第3話:反撃
「さぁ、腕を折ってやる。お前にやられたようにな」
ナビンはにこやかに冷徹なことを言った。
「残る一本も折っちまったら、いよいよお前はなにもできない役立たずだな。えぇ? おい」
血の気が引く。「待て」とジンが言うよりも先に、ナビンはあごで実行を指示した。
手下の男の足が、ジンの左腕の前腕部に向け、かなづちのように振り下ろされる。
「――グッ!」
腕の骨がきしみ、激痛が走った。ジンの体はビクンと大きく跳ね、それを背中に乗った男に押さえつけられる。
「もう一回。折れるまでやれ」
間髪入れず指示が飛ぶ。
指示を受けた男は足を上げ、もう一撃を食らわせられようとしていた。
ジンは身をよじって拘束から逃れようとするも、体重を乗せて押さえつけられ、それも叶わない。男の足が振り下ろされる。
「――ッ!」
痛みと痺れが腕を貫く。体が跳ね、あごが床に打ちつけられた。
歯を食いしばり、鼻息荒くして痛みの波が引くのを待っているうちに、「いいぞ。もう一回」ナビンがこちらの様子を観察しながら言う。
三回目。男が足を振り上げる。
「……や、やめろ! もうやめてくれ!」
気がつくと、ジンは懇願していた。声は無様にひっくり返り、三人は吹き出した。
こういった連中は、いくら口でやめろと言ってもやめるものではない。それどころかむしろ逆効果で、もっと面白がるということは今までの経験上よくわかっていた。だが止められなかった。部屋の中に三人の嘲笑が響き渡る。
「なんだよ、今のみっともねえ声! ハハハハッ!」
「……っ」
知らぬ間に、涙がこぼれていた。目から流れ出た雫は頬を滑り、あご先から絨毯へ落ち、黒いしみを作る。
悔しくてたまらなかった。こんな奴らにいいようにされる自分があまりにみじめで許せなかった。
その姿を見て、奴らがまた声を上げて笑った。
そこでジンは思い出した。故郷の村で、子どもたちが田んぼで捕まえたイナゴの手足をむしって無邪気に遊んでいる、あの様を。
自分はあのイナゴと一緒だ。自分はこれから、遊び半分で手足をむしられる。抵抗することもできず、されるがまま。
この場にいる誰も慈悲の心など持ちあわせていないだろう。罪悪感だって抱いていない。なぜなら、彼らにとって自分は害虫なのだから。
なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのだろう。発端となったのは先日の授業での一件だが、あんなものは単なる事故に過ぎない。自分に非などないはずだ。
思い返せば、昔からそうだ。理不尽な目にばかり遭う。初対面の人間に侮られるのはよくあることだった。誰もが「この人は虐げてもよい」と認識し、平然で尊厳を踏みにじってくる。周りからは穏やかで優しいと思われている者でさえ、自分にだけは態度を変える。
自分がいったい何をしたというのだ。この世界はなぜこんなにも自分に冷たいのだろうか。
「……クソッ……」
いや、違う。そうではない。
泣いていても、自らの不幸を嘆いていても、誰かが救ってくれるわけではない。救われたいのなら戦わなければならない。自分を救うことができるのは自分だけだ、他人じゃない。そんなこと、ずっと前からわかっていたはずだ。
ジンは額を床に押しつけ、大きく息を吸った。生乾きの匂いと絨毯にしみ込んだ汗と泥の臭いが混ざり合う、最低の匂いがした。もう二度と嗅ぎたくはないと思った。
やるしかない。やらねば、やられる。萎えかけた心を無理やり奮い立たせる。床をじっとにらみつけながら、痛みと恐怖に止まってしまった頭をもう一度働かせる。
そして、ひとつ、策を思いつく。この方法しかない。
「謝らせてくれ、ナビン。頼む。少しだけでいい、君と話がしたい」
ジンは震える声で懇願する。よりみじめに、より情けなく見えるように。
笑い声がピタリと止んだ。頭の上でナビンの子分が親分の反応を伺う気配がする。若干の間。
「いいぞ、聞いてやる」
ナビンはまるで王様にでもなったかのようにそう言うと、手を上げて子分たちに待てをさせた。
ジンは“そのとき”を待ちながら生唾を飲んだ。心臓が早鐘を打っている。機会は一度きりだ。失敗は許されない。
「僕が悪かった。僕みたいな人間が、君に迷惑をかけてしまって、すまなかった。愚かな僕を許してほしい。……だから、こんなことやめてくれ。頼むよ。すごく痛いんだ」
演技を続けながら隙を探す。
こちらの目論みに気づいた様子もなく、ナビンはニヤリと笑った。
「だめだ。許すわけねえだろ」
ジンはナビンの言葉に絶望したかのように力なく顔を伏せた。
「……――――……」
誰にも聞こえない、聞かせるつもりもない声で吐き捨てる。クソ喰らえ。
「あ⁉ なんだって? 聞こえねえよ!」
背中に乗った男が調子に乗って顔を近づけてきて、半笑いで言う。
そこに隙を見つけた。ここしかない。一か八かだ。ジンは全身全霊の力を込めて頭を後ろにのけぞらせた。
「――んがっ!」
硬い後頭骨が背後の男の顔面を強打する。それにより男が大きく体を仰け反らせ、拘束が緩む。ジンは地面を這いながら必死に前へ進み、目の前のナビンの持つカシの杖に向かって左手を伸ばした。
「おいっ、なに油断してやがる!」
ナビンが叫び、杖に触れさせないよう腕を上げるが、もう遅い。ジンの左手はカシの杖に触れていた。ナビンは即座にジンを突き飛ばそうとしたが、片手では思うようにはいかず失敗した。
それから起こったことは、瞬きする間の一瞬の出来事だった。
ジンの理力が一瞬にして杖に注ぎ込まれ、ナビンもわずかに遅れて杖に理力を注ぎ込んだ。結果、杖の内部で“力”の渋滞が発生した。下から上へと登っていった両者の理力は、杖先の『源石』まで到達し一気に増幅されていく。注ぎ込まれた過剰な力により、カシの杖が持っていられなくなるほど熱くなり、両者がとっさに手を離した。その直後、膨れ上がったエネルギーは杖そのものを破壊してしまった。
堅いカシの杖が、乾燥しきった枯れ枝のようにあっさりと砕け散っていく。それにより、杖の内部に蓄えられたものが一斉に外へと解き放たれる。
「う、うおあああっ!」
巻き起こった爆風に、その場にいた全員が吹き飛ばされた。
ジンの体は軽々と宙に舞い上がり、くるりと半回転して背中を強かに地面に打ちつけた。床の上で悶絶しながらジンは勢いよく顔を上げ、状況を確認した。
こうなることを予期していたわけではない。まったくの偶然だ。だが事態は好転していた。
先ほどまでカシの杖があった場所。その虚空に灰色の光が漂っている。
本来、理力というものは目視できぬものであるが、術士としての訓練を積んでいる者には感覚でそこに“ある”のだと理解できる。理力の輝きが心の目で捉えることができる。
ジンは杖先から飛び出したそれがいかに危険かを知っていた。木杖で放った理術には、容易く人を殺める威力がある。それが、ひとりではなくふたり分の理力を込めて放った場合、どうなってしまうのか。授業ではまだ習っていないが、想像するのは難しくなかった。
今、ジンの目前で、宙にたゆたう灰色の光がみるみるうちに膨れ上がっている。“力”の塊が爆発寸前の勢いで留まっている。
あれはまずい。そう思ったのはジンだけではなくこの場にいる他の者も同じだったらしく、見れば、皆青い顔で灰色の光に目を向けていた。
制御を失った術の暴走が始まる。バツッという鋭い音が響くと同時に、灰色の光弾が赤レンガの部屋の中であっちこっちに跳ね回った。床にぶち当たり天井に跳ね、次に近くの壁に当たりその反対側の奥の壁に跳ね返って燭台を破壊し、机と椅子をいくつも蹴散らしても勢いは止まらず、最後にはこの部屋の一番大きな“的”に着弾した。すなわち、術者の片割れ――ナビンに。
ナビンはその厚みのある体躯で光弾を受け止めた。丸太のような彼の両の足が地面から離れ、ふわりと浮いたかと思うと、彼はそのまま部屋の奥まで吹き飛ばされていった。
体の芯にずしんとくるほどの振動がやってきたあと、騒がしかった部屋の中がしんと静まり返る。
「…………」
その場にいる全員が恐る恐るといった様子でナビンの成り行きを伺った。
レンガの壁に高速で叩きつけられたナビンは血の海に倒れていた。
待てど暮せど、彼は起き上がらない。死んでいるのか、生きているのかわからない。ただ、意識がないことだけは確かだった。
ナビンの子分たちが一斉にジンのほうを見た。怒号が上がる。
「こ、この野郎、よくもっ!」
「ぶっ殺す!」
ジンはハッとなり、急いで立ち上がったが、先ほどジンの腕を蹴った方の男が、すでにこちらに走り寄ってきていた。
伸びた拳が頬に突き刺さる。ジンが顔を仰け反らせたところに、さらに容赦なく追撃がやってくる。二発、三発。顔面が血で染まる。
視界がぶれて、なにがなんだかわからなくなる。膝が折れそうになるのを歯を食いしばってなんとか耐える。
意識が霞む中、無意識に伸ばした左腕がなにかを掴んだ。殴りつけた拳を引き戻そうとする男の腕だった。
それをぎゅっと掴み、自分の元に思いきり引き寄せる。不意を突かれた相手は姿勢を崩し、ジンのほうに倒れ込んでくる。
男の顔がジンの目前にやってくる。反撃しろと本能が叫んでいた。ジンは無我夢中で顔を近づけ、男の鼻に思い切り噛みついた。
「いいいっ! いでえっ!」
「おい、離せ、こいつ!」
残ったひとりがジンを引き剥がそうと掴みかかってくる。前からは顔面を押され、後ろからは左手と胴を掴まれて引っ張られるが、死んでも離すまいとあごにぎりぎりと力を込める。背中を殴られ、髪を引っ張られても、なにをされても離さない。
「や、やめろッ! いでッ、いででで! ま、待て。それ以上やったら、俺の鼻が――!」
……ブチンッ!
嫌な音がした。なにかが、ちぎれるような音だった。
男が勢いよく倒れ、尻もちをつく。ジンは後ろからの力に抗うのを止め、そのまま一歩後ろに下がった。
口に含んだ“もの”を、ぺっと床に吐き出す。よだれと血にまみれた人の部品が、絨毯の上にごろんと転がり落ちた。
鼻の頭を失った男は悲鳴を上げて床の上に這いつくばっている。
敵はあとひとり。ジンが向き直ると、さっきまで自分を引きはがそうとしていた男と目が合った。男の顔は血の気が引いていた。信じられないものを見た、という顔。
ジンは血まみれの口でにっと笑った。男は喉から声にならない声をひゅっと漏らし、後ずさる。
その一瞬の隙を見逃すジンではない。男の股間を思い切り蹴り上げ、怯んだところに左拳で顔面を殴りつけた。続けざまに体当たりをかまして転ばせ、馬乗りになる。
反撃は許さない。目を白黒させてるその顔に、拳をまた振り下ろす。男は両手を振り回し、手当たり次第に叩いたりひっかいたりしてくるが、構うことなく殴りつける。
痛みはもはやどこかへと消し飛んでいた。目の前の敵を叩きのめさなければならなかった。
殴って、殴って、殴って、殴った。一本の腕だけで、ひたすらに。
返り血が拳を、袈裟を汚す。呼吸が荒くなっても、体が疲労を訴えても、止まらない。止まれば、反撃を許してしまう。拳を止めることはできない。
上から下に叩きつけて壊す。動かなくなるまで、壊し続ける。
拳の前面で、横面で、指の関節で、何度も何度も、無茶苦茶に叩きまくる。
泣いても、泡を吹いても、それでも拳を振り上げる。
ふと、気がついて手を止めた。
横を見ると、部屋の入口に誰かが立っていた。それもひとりではない。大勢だ。
その中の何人かは、燃えるような赤色の袈裟を着ていた。学僧が着るのは青黒色だ。色が違う。
「なにを、しているんだ……」
硬い声だった。まるで化け物でも見るような目で、赤い袈裟を着た大人たち――師僧たちがこちらを見つめていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ジンは肩で息をしながら、ゆっくりと視線を手元に戻した。
自分の下で、ひゅーひゅーと、か細い息をしている男がいる。その男の顔面は破壊され原型がなく、顔中が血に濡れている。ぽっかりと空いた口から覗く歯は何本か抜け落ち、見れば、血まみれのジンの拳にそれが数本突き刺さっていた。
少し離れたところでは、鼻を失った男が痛みにすすり泣いている。奥にちらりと見えている親分――ナビンは倒れたままぴくりとも動かない。
おぞましい光景だった。それが自分の仕業だという事実を、受け入れられない。
激情が急速に冷めていく。取り返しのつかないことをしてしまった。その実感が津波のように押し寄せてくる。
「違う……僕のせいじゃない」
口をついて出てきたのは、そんな空虚な言葉だった。




