第一話『そういう事なんだってよ』
音というのは不思議な物で、それが壊れているかどうかを見極める為の指標になる。
金属がギイと軋む音、鳴り響くサイレンの音。
――それと、人の叫び声が聞こえる。
それらは多くの人間にとって不快な音で、眠っていた俺を、叩き起こすのには十分すぎる喧しさだった。
「夢にしては……現実味が無い」
微かに耳を澄ましてやっと聞こえてくるのが、波しぶきの音だと気付いて、俺は溜息を付いた。
ベッドが一つに、トイレすら無い。代わりにTVモニターだけがある部屋。
俺は定期検診に引っかかり、その後、治療と称して注射を打たれた事までは覚えている。
「治療だとすれば……気味も悪い」
おそらく此処は船の個室だろうという事は想像が付いた。
ただ、聞こえる叫び声は、あまりにもリアルで、まさか自分が精神的な疾患にかかってしまったのだろうかと訝しんでしまう程度には、この状況についていく事が出来なかった。
格好は、記憶のまま。
立ち上がってみても身体に痛みが走るような感覚は無い。
精神的にはあまり穏やかでは無いが、とりあえず何らかの異常が発生している事くらいは分かる。
「何をされるんだか……」
叫び声が、一つずつ聞こえなくなっていく。
それはなんとも、麻酔無しの手術でもされているかのような、断続的かつ、複数の叫び。そうしてそのうちに、思わず気絶してしまったように、パタリと止む。
静寂が、逆に恐怖を煽る。チラつく照明と、揺れる地面。沈黙したままのテレビモニター。
何らかの異常は、確実に起きているのだ。そうして人が叫ぶ程の行為が行われている場に、俺は眠らされて連れてこられたという、頭を抱えたくなる状況もまた、抗いようのない事実。
うっかり眠ったわけでは決して無い、明らかにこれは、強制的に眠りに落とされたというのが正しいはずだ。つまり意図的に、俺は連れてこられた。
――考えられるなら、定期検診、か。
俺が想像もつかない。説明しても納得出来ないような、なんらかの異常性が俺に見つかったという事であれば、このような状況も理解は出来る。理解だけは、出来る。納得は出来るはずが無い。
ただ、往々にしてこんな事が、説明のつかない事が世界には存在するのだろうという気はしていた。現実離れした映画もドラマも、フィクションだとしても、誰かが想像した事だ。
これだけ科学が進歩している現代で、それらが現実に起きないと断定するのはナンセンスではある。ではあるのだが、それでも自分がその当事者になるなんて事を考えて生きる程、想像力が豊かな人間だったわけでもない。
四肢が自由に動くかの確認や、持っていたものを確認しようとして、ポケットに手を入れると、ふと違和感に気付く。
「ん、腕輪……じゃない、時計か?」
その違和感はポケットの中身ではなく、ポケットを弄った俺の手の方にあった。
盤面は緑色に光っている。腕輪にしては洒落っ気が無いシンプルなデザイン、盤面の周りは、ゴムのようなモノだろうか。しかし取り外せるような部分が見当たらない。
しかし、時計にしては盤面部分が大きすぎる。表示されている現在時刻らしい数字を軽くタップしてみると、どうやら表示が切り替わる仕組みのようだった。
「俺の名前……? 読み方まで随分ご丁寧に……」
表示された『三神圭』という表示を見て、俺は溜息を付きながら自分の名前をタップする。と、同時に、俺の部屋の扉から強い衝撃音が響いた。
ノックしているという音では無い。明らかに、誰かが殴りつけているような音。
だが、かといってドアノブが動く様子も無く、部屋の外にいる何者かは、ただひたすらにドアが殴りつけられているようだった。
「……誰、だ?」
俺が声を出すと同時に、ドアを叩く音は速まり、その強さも増していく。
――鉄製のドアが、へこんでいくのが見えた。
思わず、俺はドアから距離を取るが、かといって出られるような場所もなく、ドアは頑丈そうなだけで覗き穴も無い。
耳を塞ぎたくなるくらいに響く、殴打の音。
それはそのうちに、ガチン、とドアの端をへしゃげさせた。
「聞いてなかったら、俺も叫んでいたんだろうな」
叫び声から、何となく、何かとんでもない事が起きるという想像だけはしていた。
ドアの端から見える、血に塗れた誰かの腕、そこには緑色の光が見えた。
――つまりは、俺の未来の姿か何かかもしれない。
人間では、あるのだろう。ただ、どうやら会話が成立する相手では無い事は、未だに止まらないドアの殴打と、その度に漏れ聞こえる人間とは思えない声色で、判断が出来た。
死にたくない。
当たり前の感情が、頭をよぎる。
あまりに当たり前の事すぎて、思わず俺は笑ってしまっていた。
死にたくないが、どうする事も出来ない。息を潜めたら、殴るのをやめてもらえるだろうか。
それとも、ドアをこちら側から開けてあげたなら、笑ってありがとうとでも言ってくれるだろうか。
そんな事を思っていると、いつの間にか止まっていたサイレンの音が響き始め、俺は思わず耳を塞いだ。だが、目を見開く。
モニターから、光を感じたのだ。
殴打の音で、何を言っているのか聞こえない。ただ、モニターには俺の腕についているリストタグらしき映像が映っている。
「あぁクソ! 字幕くらい付けといてくれよ!」
ドアが徐々に開き、俺の部屋に入ろうとしている者の正体が見え始めている。
人間では、あるのだろうというのは間違いだ。
人間では、あったのだろう。
それを証明するかのように、未だに音がかき消され続けているモニターの映像が、おそらく今乗っている船であろう場所を説明するかのように映していく。
耳を塞ぎたいサイレンと殴打の音の中、少しでも情報を求めて見開く目。
その目に飛び込んできた映像は、耳を塞ぐよりも、口を塞ぐに相応しい、地獄だった。
何かを喰らう、何か。
それを言語化しようとするのを、俺の脳が拒否し、胃が痙攣を起こしかける。
「そういう事だというなら、そういう事……なんだろうな」
緊張の糸が、少しずつ解けていくような気がした。
激情に、意図など必要ない事が、分かっていくような気がした。
「そういう事なんだってよ、聞こえてるか?」
外にいる、おそらく人であったであろう化け物はドアを殴って返事をする。
「死ぬんだってよ! おかしくねえか?!」
モニターが流し続けている事実を、叫ぶ。
船内の画像から、また画面が切り替わり、
まるで勉強しろと言わんばかりの『変異個体』という文字と『適正個体』という文字の説明に、思わず笑いが出る。
音声は変わらず聞こえないが、今度はそれらの下にちゃんと説明文が書かれていた。
その説明文に、大した意味は無い。
ただ、これが実験だという事だけが、分かる。
それに耐えた人間と、耐えられなかった人間が、さっきの赤く染まった映像で見た、何かと何かだという事も、理解出来た。
だから、どうしろと言うのだろうか。変異するのが成功なのか、適正なのが成功なのかも分からない。
ただ映像で見た船内の様子では、どうやら変異した人間の方が楽だったように思える。少なくとも、生きているという点に於いてのみ、正しい。
――叫ぶ必要も無いもんな。
きっと今も、モニターの音声が聞こえたならご丁寧にそれらの説明もしてくれているのだろうが、耳元で鳴り続ける音に邪魔されて、重要な事は何一つとして聞き取れない。
その事に、いい加減イライラしてきた頃だった。
殴打されるドアの音が、変わる。
音というのは不思議な物で、それが壊れているかどうかを見極める為の指標になる。
だから、もうすぐにドアは壊れるのだろうという事。
そうして、俺も叫ぶのだろう。この生命が壊れてしまうのだろうなと、理解出来た。
どうにか情報を得られないかとモニターを見ても、リストタグの画像が出ているだけ、そこには同意という文字が書かれている盤面と、実験の参加に同意してくださいという注意書きが書かれていた。
何一つ聞こえない。ただ、殴打が止まった瞬間。壊れて開いたドアの音に紛れて、モニターの音が、一つだけ耳に届いた。
『では、頑張ってください』
その言葉を聞いて、俺はモニターを殴りつけたい気持ちを必死に抑える。
右手に付けたリストタグを強く握りしめて、思わず俺は、一人呟いていた。
「うる……せえな」
扉から、外気と共に、物凄い臭気が舞い込んでくる。
変異個体と呼ばれていた化け物が、肥大化した赤い手で、モニターを壊している。
「それはありがたいけど、ノックにしては、お前も本当に、随分と、喧しい」
サイレンと、化け物の呼吸と、俺の心臓の音だけが、響く。
「ああ、うるせえ。本当に、本当に、さっきから、どいつも……こいつも!」
ただ流れる音に、意図などない。かき消される音からは、意図を拾えない。
それでも、鼓動の意図ならば、分かっている。
純粋な、怒り。
苛立ちと言い換えてもいいような、理不尽への強い怒りが、目の前の歪つな化け物への恐怖を、塗り替えていた。
変異個体から、俺を殺す為の、殴打が繰り出される。
そこに大した意味なんて、きっと、無い。
「だって、お前は、もう人じゃなくなっちまったんだもんな?!」
だけれど、それを回避する程の身体能力も、叩き伏せる力も、俺には無い。
それでも、俺は右手を思い切り、前に突き出していた。
瞬間、リストタグがカチリと音を立てた。
――それはきっと、壊れる音ではなく、始まりの音。
握りしめた拳の指の先から、糸のような物が這い出てくる。
それが、変異個体の殴るスピードを越えて、ヤツの腕に巻き付いていく。
変異個体がバランスを崩し、俺を殴れずに、地面へと拳を叩きつけた瞬間、俺は駆け出していた。同時に糸が俺の手からプチりと切れる。
意味を考えている暇なんて、一秒も存在しない。
俺はすぐさまドアから飛び出し、その場を後にする。
走り、走り、時たま聞こえてきた叫び声の中を駆け抜けるように、ひたすら走り、息が止まりかけた頃に、俺はやっと一人きりだという事に気付いて、手のひらをじっと見つめていた。
「なんだ、生きてんじゃねえか」
そう呟きながら、やっと鼓動の音だけになって見渡した光景が、それでも地獄だという事に、変わりは無かった。




