第32話:託されたもの
「くそっ、待て!」
ジンは敵の後を追って走り出してから、サバルがついてきていないことに気がついた。振り返れば、まだ膝をついて座り込んでいるままだった。
敵は負傷している。あの傷なら、どうせ後からでもすぐに追いつける。
ここはひとりで追うべきではないと判断し、ひとまずサバルの元に戻ることにした。
「おい、なにのんきに休んでるんだよ。早く奴を追う……ぞ……」
言葉は途中で小さくしぼんだ。近寄って初めて、異変に気がついた。
「……うそだろ……」
視線の先、大男の右横腹が大きくえぐれていた。半円状に、肉がなくなっている。
サバルは自らの杖を手放し、傷口から吹き出す血とともに鮮やかな色の臓物がこぼれ出そうになっているのを片手で押さえつけていた。
「ふっ、掠っただけなんだがな……。見てのとおり、この有様だ」
サバルは血の気の引いた顔で傷口を見下ろしてから、髭だらけの頬を無理やり持ち上げて笑って見せた。
リウ家の誰よりも強かった男が、今まさに死にかけている。ジンはその場に立ち尽くし、流れ出る血が地面を赤く染めていくのを呆然と眺めながら、思いついた言葉をそのまま口にした。
「街に戻ろう。まだ助かるかもしれない」
「ダメだ。どうせ間に合わない」
「そんなこと、わからないだろ!」
サバルはゆっくりとかぶりを振った。
「……どうやら俺はここまでらしい」
サバルの顔には諦めの色が浮かんでいた。もう、自分が死ぬとわかっている顔。残された時間はもう幾らもないのだと、悟っている顔だった。
「そんな……」
やりきれない思いに胸を塞がれ、ジンは指が白くなるほど杖を強く握りしめた。
そんなジンの様子を眺め、サバルはふっと口元をほころばせた。
「お前のことは、初めて会ったときから気に食わなかった。あの女は――タキは、俺だけのものだ。お前のようなぽっと出の小僧には渡さない」
「こんなときに、なに言ってんだよ」
サバルは黙り込み、ジンを見つめ続けた。
話を聞け、とこげ茶色の瞳が言っていた。
「子どものころから、母は俺にだけは厳しかった。年長者として、弟妹たちを守れるようにと厳しく躾けられた。投げ出したいと、何度思ったことか。お気楽な弟や妹たちが心の底から羨ましかった。……俺は孤独だった」
まるで、墓場まで抱えていくはずの秘密を打ち明けてくれたかのようにサバルは語った。
完全無欠に思われたこの男にも、弱みがあったのだ。人並みの、等身大の悩みが。
彼は続ける。
「屋敷にいると息苦しかった。皆の期待で押しつぶされそうだった。逃げ道すら、俺にはなかった。……そんなときだ、あの女が俺の視界に入ってきたのは。あの女は、俺を超えようと必死だった。泣きべそをかいて、歯を食いしばりながら、俺に幾度となく挑んできた。そのとき、俺は初めて、孤独ではないと思った」
サバルは心底羨ましそうな顔でジンの顔を見つめた。
「ずっと、俺のことだけを見ていればよかったのだ。あいつが俺を追いかけているときだけは呼吸ができた。生きていると思えた。……お前さえ、現れなければ……」
「…………だから、そんな話、今するなよ……」
喋るごとに顔色が蒼白になっていくのが見ていられなくて、ジンは地面に目を落とした。
サバルがタキを想っていたことは、以前から知っていた。それゆえに、負けたくはなかった。
ずっと、いなくなればいいと思っていた相手だった。だけど、本当にいなくなってほしかったわけじゃない。
彼はジンの目標でもあり、理想だった。
白眉と名高いこの男は、リウ家の人々から畏敬と信頼を集めていた。その強さに嫉妬し、憧れた。自分よりもよほどタキに釣り合っている男だと思う。
この男をいつか自分の力で超えたかった。いつかこの男に打ち勝って、「二度とタキに近寄るな」と言ってやりたかった。
それなのに――。
こんな終わり方でいいはずがない。スニルは、あの男は、なにもかも無茶苦茶にしなければ気が済まないのか。
「ぐっ……うううっ……。……行け……俺に代わって、奴にトドメを……」
サバルが苦しそうに痛みに喘ぎながら言葉を紡ぐ。
ジンはスニルが消えていった先へ視線を向けた。薄暗い森の向こう。
あの悪鬼のような男は片腕を失っている。状況は互角……いや、こちらが有利だ。
しかし、勝てる気などしなかった。
自信がない。あの男を打ち負かす自分の姿が、まったく想像できないのだ。
「僕だけじゃ無理だ」
ぽろりと弱音がこぼれ出た。自分でも呆れるほど、情けない震え声。まるで少年のころの自分がひょいと顔を出し、ジンの口を借りて言わせたかのようだった。
言ったあとで、はっとした。こんなことを言えばきっと笑われる。軟弱者が、弱音を吐くなと。
だがサバルは笑わずに、どこまでも真剣な顔をしていた。
「俺の、昔からの口癖を……教えてやろうか……。『俺にはできない』、だ……。それでも……本音を隠し、虚勢を張って……歯を食いしばって、耐えてきた……。俺は、リウ家の長男だからな……」
普段の姿からは考えられないような弱々しい声。話すたびに息が切れ、声がかすれていく。腹を抑えたサバルの手の隙間からぼたぼたと血を零れ落ちていく。
「お前が……これまでどう生きてきたのかは、知らない……。だが、その目を見れば……なにと戦ってきたのかは、わかる……。お前は、理不尽と戦ってきたのだろうが……。お前にもでき、る……」
「――おいっ!」
とうとう座り込んでもいられなくなって、サバルは地面に倒れ込んだ。
ジンは思わず手にした杖を手放してしゃがみこんだが、彼は「助けなどいらん」と言わんばかりに首を振る。
「……――――……」
サバルは地面に額を押し付け、顔を歪める。再び口を開くも、声はかすかで、とうとうなにを言っているのか聞き取れなかった。
ジンは顔を近づけ、耳を澄ます。
「……お前は……死を厭わずに、ここにやって来た……。奴と、杖を交えた……。お前はまごうことなき、リウ家の男だ……。俺たちと、なんら変わらない……兄弟のひとり、だ……」
あのサバルが、認めた。相容れないと思っていたあの男が、『部外者』とまで言っていた、この自分を。
やめてくれ、と思わずジンはつぶやいていた。
「僕は、あんたを実力で認めさせたかったんだ。そんな、お情けで認めるようなことするなよ」
サバルは地面に這いつくばった格好のまま、顔だけを横に傾け、ジンの目を見つめた。
「行け……ジン」
『小僧』とは言わなかった。最後の最後で名前を呼ぶだなんて卑怯だと思った。
この男のことが大嫌いだった。
なのに、どういうわけか目からは涙が溢れ、心にはぽっかりと穴が開いていた。
様々な言葉が頭に浮かんだ。みんなになんて言って報告すればいいんだよ、とか。この先誰があんたの代わりをするんだよ、とか。あんたともっと話したかった、とか。
けれど、結局どれも口には出せず、小さく嗚咽だけが漏れた。
視線を感じる。サバルがこちらを見ている。
「……っ」
ジンは慌てて腕で口を塞ぎ、ぎゅっと目をつむって、涙を無理やり押し込めた。そして、押し寄せる感情の波を頭から追い払う。
この男の前で、みっともない姿なんて見せたくない。堂々と胸を張れ。悲しむのは、すべてが終わってからだ。今じゃない。
いつだってジンは、自分のためだけに戦ってきた。故郷の村にいたときも、僧院にいたときも、タキの指導を受けていたときだって。
けれど、今日は違う。
犠牲になった者たちと残された者たちのため、彼らの無念を晴らすべく、あの男に立ち向かわなければならない。リウ家の一員として。
ジンは傍らの鉄刀木の杖を手に、すっくと立ちあがった。
サバルの姿をしばし見下ろし、任せろ、という意思を込めて、力強くうなずく。彼は血走った目でじっとこちらを見つめるばかりだった。
ジンは歩き出した。託された意志を背負い、森の先へ、ただひとりで。




