第2話 気配
今日も、いつもと同じ満員電車に揺られて出社した。
人の気配と熱気に包まれた車内は、朝から息苦しい。
改札を抜けたところで、後ろから声をかけられた。
「千紘さん、おはようございます」
振り返ると、同期の犬飼日和が手を軽く振っていた。
いつも穏やかな笑顔で、誰とでもすぐ打ち解けるタイプだ。
「おはよう」
挨拶を返すと、日和は当然のように私の隣に並んだ。
「偶然ですね。ご一緒しましょう」
駅前の電光掲示板では、先日の火災のニュースが繰り返し流れている。
〈◯月◯日 ◯◯区で発生した火災 原因は依然不明〉
「最近、火事多いですよね。しかも原因不明って……ちょっと嫌じゃないですか」
「そうだね。怖いよね」
そう答えた直後、日和が少しだけ声を潜めた。
「そういえば千紘さんって、霊感強いんですか?」
「え?」
「先輩が言ってました。千紘さん、勘が鋭いって」
くすっと笑いながら、冗談めかして続ける。
「霊感強いなら、火事が起きる場所も分かったりして」
「そんな便利なものがあったら、苦労しないよ」
そう返しながら、胸の奥が少しだけざわついた。
——確かに、昔からそう言われることは多かった。
例えば、理由もなく通ろうとした道を避けた日。
しばらくして、その先で事故があったと知ったことがある。
偶然だと片付けてきたけれど、何度か似たことが続いた。
最近感じる、あの息苦しさも——
もしかして、それと同じものなのだろうか。
私って、何か変なんだろうか。
そんなことを考えているうちに、会社に着いた。
日和とはエレベーター前で別れ、私は自分のデスクへと向かった。
昼の休憩は、ほとんど決まってデスクで済ませる。
コンビニのおにぎりか、サンドイッチ。その日の気分次第だ。
片手で食べながら、スマホを眺める。
ニュースを流し見して、SNSを開いて、特に考えることもなく既読を付けていく。
その途中で、見慣れた名前が目に留まった。
〈元気にしてる?〉
伯母からのメッセージだった。
〈もうすぐおばあちゃんの三回忌よ〉
〈時間に余裕があったら、帰ってこれる?〉
少し考えてから、短く返事を打つ。
〈元気だよ〉
〈スケジュール確認して、また連絡するね〉
〈伯父さんも元気にしてる?〉
送信して、画面を閉じた。
——そうか。
おばあちゃんが亡くなってから、もう二年も経つんだ。
小さい頃から、おばあちゃんと二人で暮らした故郷。
思い出そうとしなくても、勝手に浮かんでくる景色がある。
……一度、帰るのもいいかもしれない。
午後の仕事は、思っていたよりも捗った。
気がつけば、まだ外は明るいが退社できる時間になっていた。
デスク周りを手早く片付け、同僚に軽く挨拶をして、会社をあとにした。
まだ日があるうちに帰るのは、久しぶりだ。
普段より早い足取りで駅に着いたものの、改札前は人で溢れていた。
嫌な予感がして、電光掲示板を見上げる。
〈〇〇線 線路点検のため運転を見合わせております〉
——運が悪い。
ちょうど、私が使う路線だった。
こんな時に霊感でもあればいいのに。
そんなことを考えながら、遠回りになる別の路線を使うことにする。
最寄り駅に着く頃には、空が少しだけ色を変え始めていた。
自宅までは歩いて十五分ほど。
日が落ちる前に着けるといいな、と思いながら歩き出す。
大きな公園の手前にあるマンションを通り過ぎようとした、その時だった。
——違和感。
マンションの入り口から、異様な空気が流れ出しているように感じた。
胸を、強く押し付けられた。
息が、詰まる。
黒い揺らぎが漏れ出てくる。
——まただ。
あの、嫌な感覚。
考えるより先に、体が動いた。
公園の方へ、必死に走る。
呼吸ができない。
肺に空気が入らず、視界が狭まっていく。
かろうじて公園にたどり着き、その場で振り返った瞬間——
マンションが、黒い炎に包まれていた。
呆然としていると、遅れて消防車や救急車のサイレンが押し寄せてきた。
公園の一角には、いつの間にか何台もの消防車が並び、消火活動が始まっている。
気づけば、周囲には大勢の人が集まっていた。
「危ないので、下がってください」
消防隊員が強い口調で呼びかける。
目の前には規制線が張られ、私たちは公園の外へと押し出された。
必死の消火活動にもかかわらず、火の勢いが弱まる気配はない。
――私は、何となく分かっていた。
あの黒い炎は、普通の火事じゃない。
簡単には消えないんだと。
どれほどの時間が経ったのだろう。
ふと、公園の一角に目が留まった。
火災現場には不釣り合いな、スーツ姿の男性。
数人の消防官に囲まれ、マンションの裏手へと消えていく。
――あんな格好で、火災現場に?
そう思った瞬間だった。
突然、黒い炎が弱まり、嘘のように消えていった。
あれほど重くのしかかっていた空気も薄れ、胸の奥が、少しだけ楽になる。
何が起きたのかは分からない。
それでも、しばらくしたのち鎮火した。
――よかった。もう、帰ろう。
そう思ってその場を離れかけた時、視界の端に人影が映った。
先ほどの、スーツ姿の男性だった。
「どうしました、霧島さん」
近くにいた消防官が、そう声をかける。
「いや……気のせいか。気配がしたんだけどな」
男性はそれだけ言い残し、再び現場の奥へと向かっていった。
――気配?
何の?
その言葉が、妙に頭から離れなかった。




