第4話:破門
人がひとり、ようやく寝転べるほどの狭い部屋だった。
周囲を囲むのは寸分の隙間もない壁。レンガ造りの堅牢な壁である。正面には錠のかかった分厚い木格子扉、背後には壁をくり抜いただけの細長い窓が口を開けている。その隙間から見えるのは、鉛色の雲に覆われる重苦しい空。外は相変わらずの雨だった。
部屋の片隅にはヒノキで作られた小さな棚が置かれている。棚は寺院の本堂とその内部を模して作られており、中央部には障子扉が取りつけてある。その中には滑らかな赤い布が敷かれ、ひとつの木像が鎮座している。
それは、それを見慣れない異人にとってすれば「異形の彫刻」であり、一方でコスニアの民にとっては「荘厳な神像」であった。そこには人型の、しかし確実に人ではない存在が、精巧に彫り込まれている。
“それ”はあぐらを組んで座し、やせ細ったあばらの浮いた胸の前で枯れ枝のような手を合わせている。
“それ”に目と鼻はなく、その下部にはしわだらけの萎びた唇がきゅっと口を結んでいる。
頭部には眉間を起点に二本の突起が生えている。それは鹿の角にも似ているが、節の数はより多く、より複雑に枝分かれしており、扇を広げるように上方へと伸びていた。文献によれば、その角は脳角と言い、その名のとおり脳が進化したものであるという。この器官によって“それ”は人知を超えた力を操り、人の心までも、まるで本をめくるかのように読み解いたという。
この人ならざる異形の像の名は、ムリガナータ。
この世を創りし、五柱の神のうちの一柱。かつて実在した超常の存在にして法の具現者。その名は、いにしえの言葉で“鹿の主”を意味する。
かつてこの神鹿を眼にした者たちは、その神聖な姿を直視することができず平伏したという。ジンにはまったく信じられないことだった。自分なら、こんな怪物を目にしたら恐怖で逃げ出すに違いない。
とはいえ、世間ではムリガナータは絶対の神と信じられ、その教えはコスニア大陸においてムリガ教として広く信仰されている。ムリガの信徒たちは大陸各地の寺院に集まり、このような神像を来る日も来る日も拝んでいる。そうすることで神への感謝と敬意を表し、健康と安全を祈願するのだ。
事件から二日。あれからジンは怪我の手当てを受けたあと事情を事細かに質問され、禁房に入れられた。
師僧は言った。神像の前で自らの罪を省み、懺悔文を唱えよと。しかしジンは自分に落ち度があるとは思っていない。すべて自分の身を守るためにやったことだ。反省しろと言われても納得できるはずがないのだった。
「ここで待て。僧院長がお戻りになり次第、おまえの処罰についての評議が開かれる」
そう伝えられてから今までずっと音沙汰がない。いったい自分はどうなるのかという不安に苛まれながら、この禁房にずっと閉じ込められている。
狭い禁房の中ではやることはなにもない。ジンは言われたとおりに反省するつもりなど毛頭なく、扉の前にぼうっと座り込んで耳を澄ませ、誰かが評議の結果とやらを伝えにくるのをただ待っていた。
格子扉の向こう側にはしばらく前から人の気配がなかった。朝と昼の食事の時間を除けば、禁房には誰も人が近寄らない。何時間もなにもせずに過ごすのは思いのほか辛く、そろそろ我慢の限界を感じていた。
そんなとき、遠くから声が聞こえてきた。複数の男たちが会話をしている声。それに混じって、ぺた、ぺた、と誰かが素足で歩く音が近づいてくる。思わずジンは立ち上がり、格子に手をかけた。
廊下の向こうから赤い袈裟をまとった男たちが現れる。その男たち――師僧たちは、なにやら熱心に話しながら廊下を渡り終え禁房に入ってくると、ジンの目の前で立ち止まった。
「待ってください、僧院長。どうかご再考いただけませんか。いくらなんでもあまりに酷すぎます」
若い師僧のひとりが、集団の中でただひとり黄土色の袈裟を着た老人に抗議をしている。
「これは決定事項だ」
その老人――僧院長はしわだらけの顔を静かに横に振った。
「ですが、彼らにも明確な非があります。三人がかりでひとりに暴力を振るっていたのですよ。杖を無断で持ち出したのも彼らの仕業です」
師僧は木格子越しにジンを一瞥し、続けた。
「結果的に彼は無事でしたが、状況次第では被害者となっていたのは彼のほうだったのです。情状を考慮すべきではありませんか」
「だとしても、処罰を軽くするわけにはいかぬ」
僧院長は断固とした口調で否定し、哀れなものを見るような目でちらりとジンを見てから、師僧に向き直った。
「未熟な学僧たちの諍いだ、イシャン、おぬしが庇いたくなる気持ちもわかる。わしとて、“よほどのこと”がなければ修行僧を破門にはせぬ。若者には更生の機会を与えるべきだ。だが彼はそれをやった。このカマラダで、殺し合いをな」
僧院長の言葉に追従するように、別の師僧が声を重ねる。
「ひとりは鼻を食いちぎられ、もうひとりは顔面を砕かれ、残るひとりはいまだ意識が戻っておりません。まさに獣の所業ですな」
それを皮切りに、状況を静観していた者たちが次々に口を開く。
「おお、なんとおぞましい」
「だから申し上げたのです。『痣持ち』を寺に迎えるなど前代未聞だと」
「たしか、当時の会議で我々に異を唱えたのはあなたでしたな、イシャン殿。こうなったのはあなたの責任でもあるのですよ」
抗議を続けていた師僧――イシャンは、唇を強く噛みうつむいた。
「話は聞いていたな」
僧院長がジンの前まで歩み寄り、低く問いかける。
「……はい……」
ジンは格子を固く握りしめ、僧院長の厳しい視線から逃れるように目を伏せた。
「おぬしを害した者たちが悪行を成したように、おぬしもまた反撃という悪をもってそれに報いた。これは神鹿の教えに背く行いだ」
「……」
「悪因悪果。おまえもこの言葉は知っておろうな。悪しき行いは、悪しき因果を生み出す。報復はさらなる報復を招くのだ。おぬしが害した者やその家族が、いずれはおぬしに牙をむくことがあるやもしれん。報復の連鎖は、恨みを捨て、赦すことでしか断ち切れぬ。これが真理だ」
「――では!」
ジンは勢いよく顔を上げ、拳を格子に叩きつけて叫んだ。拳と傷だらけの口の中が痛んだが、今はそんなことどうでもよかった。
「では、黙ってやられていればよかったのですか? なぶり殺しにされていればよかったと? どうせあいつらには報いが下るのだから――って? 冗談じゃない!」
感情のままに叫んでも、僧院長はなんら表情を変えなかった。
「おぬしの言い分もわからぬではない。もしも彼らの被害が軽いものであったなら、大目に見もしただろう。だが先ほども言ったとおり、おぬしはやりすぎた。取り返しのつかぬことをしたのだ」
「……ふざけやがって……」
吐き捨てた声は次第に小さくなって尻切れになった。
僧院長は格子扉にさらに一歩近づき、冷ややかな視線をジンに注いだ。
「おぬしの境遇にはたしかに同情の余地がある。されど、わしは情では裁かぬ。戒に照らして裁く。僧団を乱し、教えを踏みにじった者には、それ相応の処罰を受けてもらわねばならぬ」
一呼吸おいて、僧院長は告げた。ジンにとっての破滅の言葉を。
「――破門だ。この僧院は二度とおぬしを迎え入れることはない」
言葉もなく、ジンはその場にへたり込んだ。
格子に叩きつけた拳が、あとになってじんじんと痛みはじめた。
それからは、ただ指示に従うのみだった。監視の下、禁房を出てそのまま保管庫に向かった。学僧たちの私物を管理するその場所で、ジンは手荷物を回収すると、血で染まった法衣を返却し服を着替えた。
大き目でゆとりのある半着。下衣は縄で縛って履いている。元は亡くなったジンの兄のもので、一年前にここにやってきたときに着ていた服だった。
それ以外の荷物といえば、数枚の銅貨だけ。金は田舎から出てきたときに旅費に消えてしまったので、ほとんど無一文という状況だった。そんな状態で着の身着のまま寺の外に放り出されるという。これからいったいどうすればいいのか。
長い長い回廊を、まるで囚人になったような気分で歩いた。うわさはすでに寺中に広まっているらしく、回廊の両脇には野次馬が集まっていた。
包帯がぐるぐるに巻かれた腕、しこたま殴られてぱんぱんに腫れた顔。そんな憐れなジンの姿を見て、彼らは様々な反応を見せた。忌々しげににらみつける者、厭わしそうに顔をしかめる者、周囲の者と顔を寄せ合って小声で話を始める者。中にはくすくすとあざ笑う者もいる。
ジンは中身のない右袖を体の横にぶらぶらと垂らしながら、屈辱に唇を噛み、顔を伏せて進んだ。壁龕に置かれた彫像の前を通るたび、物言わぬ彫刻すらも自分を責めているような気がした。
ほどなくして回廊の終わりにたどりつき、足を止める。出口の楼門は目と鼻の先に見えている。頭上の屋根からは滝のように雨水が流れ落ちている。この最悪な日にふさわしい、最悪な空模様だった。
「悪かったな。守ってやれなくて……」
監視役としてついてきていた師僧――イシャンが言った。
「だいぶ粘ってみたのだが、僧院長のご意思は揺るがなかった。私では力不足だったようだ」
「いえ、ありがとうございました」
固い平坦な声でジンは礼を述べた。
イシャンは額にしわを寄せたまま、小さく頭を下げる。
「すまん」
ジンはイシャンとはほとんど面識がなかった。こうしてふたりきりで話をするのもこれが初めてのことである。にもかかわらず、ああして自分を守ろうと注力してくれたことを意外に思った。
だが、彼と会話をするのもこれが最後だ。もうどうでもいいことだった。
「これからどうするつもりだ? どこか行くあてはあるのか」
「いえ」
「では、頼れる者は?」
ジンは返答をしなかった。沈黙が答えだった。
うつむいたジンに、イシャンは同情するような視線を向けてくる。いたたまれなくなり、もう行くことにした。
「イシャン師匠、短い間でしたがお世話になりました」
頭を下げて礼を述べ、返事を待たずに雨の中に足を踏み出した。
降り注ぐ雨が一瞬にして服を濡らしていく。頭と腕に巻かれた包帯もぐっしょりと水を吸ってしまう。ジンは駆け出し、楼門の下まで急いだ。
門の前まで来ると門衛たちがこちらの存在に気づき、のろのろと仕事を始める。
カマラダ僧院の顔とも言える山門には意匠の凝った彫刻が施されている。それは大きな神像だった。この僧院で飽きるほど目にした、角を生やした異形の像。
門衛がふたり係で青銅の門扉がゆっくりと押し開いていく。それにあわせて、神像の浮き彫りが左右に分かたれていった。現れた薄暗い通路の先には雨に濡れる木々と山道が見えている。
山門を通るとき、ジンは僧院に来たときのことを思い出した。遠い南の島国から海を渡ってコスニア大陸までやってきたジンは、馬車で何か月もかけて北の大国バジへとやってきた。
一年前の十六歳だったころのジンは、緊張と期待で胸をふくらませながらこの山門をくぐり抜けた。そのときはこれからの未来に希望しか抱いていなかった。それがまさか、こんな結末を辿ることになるなんて。
背後で重い音を立てて扉が閉まる。ジンは山門をにらみあげて吐き捨てた。
「くそったれ」
しかし、声は降りしきる雨音でかき消され、自分の耳にもほとんど届かなかった。
しばらくその場に立ち尽くしたが、当然ながら門が開くことはない。諦めて、山門に背を向けて歩き出す。
山の小道の両脇には石灯篭が等間隔で並んでいる。降りしきる雨の勢いがジンの背中をさらに丸くさせる。ぬかるんだ足元に目を落としながら進むうち、じわじわと後悔が込み上げてきた。
僧院での生活は苦しいことも多かった。味方なんてひとりもいなかった。常に孤独だった。それでも、どんな理不尽にも耐える自信があった。なのに――。
すべて、台無しになってしまった。
ふと振り返ると、雨に煙るカマラダ僧院はひっそりとその場に佇んでいた。
ここに来るのもきっとこれが最後になるのだろう。そう思うと、胸の奥がじんと痛んだ。
山を下る途中見えるのは、広大な平野に所狭しと石造りの建物が生える都会的な町並みだ。
バジ共和国、首都・シャーリー。コスニア大陸でもっとも栄えていると言われている都市である。距離としてはカマラダ僧院の目と鼻の先にある場所なのだが、ジンはそこに一度も行ったことがなかった。
それほどに僧院の戒律は厳しく、街に出ることはおろか、敷地の外に出ることすら許されていなかったのだ。修業を終えたあかつきには街に行くことを夢見ていたが、まさかこんなにも早くその機会が訪れることになるとは思いもしなかった。本当に、人生というものはわからない。
市街に降りてきたジンは、道の端でしゃがみ込んで石造りの街並みを眺めた。
往来を行く人々は絹布や紙を張った傘を手に、きびきびと通りを歩いている。彼らが着ているのは北服と呼ばれるバジの装いで、ひざ丈の立ち襟の服に身を包み、頭には帯布を巻いている。
通行人はこちらを一瞥し、なんの反応も示さずに右に左に消えていく。石板のくぼみにできた水たまりを通り抜け、幌馬車が水しぶきを上げて去っていく。
夕方ごろまでそうしていた。朝からずっとなにをするでもなく道端に座り続けていても、誰も気にしなかった。まるで世界から自分だけがいなくなってしまったかのような気になりながら、ただそこに座り続けた。
心に穴が空き、そこから自分という存在がこぼれ落ちていくような感覚を覚えた。本当に、なにもかも失ってしまった。途方に暮れるとはまさにこのことだ。
辺りは暗くなり、次第に通行人の数は減り始める。そろそろ今日の宿を探さなくてはならない。だがそんな金はないのだった。
ジンは暗澹たる気分でふらふらと立ち上がり、雨風を防げる場所を探した。建物と建物の間の隙間に雨宿りできそうな場所を見つけ、そこに避難する。
埃と砂まみれの地面に腰を下ろしじっとしていると、辺りはますます暗くなってくる。次第に悪寒がしてきて横になった。濡れねずみのままずっと外にいたからだろうか、風邪を引いたのかもしれない。
がたがたと体を震わせながら、濡れた自分の体を抱くようにして地面の上で丸くなる。辺りでは降り注ぐ雨が建物と地面とを叩く音が響き渡っている。
目をつむり、訪れた暗闇にほっとする。ここに敵はいない。ここでならだれにも傷つけられないで済む。
このまま目が覚めなければいいのに。眠りに落ちる直前、ジンは思った。




