り込んだ。
「また、いつでもおいでね」
駅で伯母にそう言われ、別れた。
時計のことを思い出し、帰りの電車で着けてみる。
サイズはぴったりで、時刻も日付も合っていた。
形見だと思うと、胸が少し温かくなる。
新幹線へ乗り換えたあと、いつの間にか眠っていた。
到着のアナウンスで目を覚ます。
不思議な夢を見た気がするけれど、内容は思い出せない。
自宅に着くと、またすぐ眠ってしまった。




