第8話:鍛錬
かくして、修業の日々が始まった。
タキの課す鍛錬は、攻撃や防御の鍛錬のような単純明快なものから、ひたすらに瞑想を続けるような地味で根気のいる鍛錬まで多岐にわたるものだった。
中でもとりわけ印象深かったのは、目隠しをしたうえでの自己防衛の鍛錬だ。
「極端な話、術士に目は要りません」
真っ白な覆いの向こう側でタキはきっぱりと言い切った。
「理力を完璧に知覚できるようになれば、相手の操る術はおろか、相手そのものの存在すら心で感じ取れるようになるでしょう。いいですか、視覚に頼るのをやめて心で視るのです」
そうは言われても、具体的にどうすればいいのか見当もつかず困惑する。そもそも、理力を心で視るという感覚そのものがあまりに抽象的だ。ジンにはただ漠然とそこになにかがぼんやりと光っているように感じることしかできない。
と、目隠しの向こうでまばゆい光が視えた気がした。タキが理術を放ってきたのだ。
(くる……!)
ジンが腰を落とし杖を構えた次の瞬間、胸に光弾が直撃した。
「うっ!」
気づいたときには、後ろに倒れていた。
後頭部を地面に強打し痛みにうめいていると、上から声が降ってきた。
「早く立ちなさい」
淡々とした低い声。その響きには、弟子への思いやりなど欠片も感じられない。
このところようやくタキの性格がわかりはじめた。この女は鬼だ。冷血だ。
思わず悪態をつきたくなるのを我慢してジンは立ち上がる。
「次、いきますよ」
声がした直後、杖が振られる音がする。目隠しの向こうでタキの体が青く瞬いた。
身構え、感覚を研ぎ澄ます。どの方向から攻撃がやってくる? 前方ではなさそうだ。右も……左も違う。では上か?
次の瞬間、背中から衝撃がやってきてジンは前のめりに倒れ込んだ。着物はおろか、顔まで土まみれになって痛みにうんうん唸っていると、また上から声が降ってきた。
「これくらい防ぎなさい」
「……無茶言うな」
「無茶ではありません。わたしが十二のときにはこの程度朝飯前でしたよ。……ほら、休んでいないで早く立ちなさい」
鍛錬は毎日、青あざが絶えないほど厳しかった。
それ以外にも、こんな鍛錬を行った。
「あなたに体術は不向きです。が、だからといって鍛錬をおろそかにしていいわけではありません。せめて一太刀躱せるくらいには動けるようになったほうがいいでしょう」
ある日、タキは片手に人の背丈ほどもある棒を庭に運んできて、そう言った。
「……待ってください。もしかして、その棒で僕を滅多打ちにするつもりじゃないですよね?」
「察しがいいですね。そのとおりです」
「冗談じゃないぞ、性悪女め」
「口が悪いですね。そんなに痛めつけられたいのですか。いいでしょう」
「……うわっ、待て! 痛っ!」
その日の晩は、体中が痛んで眠れなかったのは言うまでもない。
と、そんな風に日々鍛錬を続けているわけだが、なにも一日中そうしているわけではない。食事の準備、掃除、洗濯、買い物――それらはすべて小間使い兼弟子であるジンの仕事になっている。とはいえ、それらの仕事をひとりでこなしているわけではなく、タキの家には頼もしい家事の先輩がいるのだった。
「あ、ジン兄ちゃん、おはよう」
声変わりのしていない少年の声が自分の名を呼ぶ。早朝、居間には少年の姿があった。全身真っ黒に日焼けした十歳ほどの子ども。タキの弟だった。
「おはよう、アリン」
「うわっ、どうしたの。顔色悪いよ?」
挨拶を返すと、その少年――アリンは心配そうな顔をして近寄ってきて、ジンの顔を覗き込んだ。
「ふわぁ……ああ、まあちょっとね」
ジンはあくびをしながら寝起きの浮腫んだ顔を擦った。
「ねえ、稽古って大変?」
「うーん、僧院だとそうでもなかったけどな。でもここに来てからは……」
「じゃあ、タキ姉が鬼ってこと?」
ジンは辺りを見渡し、“あの女”の監視がないことを確認してからうなずいた。
「やっぱりね。タキ姉って人の気持ちがわかんないからさ、嫌なこと言われたら俺に言いなよ。俺があのちくちく能面にガツンといってやるから」
「はは、そりゃいい」
少年が自分の姉に妙なあだ名をつけているのがおかしくてジンは笑った。
アリンとの仲は比較的良好だ。今までの境遇から、基本的に知り合ったばかりの相手には警戒をするのが常であるジンだが、さすがに子どもは別だった。
加えて、初対面のときからアリンには『痣持ち』であるジンに対する偏見のようなものがない。それはリウ家の教育の賜物なのか、あるいは彼が特別なのかはわからないが、とにかくこの少年はジンに親切にしてくれた。家事について教えてくれたのも彼である。
アリンはタキの家に住んでいるわけではなく、実家から歩いて通っているのだそうだ。朝早くから姉の家にやってきているのは小遣い稼ぎのためであり、そのためにたまに家事を手伝っているらしい。
朝食をアリンとともに作り、そのうちにタキが起きてきて三人で食卓を囲んだ。ジンは昔、ひとりで生活を送っていた経験があるのでそれなりに料理はできると自負していたのだが、タキの反応は毎回いまひとつで、これも鍛錬を積む必要がありそうだと痛感していた。
朝食のあとは稽古の時間である。師匠の監視の元、日課である理力操作の鍛錬を行い、それが終わると師匠との手合わせの時間が始まる。
戦績は現在十連敗中。そろそろ成果を出したい。
「今日こそは一本取ってみせます」
「期待していますよ。まあ、無理だとは思いますが」
タキは相変わらずの無表情で答えた。
互いに一定の距離を取り、稽古用の竹杖を携えて向かい合う。
縁先に腰かけて足をぶらぶらとさせたアリンが、「がんばれぇ」と元気に応援する。
ジンは小さく腕を掲げてそれに応えた。
目線を前に戻す。相対する術士はいつものように首を高く持ち上げて杖を構えている。そのとび色の双眸には“無”が宿っている。
以前に聞いた彼女の講義がふと頭に浮かぶ。
「人間の内にはあらゆる感情が渦巻いています。それらは戦いにおいて不要なものであるばかりか、理力の流れをも妨げます。感情の制御というものは術戦の勝敗を左右する、きわめて重要な技術なのです。理道の秘匠――タモン老師は、かつて『心の声を殺す技』を編み出し、これを『心静術』と名づけました」
心静術には、扱い方も、鍛錬の方法も存在しない。資格ある者は時とともに無自覚のまま術を体得していき、そうでない者はいかに歳月を費やし鍛錬を積もうとも決して会得できない。理力というよりは心に根ざした術であり、己の心に迷いや濁りを抱える者にはその扉すら開かれることはないという。
タキがいつ如何なるときも無表情なのは、この心静術によって普段から心を律しているからなのだった。
「最強の術士とは、無念無想の境地に至ることのできた者のことをいいます。いいですか、ジン。感情を律しなさい――」
タキの教えを思い出しながら、ジンは軽く目をつむり集中した。
「すぅー……はぁー……」
息を吸い、吐きだし、頭の中の感情を整理する。タキに打ち勝ちたい、せっかくだからアリンにいいところを見せたい――そんな下心を今はどこかへと捨て去って、目の前の術士にどうすれば勝てるのか、ということだけを考える。
理力をかき集め杖先に送り込みながら策を練る。最近のタキはまったくといっていいほど攻めてこない。守りを固め、攻めをいなし、こちらが疲れてきたら一撃食らわせて勝つ。それが向こうの戦法だ。やみくもに攻めても勝てないのはこれまで散々負けてきた中でわかっていることだ。ならば速さを捨て、一撃一撃の質を上げる。そのための理力操作の鍛錬はここ最近で飽きるほどやってきたのだ。
ジンは杖を構えて腰を落とした。目を開けると、とび色の双眸と目が合った。それが開始の合図となった。
「ふっ!」
ジンは虚空を殴りつけるように杖を突き出し、仕掛けた。念力の弾丸が矢のように駆け抜け、相手に向かって飛ぶ。タキは優雅に杖をひと振りし、ジンの攻撃を撃ち落とすことで防御した。
もう一撃、ジンは杖を振るって術を放つ。今度はもっと時間をかけて、丁寧に理力を集めた。しかし、相手はひょいと身をひるがえし躱してしまう。
焦る気持ちを抑え込み、次々と術を打ち込む。が、ことごとく躱し、撃ち落とされる。相手の背面や頭上を狙った攻撃を仕掛けても無駄だった。死角はない。
「はぁ……はぁ……」
理力の操作に必要なのは集中力だ。次第にジンの頭は疲れてくる。
タキはこちらの攻撃の手が緩んできたのを見計らって杖をしなやかに振った。
「……くっ!」
攻守が入れ替わる。防御のために理力を集め、ジンは身構える。――しかし、一向に攻撃はやってこない。
なぜかと一瞬考えてから、すぐに答えが導きだされる。今のは“フリ”だったのだ。単に杖を振って惑わしただけ。くだらない策に引っかかった。
おちょくられているとジンが気がついたときには、タキの本当の攻撃が杖先から飛び出していた。その術の速度は反応できないほど速くはなく、むしろ遅いくらいだった。相手の意図が読めない。だが考えている暇もない。
撃ち落とすことを止め、躱して攻勢に転じることを選ぶ。ノロノロと向かってくる理力をジンは真横に飛んで躱す――そのときだった。
躱したはずの念力が不意に空中で軌道を変え、ジンを追尾するかのように直角に曲がった。
横腹に拳がめり込むような感覚がして横ざまに倒れる。砂埃が舞う中、ジンは痛みでしばらく呼吸ができずに地面の上にうずくまった。
タキはゆっくりとジンの元に近寄ってきて、至らない弟子に呆れるようにため息をついた。
「目に頼るからこのような小細工に引っかかる。心で視ろと何度も言ったはずですよ」
しばらくして呼吸ができるようになってから、ジンは地面の上に座り込み質問をする。
「師匠、最後のはいったい……?」
「『柔』の理力で術の軌道を変えたのです」
言われて、ジンはずいぶん前に僧院で受けた講義を思い出した。
そうだ、理力は二種類ある。
ひとつは、強固で素早く、破壊力に優れる「剛」の理力。もうひとつは、威力はないが、物体を動かしたり宙に浮かせたりと応用が利く「柔」の理力。
「剛」の理力は一度放つとすぐに術者の制御を離れてしまうが、「柔」の理力はある程度遠隔からの操作が可能だ。
通常、なんら意識をしないまま理力を杖から打ち出すと、ふたつの理力の比率は半々だ。だが熟達した術士は、この比率を自在に変えることができるという。
タキは「柔」の理力の比率を高め、術の軌道を変えてみせたのだ。
逆に、彼女のような熟達した術士であれば、「剛」の理力の比率を極限まで高めることで、破壊力と速度を増した一撃を繰り出すことも可能だろう。
手合わせでそれを使われれば、ジンは対処ができず、一撃で倒されてしまうに違いない。タキがそうしないのは、単に手加減されているのだ。そのうえで、ジンはまだ一本を取ることすらできないでいる。
「はあ……」
自分とタキの間にはまだ計り知れないほどの差がある。それを改めて実感したジンはうなだれた。タキはそんな弟子に慰めの言葉のひとつもかけず、相変わらず無表情なまま平坦な声で、「反省点を挙げなさい」と言った。
ジンは考えるようにあごをさすった。
「えーと……曲がる理力を想定していなかったこと、簡単な引っかけに引っかかったことです」
「あとは?」
「攻撃に工夫が足りなかったこと、でしょうか」
タキは、よろしい、と言わんばかりにうなずいた。
「なぜ、あなたの術がわたしに通じなかったと思いますか?」
「理力の繰りが遅いから、ですか」
「いいえ、以前はともかく、今はそれほど遅いというほどではありません。原因はもっと別にあります。ジン、最も防御を困難とする攻撃とはなんだと思いますか?」
「えーと……わかりません」
「答えは、『殺気を隠した攻撃』です。以前話したとおり、心と理力には密接な関わりがあります。理力には感情が“乗る”。先ほどのあなたの術からはだだ漏れの殺気を感じました。ゆえに、容易く対処ができたというわけです」
「なるほど」
「逆に、防御の際は殺気を読むことが肝要です。術士とはあくまで人であり、人の意識は完全には無にできません。どれだけ卓越した術士であってもその理力にはわずかながら殺気が宿るものです。いいですか? 大切なのは理力に込められた思念を見極めることです」
講義を終えると、タキは言った。
「続けます。立ちなさい」
一日の鍛錬を終え、とっぷりと日が暮れてからも仕事は残っている。日中に買っておいた食材を使って晩飯を作る。アリンは自分の家に帰ってしまったので作るのはふたり分だ。
晩飯を終えてからは、庭にある井戸から台所脇にある浴室に水を運び、師匠のために湯を沸かす。浴室の勝手口を出て、焚口に薪を次々に放り込んでいるうちにジンは疲れで段々と眠くなってきた。
木板の壁の向こうで衣擦れの音がしたあと、かすかに水の音が聞こえてハッとする。
「ぬるいですよ」
「わかってるよ。うるさいな」
つぶやくように文句が飛んできてジンは思わず口走った。
「……今なんといいましたか?」
地獄耳め。ジンは内心毒づいて、
「お仕えできて光栄ですと言ったんです、師匠」
思ってもないことを言ってから薪をくべる。
壁の向こうには木桶の浴槽に浸かるタキの姿があるはずだが、連子窓の隙間からそれを覗こうとはつゆほども思わなかった。あれほどの美人だ。もちろん異性として意識していないわけではないが、そんなことをしたらあとでどんな目に遭うかわからない。最悪、この家を追い出されかねない。そういうわけでジンは欲望に抗いながら淡々と仕事をこなした。
タキの入浴が終われば、ようやく仕事は終わる。あまりに疲れていたのでその日は体を拭くこともせず、すぐに客間の布団に入って眠りについた。
鍛錬漬けの一日だったが、一日を経て大きな進歩があったような実感はない。細かな進歩を積み重ねてはいるが、タキとは一向にいい勝負ができる気配はない。もやもやとした気持ちを抱えたまま、こうしてまた一日が終わっていく。




