第5話:先生
自分の体が、ふわりと宙に浮くような感覚がした。夢うつつの中、薄目を開けるとほの暗い空から絶えず冷たい雨が降り注いでいた。どういうわけか、その空が妙に近いような気がした。
周囲では、雨音が地面を叩く音と石畳を叩く無数の足音が絶え間なく続いている。
意識を保っていられたのはそのほんの一瞬だけだった。強烈な眠気が襲ってきて、耐えきれずまぶたがすとんと落ちてしまう。
目を閉じる直前、ジンは見た。薄闇の中、傘を差し灯を持った女が、艶やかな黒髪を揺らして歩いているのを。
あれはいったい誰だろう――。
目を覚ますと、見慣れた天井が目に入り、ジンは困惑した。天井には節目と年輪が走る無垢の板が張られている。どこか懐かしいその木天井は故郷――アキツ国でよく見たものだった。
目線を下げると、掛け布団が自分の体にかけられているのが見えた。どうやら自分は布団に寝ているようだった。部屋は芳しいイグサの匂いで満ちており、敷布団の下は石床でも板の間でもなく、畳で覆われていた。
横を見ようと顔を傾けると、眩しさに目を細めた。陽の光を浴びて白く輝く障子がぴたりと閉じられている。その前の畳には格子の桟が落とす影が淡い模様となって静かに広がっている。
ここはどこなのだろう。疑問に思いながらのろのろと身を起こしたところで、上からなにかが降ってきて布団の上に転げ落ちた。濡れた布巾だった。枕元には水の満たされた桶が置かれている。どうやら自分をここに運び、看病をしてくれた人がいるらしい。
と、そこでようやく、自分の体の不調に気がついた。体がだるく、熱っぽい。
自分の格好を見下ろしてみれば、汚れていたはずの腕の包帯はいつの間にか新しいものに変えられている。服もまた、同様に仕立てのいい着物に着替えさせられていた。
バジ国では着物は南服と呼ばれ、このあたりでは着用している者は少ない。この家の主は自分と同じ出身の者なのだろうか。そんなことを考えていると、背後のふすまがすっと開いた。
「おや、起きましたか」
低い、女の声。
首を巡らせると、そこには凛とした佇まいの女が立っていた。女が畳の上をとすとすと歩いてこちらにやってくるのを、ジンは目を丸くしながらただ眺めていることしかできなかった。
歳はジンよりもひとつかふたつほど上だろう。切れ長の目、すっと通った鼻梁、滑らかな黒髪はひもでひとつに結われ肩へと流れている。耳元にはきらりと光る大ぶりな輪の耳飾り。無骨な黒の道着をまとい、下には袴を穿いている。
一緒の空間にいることすらおこがましいと思ってしまうような女。彼女のことをジンは知っていた。田舎から出てきたばかりころ、初めて彼女を見たとき、都会の女はこうも綺麗なのかと驚いたのを覚えている。
リウ・タキ――カマラダ僧院の教師。ジンは彼女から理術を教わった。
「リウ、先生……」
驚きに固まっていたジンがようやく声を出せたのは、彼女が美しい所作で枕元に正座をしてからだった。
「どうして先生が……?」
タキは布団に落ちていたままの濡れ布巾を桶の中に戻してから、膝の上で手を重ね、凛とした声で質問に答えた。
「もちろん、わたしがわざわざ運んだのですよ。昨晩、僧院からの帰路の途中、見覚えのある理力を感じ取り、そちらに目を向けるとあなたが倒れているのを見つけたのです。見なかったことにしてもよかったのですが、死なれでもしたらさすがに夢見が悪いので、ここまで運ぶことにしました」
ジンは、まだ自分は夢を見ているんじゃないかとしばしの間呆然とし、ふと我に返って礼を述べた。
「それで、ここはいったい?」
言って、辺りを見渡す。青畳が敷き詰められた整然とした一室。
ジンの疑問に、タキはやや得意げに答えた。
「わたしの家です。三年ほど前に知り合いのアキツ出身の者から譲り受けました。この街ではこういった家は珍しいでしょう」
彼女の言うとおり、乾燥の多いバジには石造りの建物が多く、木造の建物はあまり見かけない。この家にいると、異国にいるという実感が薄れてしまう。まるで故郷の実家にでも帰ってきたような気にさせられる。
(それにしても……)
ジンは自分がこうしてタキの家にいるということが奇妙に感じていた。生徒だったころはまともに話した記憶すらない。それはおそらくタキの受け持ったどの生徒も同じだろう。
そもそも、自分の存在を覚えられていたことに驚いたくらいだ。それほどに彼女は生徒との交流を持たない教師だった。
「体調のほうはどうですか?」
タキはジンの目をじっと見つめながら、落ち着いた声で聞いてきた。それに内心どきりとしながら、思わず視線を逸らして返す。
「ええと、まだすこし熱があるようです」
「傷のほうは? 見たところ腫れはだいぶ引いたようですが」
「顔も腕も痛みます。でも、少し痛みが引いているような気がします」
「そうですか」
労わるようでもほっとしたようでもなく、いつものように淡々とした感情の籠ってない声だった。
「イシャンから聞きましたよ。ずいぶんと派手に暴れたそうですね。ひとりで三人をのしてしまうとはなかなかやるではないですか」
「は、はあ」
茶化すような言い方にジンは半目になった。他人事だと思って……。
「……って、え? イシャン師匠に?」
予期せぬ名前がタキの口から飛び出したことに遅れて気がつき、思わず聞き返す。ふたりに接点があったとは初耳だ。そのうえ、名前を呼び捨てにするような間柄であった、ということも。
ジンの反応に、タキは「ああ」となにかを思い出すようにつぶやき、「イシャンはわたしの兄です」と補足した。
「イシャン師匠が、先生のお兄さん?」
「ええ、一応は」
一見、妙な話に思えた。
タキは、島国系――アキツの血を引く者らしく、切れ長の目とすっきりとした顔立ちをしている。一方でイシャンは、バジ出身者に典型的な彫りの深い濃い顔つきの持ち主だ。ふたりの間に血のつながりがあるとは到底思えず、兄弟だと聞かされてもにわかには信じがたい。
その理由は、先ほどタキが「一応」と言ったことに繋がる。ふたりの間には血のつながりがない。それどころか、ふたりには血の繋がらない兄弟が何十人といるのだった。
タキとイシャンの養家――リウ家は、元孤児の集まりであり、凄腕の術士の集団として知られている。その総数は百を超え、中には教団や軍の関係者も多数いると聞く。
リウ家の長たるリウ・イェンは、この大陸で知らぬものはいないほどの大物であり、その名は海を越えてジンの生まれ育った小村にまで届いていたほどだった。戦争でのイェンの活躍ぶりは子どものころから寝物語でしきりに聞かされたものである。
イェンは“武神”とうたわれた女傑であり、大陸全土を巻き込んだかつての大戦を終結に導いた英雄として広くその名が知られている。戦後、イェンは荒れ果てた各国を旅して親を亡くした大勢の子どもたちを助け出し、故国に連れ帰ったのち隠居したのだという。そうして引き取った百人以上の孤児を自らの家に住まわせ、イェンは己のすべてを子どもたちに叩き込んだ。そうしてできあがったのが、バジ国屈指の術士集団、リウ家である。
「初めて知りました。イシャン師匠がリウ家の人間だったなんて」
「あの男は自分の出自を隠していますから知らなくて当然です」
「隠してるって、なぜそんなことを?」
「面倒ごとを避けるためでしょう。偉大過ぎる母を持つと苦労するのですよ、色々と。……まあ、そんなことはさておき」
タキはそう言って話題を戻した。
「イシャンはあなたを助けられなかったことを悔いていました。その話を聞いていたので、路地裏であなたを見つけたとき、兄の言っていた生徒だとわかったのです」
「そうだったんですか。……でも、なぜイシャン師匠は僕のことを気にかけてくれていたんですか? 接点もあまりなかったはずなのに」
「リウ家にはあなたと同じ境遇の家族がいるのです。《腐痣病》で片目を失った妹がね。きっとイシャンはあなたと彼女を重ねていたのでしょう」
なるほど、とジンが納得していると、タキは「ああ、そういえば」と思い出したように口にした。
「あなたを襲った主犯格の男――ナビンといいましたか。彼が昨日目覚めたそうですよ。一応は無事のようです。ですが、もう自分の足で歩くことは叶わないそうです。どうやら背骨を折ったらしく、医者も治せないとのことで」
ジンはなにも言わず、ただうつむいて口を結んだ。
心の中ではこう思った。いい気味だ、と。
胸中は隠したつもりだったが、タキは見透かすような目でこちらを見ていた。どうやら、取り繕うのは無駄だったらしい。
「僕は、自分が悪いだなんて思ってません」
隠すことなく、怒りを吐き捨てるように言った。
「別に責める気はありませんよ。あなたを襲った者たちはただの自業自得ですから」
僧院長にされたように説教のひとつでもされるかと思ったが、タキはそう返してきた。
意外に思って見ていると、彼女は続けた。
「自分の身を守るために戦うのは当然のことです。『目には目を、歯には歯を』。その考え方はときに、最も公平で誠実な“答え”であるとわたしは思います」
かつて、神鹿は『因果の道理』を説いた。すべての結果には原因があるのだと。幸福には幸福の、不幸には不幸の『原因』と『結果』があり、自分の蒔いた種は必ず自分に帰ってくる。それが真理である、と。
報復や復讐はムリガの教えに背く行いだ。赦し、非暴力の道を選ぶことこそがムリガの推奨する道である。先ほどのタキの言葉は僧院の教師とは思えない発言だった。
「先生はムリガ教徒ではないんですか」
「もちろんわたしもムリガ教徒ですよ。休みの日には家族と寺に赴き、説法を拝聴しますし、ときには学僧に混じって聴講することもあります」
では、なぜそんなことを言うのか。視線を向けると、タキは答えた。
「わたしは、ムリガの教えを概して正しいものだと信じていますが、そのすべてを盲目的に信じているわけではありません。ゆえにわたしは、数ある教えの中から正しいと思う教えだけを信じ、実践しているのです」
ムリガの残したあらゆる教えを理解し信じなければ、ムリガ教徒であるとは言えない。そう主張する僧は少なくない。とりわけ、カマラダ僧院の指導僧たちはその思想を掲げている。タキは僧ではなく教師だが、ジンにとってそんな考え方を持つ人間と会うのは初めてだった。
「でも、そんなこと師僧たちは認めていませんよ」
「わたしも認められるとは思っていません。けれど、彼らの考えが正しいとも思いません。そもそも、ムリガ教とは生き方の指針、哲学です。本来は神を信仰するようなものでも、服従すべき法でもないのです」
自分が正しいと思うものだけを信じ、そうでないものは信じない。タキの考え方は、ジンの常識を根底から覆すようなものだった。窮屈だと思っていたムリガの教えも、そんな自由な考え方が許されるのなら興味が持てそうだった。
話せば話すほど、この教師は変わっている。
会話はそこでぷつりと途切れ、青畳の部屋に沈黙が落ちる。
ジンはこうしてタキとふたりきりで言葉を交わすのは今日が初めてだったが、不思議と気まずさを感じなかった。
「さて、これからの話をしましょう」
やがて、本題に入るように真面目な顔でタキは言った。
「こうしてあなたを拾ってきてしまった以上、責任は最後まで取るつもりです。体調が回復するまではこの家に滞在することを許可しましょう。食事もこちらで用意します。……ただし、それ以上の面倒は見切れません。申し訳ありませんが、治り次第ここから出て行ってもらうことになります。いいですね?」
「充分です。ありがとうございます、先生」
「これからどうするのかはもう決めていますか?」
「いえ、まだなにも……」
「そうですか。故郷に帰るつもりなら旅費くらいでしたら用意しますから遠慮なく言ってください。……まあ、これからどうするにしても、ここで体を休めている間にじっくりと考えることです」
言うべきことを言い終えたのか、タキは腰を上げるとふすまを開けて部屋を出ていった。
「食事を作ってきます。寝ていてください」
去り際に、振り返ってそう言った。
ほどなくして運ばれてきた粥を平らげると、ジンはひたすら眠り続けた。数時間ごとに目覚めては、布団の上であれこれと思考を巡らせた。
もう、故郷に帰る場所はない。父も兄も死んでしまった。母はまだ生きているが、もう新しい家庭を築いていて、子どももいる。帰ったところで困らせるだけだろう。
そうなると、どうにかこの街――シャーリーで生き延びる方法を考えなくてはならないのだが、『痣持ち』である自分にまともな仕事など見つかるのだろうか。いっそのこと故郷に帰り、頭を下げてでも母親の世話になるべきだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、次第に意識は闇に溶けていった。
その夜、ジンは夢を見た。故郷の村で子どものジンが村の子どもたちにいじめられる夢だった。意地悪な顔をした子どもたちはジンを逃げられないように取り囲み、小突いたり罵声を浴びせたりしている。村の大人たちをそれを遠巻きに見ているだけで、誰も助けに来てくれない。ジンはただ泣きべそをかくことしかできない。
「……はあ……」
暗闇の中、汗だくで目覚めたジンは深いため息を漏らした。ひどい夢だった。
だがそのおかげというべきか、大事なことを思い出すことができた。それはジンが故郷を出てきた“理由”だった。
強くなりたかった。誰からも見下されず、同情もされない。欲しいのはそんな“強さ”だ。強い人間になりたかった。
故郷を旅立つために必死になって旅費を貯めたのも、異国の地にまでやってきて孤独に修行を続けてきたのも、すべてはそのためだった。屈辱感や劣等感という負の感情は、いつだって原動力となってジンを突き動かしてきた。
それが、今や故郷に帰ることまで考えている。はたしてこのままでいいのだろうか――。




