第7話:初日
晴れて弟子入りを許されたジンだったが、タキの指導がすぐに始まることはなく、ジンの体調が完全に回復してから、という話になった。
そうしてしばらくは寝て過ごす日々を送っていた彼が、「そろそろ稽古を始めましょうか」と告げられたのは、タキの家にやってきて七日目の朝食時のことだった。
「体調はどうですか」
汁物をすすってから食卓の向こうからタキが聞いてきた。
「風邪のほうはもう大丈夫そうです。けがの方は万全ではないですが、すこし痛む程度です」
ジンは正直に答えた。療養のおかげで顔の腫れはほとんど引いてきていた。皮が裂けて血がにじんでいた拳にもかさぶたができ始めている。万全とは言いがたいが幾分かマシにはなってきている。
「そうですか。では遠慮なく指導ができますね」
それを聞き、ジンは鼻息を荒くした。この七日間、暇で暇で仕方がなかった。ようやく稽古をつけてもらえる。
必要な会話を済ませると、タキはもう口を利かなかった。黙々と食事を口に運んでいる。
食卓に並べられているのは質素な食事だ。茶碗に八分目ほど盛られた白米、小皿に添えられた茄子と大根の漬物、根菜が入った汁物に小魚の干物が三尾。懐かしい、ジンの故郷の料理だ。
南の島国アキツの戦災孤児だったタキが、リウ・イェン将軍に拾われたのは、彼女がまだ三つのころだったという。
ゆえに本当の母親の料理を食べた記憶はほとんどないとのことだったが、それでも故郷の味というものは魂に刻まれているのか、どこか懐かしさを感じこうしてたまに食べたくなるのだそうだ。
ジンはその話を居候を始めた初日に聞いた。
タキの作る料理は多様性に富んでいる。昨日は小麦から作られた平たい麺麭と香辛料のかかった山羊肉、一昨日の夕食は唐辛子がたくさん入った鍋、一昨昨日は焼饅頭と卵の汁物が食卓に並んだ。
なんでも、タキの家族は大陸中から集まった孤児の集まりなので、リウ家の食卓には各国の様々な郷土料理が並ぶのだそうだ。そのため、実家の家事を手伝っているうちに自然と作り方を覚えてしまったのだとか。
目前の茶碗に盛られた炊き立てのご飯の甘い香りが食欲をそそる。眺めているだけで涎が出てきた。ジンは箸を持ち、朝食に手をつけた。
「では、そろそろ始めましょうか」
食事を終え、後片づけを済ますと、タキは縁側から草履を履いて庭に出た。待ってましたとジンも庭に出ようとしたが、履物がないことに気づき、玄関に回って自分の草履を回収し庭に出る。
タキの家の庭は一面が慣らされた土だった。
低木どころか雑草の芽すら見えない。四隅まで視線を送っても、緑はひとかけらも存在せず、命の気配が徹底して排されている。
庭には小石も落ちていない。地中から掘り返されたものも、風に運ばれてきた欠片も、徹底的に取り除かれている。残されているのは「均された土」だけであり、わずかな起伏さえも削り取られた地面はまるで水面のように平坦だった。
驚くほど整然としたその庭には、飾りも、彩りもない。ただ修練のためだけに存在する場。技を磨き、余計なものを削ぎ落とすためだけの場所だった。
タキは庭の隅にある物置小屋へと向かい、引き戸を開けると、中をごそごそと探り始めた。なにを取りに行ったのだろうと思いながらジンが待っていると、彼女は二本の杖を手に戻ってきた。
「五三竹の杖です。稽古ではこの杖を使います」
竹製の杖は理力を増幅させる効力が木製の杖と比べると著しく劣るとされている。何十年と時間をかけ、ゆっくりと成長しながら“神性”を蓄えてゆく樹木とは異なり、竹は成長が早く、また“神性”の伝播もほとんど起こらない。ゆえに竹杖は木杖に劣り、実戦には向かない。
カマラダ僧院では、修行僧は事故の防止のために竹製の杖と粗製の『源石』を用いて修練を行うのが慣例だった。
ジンはタキから竹杖を受け取り、その頼りなげな細身の体を手の内で転がした。やはり軽い。杖は指先から肩先に届くほどの長さで、太さは親指よりわずかに太い程度。表面には節が転々と並び、黄土色の肌にはところどころ斑点が浮かんでいる。杖上部にはキリで穴があけられ、そこにひもを通して石の入った小袋が固定されている。それはなんの変哲もない石だったが、わずかに神性を宿しているのが手を通して伝わった。
その石――『源石』にはムリガの聖骸から伝播した“力”が込められている。杖を通して源石に理力を通すことで理術は成る仕組みだ。
「一つ、決まりごとを作ります」
手元の杖に視線を落としていると声がして、ジンは顔を上げた。タキは頭の後ろで髪をひもでひとつに束ねながら言葉を継いだ。
「杖を持って庭に出たからには、気持ちを切り替えること。浮ついた心はここには持ち込まないように。ここはわたしとあなたの戦場です。一方が生き、一方が死ぬ。そういった心構えで戦いに挑みます。もちろん本当に殺しはしませんが、ここでは事故も起こりえます。集中するように」
髪を結び終えたタキは左右に軽く頭を振ってから、物静かな眼差しでジンをじっと見据えた。夏の気怠い空気が一気に引き締まる。
ジンは真剣な顔でうなずき、頭を下げる。
「先生、いや……師匠! 今日からよろしくおねがいします!」
気合を入れるように腹に力を込めて言うと、「うるさい」と冷たく怒られた。
「……はい」
タキは気を取り直すように鼻から息を吐き出すと言った。
「それでは、杖の握り方から教えましょう」
「握り方、ですか?」
「普段どおりに杖を構えてみてください」
言われたとおり、ジンはその場で杖を構えてみた。腰を落とし、背筋を軽く伸ばす。杖は体の前で構える。
とはいうものの、自信がなかった。杖なんて、持ちたいように持っているだけだ。持ち方なんて授業でも習ったことがない。
ちらりと反応を伺うと、師匠は口を開いた。
「“握り方”と言いましたが、理術に型のようなものはありません。ただ好きなように握り、好きなように振る。ただし目線は相手の杖先へ。それさえできていれば、あとはどうでもよいのです」
なんだか拍子抜けだった。
タキは続ける。
「たとえば武術の場合、“最適化された動作”を手に入れるために鍛錬を行います。指先ひとつの力の入れ方、抜き方にすら気を配り、動作の研鑽を積んでゆく。では、理術の場合は? 杖の握り方も振り方も定まっていないというのに、なにに気を配り、洗練させればいいのでしょう。達人とそうでない者の差は、どこに生まれるのでしょうか」
「ええと……理力、ですか」
問われ、少し考えてジンが答えると、タキはこくりとうなずいた。
「正確には、理力を感じ、操り、視ることです。武術の達人が合理的で無駄のない動きをするのと同じように、術士は理力の扱いを洗練させねばなりません。つまりは、肉体ではなく“感覚の鍛錬”こそが術士には必要であるわけです。触れることはおろか、見ることすらできないこのあいまいな領域を極めた者のことを、人は達人と呼びます」
理力を感じ、操り、視る……。
ジンはつぶやいて、タキの言葉を忘れないよう胸に刻み込む。
「もちろん、戦い方次第では体術を組み合わせることもあるでしょう。とはいえ、やはり理力こそが理術の本質。まずはあなたには理力の扱い方を徹底的に学んでもらいます」
「はい」
「知ってのとおり、理力とは実体なき力。刃物のような得物とは違い、第六感によって理力を感じとらねば、この神秘の力は扱うことはおろか視ることすら叶いません。……どれ、一度実際に見せてあげましょう」
言って、タキはジンに背を向けて庭を数歩歩いた。そうして弟子との距離を取り、向き直ってから優雅に杖を構える。
その構えは独特だった。杖は腰の上あたりで緩く持ち、もう片方の空いた手は後ろ手に回している。背筋はぴんと伸ばしたままだ。美しい構えである。
だが先ほどタキは言っていた。術士にとって大事なのは、杖の持ち方や構えではなく己の内――理力の繰り方なのだと。
「これから、あなたに一撃打ち込みます。先ほど言ったように理力を感じ、視て、操作し、わたしの術を防いでみなさい」
ついにタキの業が見れるのか、と期待にジンの胸は高鳴った。
僧院にいたころは実演など滅多に見られなかった。実際にタキの理術を受けたことも一度もない。授業は口頭だけでそつなく進められ、質問をすれば返答はあるものの、必要以上のことは語らない。熱心な指導とは無縁の教師。それがタキだった。
(いや、浮ついた気持ちでいてはだめだ)
心を静めるように、ジンは固く目をつむった。
暗闇に身を沈め、“力”の源流を探るべく意識の深いところへと潜っていく。やがて見つけた。灰色の光のようなものを。
意識を外に向けると、少し離れたところに青い光が視えた。タキの理力だ。
タキの理力は、彼女の全身を巡っているため人型に視える。流れはどこも一定でよどみがない。
対して、自分のはどうかと比べてみると、ジンの光にはもつれがあった。身体の隅々から理力を集めきれていないせいか、タキのものよりも小さく流れも不規則だ。両者の差は歴然だった。
目を開けると、相対する師と目が合った。
「では、いきます」
タキはそう言うと、ほとんど揺さぶるくらいの力で杖を前に押し出した。それが杖を振ったのだとわかったころには、ジンの体は青い光に激しく打ちつけられ、後方へ吹き飛ばされていた。
地面が高速で過ぎ去っていく。背中をずりずりと地面に擦りながら体が後方へと滑っていく。ようやく動きが止まった。
「う、うう……」
地面の上で体をくの字に曲げ、腹部の痛みをうめきながら痛みの波が引くのを待つ。速すぎて反応もできなかった。
「わかりましたか? これがいわゆる、達人の一振りです」
タキは歩み寄ってきて言った。
地面の上で這いつくばるジンの目と鼻の先で、綺麗に磨き上げられた足の爪が並んでいる。こんなところまで完璧か、という場違いな感想を抱きながらジンは身を起こした。
「術士の“速さ”とは、いかに杖を鋭く振るかではありません。 足の先から頭の先まで全身の理力をかき集めて指先へと運び、杖の隅々にまで行き渡らせ杖を振る――この一連の理力操作の速度こそが術の“速さ”となるのです」
これが、タキの業。これこそが、至高の術士――リウ・イェンから受け継いだ業か。興奮に、鳥肌が立つ。
「どうすれば、師匠のようになれますか?」
言ってから、馬鹿な質問をしたと思った。
「自分の頭でよく考えなさい」
と、予想していた反応が返ってくる。
「『達人のみが知る上達の秘訣などというものはない』――わたしの義母、リウ・イェンの言葉です。やるべきことは山積みですよ、ジン」
それからしばらくして、朝の鍛錬は終了となった。
「これから仕事に行かなくてはならないので後片づけをお願いできますか。土慣らしを忘れずにやっておいてください。それから、洗い物と物置の掃除を。帰るのは夕方になります。鍛錬の続きはそのときに」
と、仕事の指示を一方的に告げると、タキは早々に家を出て行ってしまった。
弟子入りの際、「雑用でもなんでもやる」と口にしたことから、ジンはこの家の家事を任されることになっていた。もっとも、体調が戻るまでは無理をするなと言われていたので、本格的に動くのは今日が初めてである。
物置に杖を片しに行く途中、ふと気がついて、遠くに見える小山に目をやった。その山の天辺あたりで、木々の背を追い越して生える二本の象徴的な塔がその身に朝日を浴びながら自らの存在を主張している。
カマラダ僧院。あの寺への未練と怒りはまだ自分の心の奥底で燻っている。だがもう、そんなものに囚われているほど今の自分は暇ではない。
「よし」
気持ちを切り替えて、ジンは言われた仕事に取り掛かり始めた。




