第二話『噛んじゃうぞ!』
人が死ぬのを初めて見た。
あの変異個体と説明された化け物を、人と呼べるかは怪しい。それでもモニターに映っていた赤に染まった光景の中心には、人間と、人間だったものと、正しく人間だったものがいた。
変異個体も、その原型を思えば、紛れもない人間だった。
それでも人の叫び声が、この巨大な船のそこかしこにある赤い染みと痕跡が、俺の部屋から遠く離れた今になっても、未だに身体の熱を奪っていくように思えた。
サイレンはいつの間にか鳴り止み、俺は周囲を確認しながら、さっき起きた俺の身体の異常を確かめる為に、リストタグを見る。
そこに映し出されていたのは『同意済み』という文字。おそらくあのどさくさに紛れて、リストタグを押さえていたのだろう。そんな偶然に、俺は助けられたという事だ。
「それにしたって、あの糸は……」
同意の意味の本質を俺はまだ理解できていない。しかし同意をしたという事実は変わらない。だからこそ俺はあの時咄嗟に出した右手に意味が宿ったのだ。
ドアを打ち破る程の打撃を受け止める程の糸、それが俺の右手から出てきた瞬間を覚えている。
「ああなっていないって事は、変異は免れた、のか?」
俺はリストタグの同意と書かれた盤面を何度か押してみると、自分の名前や同意済みと書かれた表記の間に、見慣れない文章を幾つか見つけた。俺は改めてその文章に表示を戻し、首を傾げる。
「定着率……20%?」
盤面にその表示が出ている時だけ、リストタグは青い光を放っていた。簡素な作りに見えて、外せそうな様子もない事から、今自分が置かれている状況に、強い科学の力のような物を感じたが、それ以上に、定着率の次の表示が現実味を奪っていった。
「これは……神の名前、だったか」
定着という、明らかに何かを自分の身体に足されたであろう数字と、変異個体に襲われた時に自分の右手から出たあの不思議な糸。
それを説明するのに、どうやらふさわしいであろう神の名前だけが、そこに表示されていた。
説明は一つもない。ただ、俺が使ったあの力を、こう呼ぶのかもしれない。
「クロ……トッッ?!」
リストタグに書かれている言葉を試しに呟くと、右手の指先から、五本の糸が意思を持っているかのように飛び出る。
痛みや、違和感は無い。ただ焦りを感じるのは、当然の事。こんな状況だとはいえ、人が死んでいるとはいえ、人が変異している地獄のような場所だとはいえ、そんな簡単に受け入れられるものじゃない。
それも、俺が当事者として、この糸を操っているのならば、尚更だ。
俺が自分の部屋から逃げ出した時、考えていた事は生存という事よりも、苛立ちによる対峙だ。
それに応じてこの、クロトの糸が動いたというならば。今思うべきはこれだけでいい。
「意識が、影響するのか……」
引っ込めと軽く念じると、その糸は命令を受けたかのようにスッと質量すら感じない程に、まるでその場で消えるような速度で、右手の指へと戻っていった。
つまりは、これが俺の武器、という事なのだろうか。
それでも、あの変異個体と対峙出来る程、強そうな物じゃない。拘束を解かれるのがオチだろうと思っていた。だからこそ、何とかして生存者を見つけるのが得策のはず。
響く波音も、軋む船の音も、今は恐怖の対象にはならない。
ただ、そこら中で感じる死の気配だけが恐怖だった。
だが、留まるのは悪手だと、自分の警鐘が鳴っている。
「こんな地獄じゃ、足止めは気休めでも……まぁ、使えないことは……」
周りの音に混じって聞こえた、明らかな異音に、恐怖から出た独り言が止む。
少し遠くで、変異個体が唸りながら船室の壁を殴り続けていた。
その一撃ごとが重いのは、へこんでいく壁を見ればすぐ理解できる。
俺は咄嗟に息を潜めたが、変異個体は部屋の中にいる俺を外側から認知して殺そうとまでしてきたのだ。何か、おかしな本能が芽生えているのかもしれない。
その証拠に、唸り声が、こちらへ向く。
その口元からは、皮膚を突き破っている牙のようなものが見えた。
「そりゃ、別人なのは、分かるけどさ」
俺の部屋に来た変異個体に、牙が無かった。
――それに、こんなに素早い動きも、知らない。
「畜生、せめて役に立ってくれよ!」
言いながら放ったクロトの糸は、向かってくるヤツの肥大化している足元に巻き付き、地面へと叩きつけた。
――だけれど、やはりヤツらを無力化できる程、強固な糸じゃない。
殺そうという度胸は無かった。だけれど、殺さなければいけないという事も分かっていた。
俺は慎重に、もう一度クロトの糸をヤツの身体に向けて放つ。
ヤツの唸り声に不快感を感じながらも、なんとかその両腕も拘束に成功した。しかし、それをこの変異個体が破らないという保証はない。
「せめて、武器となるものがあれば……」
未だ、生命を殺すという覚悟も無いのに、言葉だけが空に漂う。
それでも、いざとなれば身を守る為にも、手ぶらというわけにもいかない。俺は未だに唸り続けている変異個体をそのままにして、武器を探そうと足音を殺しながら、部屋を探す。
道中、俺がいた部屋と同じ間取りの部屋を見つけたが、武器らしきものは存在しなかった。あったのは海に流してしまいたい程の血液と、目を背けたくなるような亡骸だけ。
船は広いが、周りが見渡せない程でもない。
俺は遠くに見える変異個体を避けながら、広そうな部屋を見つけ、その奥を覗き込む。
人型が見えたと思い、一瞬身構えた俺に、後ろから声がかかった。
「後ろのしょーめんだーれだ!」
その声に驚いて振り向くと、そこには、大人とも、少女とも呼べない無邪気な笑みを浮かべた、何かが立っていた。
彼女は、人だろうか。
――長い銀髪に、元々は白かったであろう、赤のワンピース。
彼女は、人だろうか。
その姿を、少しでも綺麗だと思ってしまったのは、この恐怖を誤魔化したかったのかもしれない。
月の光が彼女の金色の瞳を、キラキラと照らしていた。
同時に、笑顔の端に映る赤く濡れた牙をも、ギラギラと照らしている。
「お前……アイツらの仲間じゃない、よな?」
変異個体が言葉を話せるのならば、俺はもうお手上げだ。
「んー? ワタシ? だいじょーぶ、ちゃんと生きてるよ?」
俺の横を通り過ぎて、部屋に入った彼女は、口元を服で拭い、楽しそうに笑っているように見えた。
人よりも鮫か何かを想像させる牙と、見間違えるはずもない赤い液体。
それは、変異個体達がやっていた事と同じ事をした結果のように思える。
なのにどうしてこの子は、笑っているのだろう。
「ん? その目……信用してないなー! ワタシは人間! 攻撃してきたら噛んじゃうぞ!」
牙が、ギラリと光ったように見えた。
しかし、こちらを振り返って彼女が取ったポーズは、クマのように両手をぐわんと上げた可愛らしいものだ。
それに合わせて、俺も両手を真っ直ぐに上げる。
いわゆる、降参のポーズ。今はとりあえず、俺に攻撃の意思が無いということが伝われば良い。
――あの牙を見れば、この場でのイニシアチブを彼女が握っているのは明らかだ。
「それも能力……か。詳しい話は聞かないが、物騒なのを貰ったみたいだな」
「んー、イサナは結構おバカだからなー。あんま分かんないや。ただ、立派な歯を貰っただけ。これで歯医者いらずだね!」
イサナと名乗る少女は、こんな状況なのに友達とでも話しているかのように笑っている。
正直、常軌を逸しているとしか思えないが、だからこそあのモニターで見た地獄のような光景を生き残ったのだろう。
「お兄さんは何ができるのー? ワタシの周り、すぐに駄目になっちゃってさ。他の人がどんなことできるか、まだ知らないんだ」
彼女は興味深そうにこちらに近づく、月のような瞳が近づき、長い銀髪が俺の手に触れる。まるで吸血鬼か何かと対峙しているように思えた。
「……俺は、これだよ」
神の名を与えられたという情報自体はリストタグから受信したものの、何が出来るかと言えば、時間稼ぎの拘束くらいのものだ。
俺はリストタグでクロトという名前を見せてから、興味津々のイサナに当たらないように、クロトの糸を出して見せる。
「おぉー! 糸かー! そういうのもあるんだね!」
彼女は楽しそうにそれを目で追いながら、最後に視線を部屋奥の人影に向けた。
「イサナはね……これ!」
言いながら、彼女は自身の指を口に含む。
不思議に思いそれを見ていると、笑っていた彼女の目の色が変わる。
――黄色かったはずの彼女の目が、赤く染まっていた。
「ん、あの子ももう駄目そう……ごめんねっ!」
そう言いながら、彼女は人影に向かって跳躍する。
身体能力で考えるならば、変異個体を思わせるそれだ。
おそらく、あれは変異個体。だがそれを確認する前に、イサナの拳が変異個体の胸をぶち抜いていた。
「これが、私の力、みたい?」
つまり、彼女は決して人を食っていたわけじゃない。
――あの血は、彼女自身の血。
俺は、まだピクピクと動く変異個体を、安全の為に一応クロトの糸で拘束した。死体を弄ぶような気分に嫌悪感を覚えたが、既にイサナは俺の覚悟を軽く越えて、驚異を排除していたのだ。
それを狂気と呼ぶには、この場所はどうにも異常すぎる。
「おおー! がんじがらめ! お兄さんの、便利そうだね! 人を尋問できるよ!」
「人に使うのは、どうかと思うけどな……」
俺が溜息混じりに呟くと、彼女はえへへと笑ってから、突然宙に浮いたままのクロトの糸に噛みつく。
「おおおお! お兄さんの糸堅いね! これだったらさっきのヤツも刺しちゃったら良かったんじゃない?」
どうやら、彼女は俺が変異個体を拘束して放置していたのを見ていたようだ。
確かに、彼女は俺の後ろから来たのだから見られていてもおかしくないが、会った時に彼女の牙が血で濡れていたという事はつまり、そういう事になる。
「悪いな……まだ使い方に慣れてない。お前が代わりにやってくれたんだよな?」
「ん! 楽だった! あとお前じゃなくてイサナはイサナね!」
この子と話していると、どうにも倫理がバグを起こしているようで、優先順位が狂いそうになる。
しかしこの子が戦闘能力を有している事と、生命を断つ覚悟が既に完了している事は分かる。
その覚悟が、元からあったのかと思う程に、簡単に、彼女は変異個体を倒していた。
「あーっと、イサナの力は、血を吸って強くなる、のか?」
「そうだねぇ……顎が疲れる。あと、あんまり美味しくない」
彼女の何ともズレた答えに、深く追求するのを諦める。今必要なのは、彼女と上手くやっていけるかどうかという事だけだ。
変異個体や、例えば俺の血でも強化出来るのなら、かなり有用な能力だとは思うが、変異個体がイレギュラー的に発生しているならば、その血液が安全だとは言い難い。
生存者として友好的に接していけるなら、詳しいことも聞きたいが、俺自身、クロトの糸がどれだけの能力を有しているのか分からない以上、現状把握出来ている分で十分だろう。
「ところで、お兄さん。イサナは早瀬イサナだけど、お兄さんは何お兄さん?」
「名前か? 俺は三の神に土二つで書いて、三神圭だ」
このぼんやりと、かつふんわりと、そしてどこかおかしい彼女にそう言って伝わるかと心配になったが、イサナは楽しそうに何度か俺の名前を呟いた後、変異個体を拘束していたクロトの糸をピンと弾く。
「三つの神様かー、じゃあまだ二人いるんだねー。ケーくんはその名前でその力を貰ったんだよきっと。ここの職員も遊び混じりなのかなぁ……」
イサナは少しだけ真面目な顔をして俺の能力が神由来だという事を言い当てる。自分自身でバカだと言っていたものの、案外頭は回るのかもしれない。
そんなことを思っていると、自室を出る前にうんざりする程に聞かされたサイレンが鳴り響く。
『全実験者の同意を確認しました』
その言葉の意味は、俺も、またイサナも、理解が出来なかったようだ。
だが、このサイレンの後は良くない事が起きる、というすり込みだけは共通認識で持っているのだろう。
イサナは、入口の方に向かい、外を確認した後、扉を締め、ソファやテーブル、挙げ句の果ては拘束してある変異個体までを入口に放り投げるようにして、部屋を封鎖した。
「ケーくんケーくん、同意ってなんだと思う?」
「それ、今言うことか?」
本当はケーくんと呼ばれている事にも疑問を呈したかったが、それこそ今言う事ではなかったから、飲み込んだ。
――何故なら、この部屋のドアを叩く音が聞こえていたから。
しかも、その音は一つではない。サイレンに引き寄せられたわけではないにせよ。明らかにサイレンを基準に動いて、俺達を感知しているような行動に思えた。
「イサナは、生存に同意したいなぁ」
「あぁ……それは同感だ」
俺はさっきイサナに言われた事を思い出して、クロトの糸で、部屋の壁を思い切り突き刺す。
彼女の感嘆の声を聞きながら糸を外すと、壁には小さな穴が開いていた。
――なら、あとは覚悟だけ。
部屋のバリケードが破られるまで、あと何発、あと何秒持つだろうと考えながら、俺は宙に舞う糸に、緊張を奔らせていた。




