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忘却のイクリプス  作者: 枕 小粒


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第3話 予兆

 マンション火災の翌日、千紘は頭痛とめまいでベッドから起き上がれなかった。

 天井がゆっくり回っているようで、身体を動かすたびに吐き気がこみ上げる。


 結局その日は会社を休み、昼過ぎになってようやく身支度を整え、近所のクリニックを受診した。


 医師は簡単な問診と診察を終えると、パソコン画面から視線を外さないまま言った。


「疲れでしょう。最近忙しかったんじゃないですか」


 点滴を受け、処方箋をもらい、千紘はそのまま帰宅した。


 身体は軽くなった気がしたが、胸の奥に引っかかるような違和感だけは消えなかった。


 翌日からは、何事もなかったかのように出社した。




 そして、2週間後。


「開田さん、来月のクライアント打ち合わせの件だけど、プレゼン資料まとめといて」


 上司からの指示だ。

 内容は大きな案件で、失敗は許されない。


「……分かりました」


 そう答えながら、千紘は心の中でため息をついた。

 しばらくは残業続きだな、と。


 それからの日々は、資料作成と修正の繰り返しだった。

 数字とスライド、メールと会議。

 毎日、夜遅くに会社を出るたび、胸の奥に何か引っかかるような感じがしたが、深く考える余裕はなかった。




 プレゼン当日。


 上司と一緒にクライアントの会社へ向かった。

 ビルの前に立った瞬間、千紘はふと足を止めた。

 理由は分からない。


 ただ、胸の奥が重くなるような感じがした。


(気のせい……)


 そう思い、エントランスを抜ける。


 プレゼンの行われる階では、別に市民向けの講座も開かれていたため、エレベーターは満員であった。

 上階へ向かう間も、息が少し浅い。


 会議室に着くと、すでに何人かが着席していた。


 準備を進める中で、千紘のプレゼンの順番が近づいていく。


 それと同時に、胸苦しさははっきりとした痛みに変わっていった。

 呼吸を整えようとしても、うまく息が入らない。

 背中に冷たい汗が流れる。


(おかしい……)


 そう思った、その瞬間。


 非常ベルが、ビル全体に鳴り響いた。




「落ち着いて、焦らず非常階段から降りてください」

「エレベーターは使わないでください」


 誰かの声が、騒然としたフロアに響いていた。


 千紘は上司と一緒に、人の流れに押されるように非常階段へ向かう。

 だが胸の苦しさは引くどころか、歩くたびに強くなっていった。


 非常階段の入口に差し掛かった、その時だった。


 ――かすかに、泣き声のようなものが聞こえた気がした。


 足を止め、辺りを見回す。

 非常階段のすぐそば、自動販売機の影に、小さくうずくまる影があった。


 子供だ。


 泣き声を必死に押し殺すように、肩を震わせている。


「……大丈夫?」


 千紘は駆け寄り、声をかけると、子供はそっと顔を上げた。


 その間に、上司の姿はすでに非常階段の向こうに消えていた。


 千紘は迷わず、子供のそばにしゃがみ込む。


「一緒に行こう」


 手を引き、非常階段の扉を開けた瞬間、濃い煙が流れ込んできた。

 もう皆降りていったようだ、急がないと。


 視界は白く濁り、ずっと胸の奥は締め付けられたままだ。

 息を吸おうとしても、うまく肺に空気が入らない。


 意を決して、千紘は子供を抱き上げた。

 ハンカチを取り出し、子供の口元に当てる。


「これ、離さないでね」


 身を低く屈め、階段を降り始める。

 一段、また一段。


 だが煙は次第に濃くなり、視界はほとんど効かなくなった。

 意識が遠のき、足元がふらつく。


 次の瞬間――

 躓き、右膝を強く打ちつけた。


 鋭い痛みが走り、思わず息が詰まる。

 そのとき、不意に昔の記憶がよみがえった。


 ――「息を、ゆっくり吸って、吐いて」


 昔、転んで膝を擦りむいたときだった。

 痛くて泣いていた千紘に、おばあちゃんはそう言って、膝に手を当ててくれた。

 不思議と、あのとき痛みはすっと引いていった。


(……そうだ)


 千紘は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。

 吸って、吐いて。

 身体の奥まで空気が巡るのを意識する。


 胸の苦しさが、ほんの少し和らいだ。

 膝の痛みも、気のせいか軽くなったように感じる。


「お姉ちゃん……だいじょうぶ?」


 腕の中で、子供が不安そうに尋ねる。


「うん、大丈夫だよ」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「もうすぐ外に出られるからね」


 何の確信もなかった。

 それでも千紘は、精一杯、気丈に微笑んだ。




 どれだけ階段を降りただろうか。

 視界の端に防火扉の表示が入った。


 ――2F


(あと一階……)


 そう思った、その瞬間だった。


 何か来る。

 嫌な気配を感じた。


 そして、下の階から、黒い揺らぎが立ち上ってくるのが見えた。

 煙とは違う。

 熱でもない。

 空気そのものが歪んでいるような、不気味な揺らぎ。


 このまま降りたら、危ない。


 理由は分からない。

 でも、本能がはっきりと告げていた。


 千紘は一瞬も迷わず、防火扉を押し開けた。


 自分でも驚くほど、頭は冷えていた。

 胸の苦しさは残っているのに、思考だけが澄んでいく。


(窓……)


 そう思い、ゆっくりと深呼吸をしながら、フロアを見渡す。


 視界の奥に、ひとつの窓が目に入った。

 なぜその窓なのかは分からない。


 ただ――そこだ、と思った。


 千紘は子供を抱いたまま窓へ向かい、ためらいなく開け放つ。

 冷たい外気が一気に流れ込み、肺に新鮮な空気が入った。


「助けてください!」


 声を張り上げると、すぐ真下で動きがあった。

 レスキュー隊が、すでに到着していたのだ。


 はしごがかけられ手際よく救助が始まる。

 子供が先に、続いて千紘も外へと導かれた。


 そこから先の記憶は、途切れている。


 地面に足がついた感触だけが、かすかに残っていた。


「…おねえちゃん!」

 そう呼ぶ声が聞こえた気がした。


 次の瞬間、意識は暗闇に沈み――


 千紘は、その場に倒れ込んだ。

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