第1話 見えない火種
ガラス越しに、白い部屋が見えていた。
壁も、床も、天井も、影が出ないほど均一な白。
まるで空間そのものが切り取られ、箱に詰められたようだった。
「こちらは観測区画です」
所長の言葉に、千紘は軽く頷くだけだった。
白い部屋の中央に、それはあった。
石。
拳より少し大きく、黒く、艶のない塊。
展示物のように台座に置かれているわけでもない。
床の上に、当然のように存在している。
「……あれは何ですか?」
千紘が訊ねると、所長は一瞬だけ言葉を選んだ。
「管理対象物です」
見ただけで、ただの石ではないとわかった。
「今から安全装置を解除します。何かあれば教えてください」
千紘は、また頷いた。
不意に、軽い電子音が鳴る。
「安全装置を解除します」
天井のスピーカーから、機械的な音声が響いた。
千紘の胸が、理由もなくざわつく。
——少し待って!
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
白い部屋の空気が、変わった。
目に見える変化はない。
それなのに、部屋から押されるような圧を感じる。
「……っ」
息が、うまく吸えない。
気分が悪い。
それも、急にだ。
胃の奥が持ち上がり、頭がぐらりと揺れる。
ただ立っているだけなのに、身体が拒絶反応を起こしている。
「……さん?」
名前を呼ばれた気がしたが、返事はできなかった。
視線が、勝手に石へ引き寄せられる。
黒い石が、わずかに脈打った。
次の瞬間——それが、“滲んだ”。
煙ではない。
光でもない。
黒い、揺らぎ。
それを見た途端、確信が走る。
——これは、あってはいけないものだ。
心臓が早鐘を打つ。
吐き気がこみ上げ、千紘は思わずガラスに手をつき、その場に座り込んだ。
所長が、慌ただしく指示を出している。
やがて、安全装置が再作動する音が響いた。
白い部屋の異変が、ゆっくりと収束していく。
やがて、空気は元に戻った。
……戻った、はずだった。
「大丈夫ですか?」
所長の声で、現実に引き戻される。
千紘は、かろうじて頷いた。
——ただ、見ただけ、それなのに。
石から滲み出た“何か”が、まだ目の奥に焼きついて離れなかった。
——数ヶ月前。
千紘は、その朝も少しだけ寝坊をした。
目覚ましを止め、慌てて身支度を整え、玄関を飛び出す。
駅までの道はいつもと同じ。
コンビニでコーヒーを買って、改札を抜ける。
満員電車。
吊り革を握ったまま、スマホで無意識にニュースを流し読みする。
《都内で小規模火災が相次ぐ》
《いずれも原因不明》
「またか」
口に出すこともなく、心の中でそう思った。
最近、こういう記事がやけに多い気がする。
けれど、どれも被害は小さく、続報もない。
しばらくすれば、別の話題に埋もれて消えていく。
千紘にとっては、通勤途中に目に入る“数あるニュースのひとつ”でしかなかった。
今日も会社では、特別なことは何も起きなかった。
会議。
メール。
修正依頼。
誰かのため息と、キーボードの音。
いつも通りの一日。
定時を過ぎ、外はもう真っ暗になっていた。
夜遅くの街は、少し怖い。
千紘は、人通りのあるうちに帰ろうと会社を出た。
街灯に照らされて駅まで向かう。
ビルの隙間を抜ける風が、思ったより冷たかった。
最寄り駅から自宅までは、徒歩十分ほど。
大通りを避け、一本裏の道を使うのがいつもの帰り道だ。
しかし、その異変に気づいたのは、横断歩道を渡り切った直後だった。
——息が、苦しい。
胸が締めつけられるような感覚。
急に、空気が薄くなったような気がした。
「……?」
立ち止まり、深く息を吸おうとする。
だが、うまくいかない。
喉の奥がざらつく。
肺に空気が入ってこない。
具合が悪いのかと思い、周囲を見回す。
すると——
路地の奥で、何かが揺れていた。
煙ではない。
光でもない。
黒に近い色の、曖昧な揺らぎ。
そこだけ、空気の輪郭が歪んで見える。
ゆらり、と。
千紘は、思わず一歩後ずさった。
すると、不思議なことに。
呼吸が、少しだけ楽になる。
「……なに、あれ」
心臓が早鐘を打つ。
理屈より先に、嫌な予感がした。
関わってはいけない。
ここに居てはいけない。
千紘は、視線を逸らし、足早にその場を離れた。
振り返ることは、できなかった。
その夜。
遠くで、サイレンの音が鳴った。
スマートフォンを確認すると、通知が表示されている。
《○○区 路地裏の店舗で火災発生》
場所を見て、千紘の背中に冷たいものが走った。
——さっきの、あそこだ。
偶然。
ただの偶然。
そう思おうとした。
けれど。
目を閉じると、さっき見た黒い揺らぎが、はっきりと思い出される。
煙じゃない。
火よりも先に、そこに“あった”もの。
ニュースは、翌朝には別の話題に押し流された。
誰も気にしない。
誰も覚えていない。
それでも——
千紘の中で、何かが、確かに引っかかり続けていた。




