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隻鬼の杖 〜持たざる者は頂を目指す〜  作者: ふじぬま


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第29話:駆ける

 目を覚ますと、そこは漆喰の壁に囲まれた白い部屋だった。

 身を起こし、ジンは顔を歪めた。体中が痛みを訴えている。


 自分の体を見下ろすと、上半身が裸だった。むき出しの胸には深々と身体に埋まりこんだガラス片を抉り出したのであろう、生々しい傷が残っている。腹部と左腕には清潔な包帯が巻きつけられている。包帯の下の腹の皮膚が突っ張るように感じられる。どうやら傷はすでに縫われたあとらしい。


 部屋の端にぽつんと置かれた寝台の上にジンは寝ていた。見覚えのない場所だった。ここはリウ家の屋敷でも、タキの家でもない。

 自分の身の状態と周囲の情報から、どうやら養生所に運び込まれたらしいと把握したジンは、痛みに耐えながら寝台を降りた。寝台の脇の机には鉄刀木(たがやさん)の杖と、所々に血のついた紺の着物が無造作に置かれていた。

 ジンは着物に腕を通し、杖を取にして部屋を出た。


 廊下では看女たちが慌ただしく動き回っている。おそらく、自分以外のリウ家の人間もここに運び込まれたのだろう。

 廊下を進み、誰か知り合いはいないかと探す。先ほどいた部屋のふたつ隣に、見知った顔を見つけた。


「ジンくん、まだ起きちゃダメじゃない」


 寝台脇の簡素な椅子に座っていたハリシャは、ジンの姿を見るなり腰を上げた。


「もう歩ける」

「我慢してるだけでしょう? 無理をしたら傷が開くわ」

「大丈夫だって」


 平静を装いながら答え、部屋に入る。そこで、ハリシャの前の寝台に寝ている人物が誰なのか気がついた。


「……アリン」


 真っ白な敷布が敷かれた寝台に少年が横たわっていた。少年の全身は包帯が巻かれ、そこには血がにじんでいる。アリンは目をつむり、苦しそうに顔を歪め胸を上下させていた。


 ハリシャはアリンの容態をジンに告げた。

 医者の話では、もう長くないとのことだった。内臓がやられている。だからもう、打つ手建てはないのだと。


「そんな……」


 アリンが死ぬ。あのいつも元気だった少年が。

 受け入れられない現実だった。


 ハリシャは浅く呼吸をしているアリンの隣に寄り添い、悲しげに目を伏せた。


「この子、寝室を勝手に抜け出して庭にいたんですって。それであの男と鉢合わせて……」


 知っている。ジンはそれを直に目にした。あの恐ろしい男に、無力な少年が為す術もなく襲われる様を。


「たぶん、みんなの真似がしたかったんでしょうね。いつも言ったもの。早く大人になりたいって」

「そうか……」


 ジンは寝台の脇に立ったまま俯いた。


 しばらくそうして、アリンの様子を見守っていた。

 ほどなくして、「あ」とハリシャがつぶやいた。

 見ると、アリンがかすかにまぶたを持ち上げていた。


 少年は小さく顔を動かし、顔を覗き込むふたりの姿を認めると、小さく口を開いた。


「ジン兄ちゃん、ハリシャ姉……ごめんよ」


 消え入るような、かすれ声だった。


「ぼく、みんなの話をちゃんと聞いておけばよかった。……ごめんよ」


 言い終えると、アリンはまた目を閉じた。少年の小さな目じりから涙が一筋流れ、頬を伝った。

 アリンがまぶたを持ち上げるのをジンは静かに待った。しかし、彼が目を開けることはもうなかった。


 息を引き取った。

 逝ってしまった。

 ハリシャが弟の遺体に縋りついて泣いている。それをジンはただ眺めることしかできなかった。


 守れなくてごめん。なにもできなくてごめん。君の家族を死なせてしまってごめん。言いたいことはたくさんあったが、アリンにはもう、こちらの声は通じなかった。

 この子は、どんな大人になるはずだったのだろう。きっと、人の気持ちのわかる優しい大人になったに違いない。


 彼はもう、永遠に大人になれない。背が伸びることも、声変わりすることも、恋をすることもない。これからの彼の未来はきっと楽しいことで溢れていたはずなのに。そう思うと、涙が止まらなかった。


 ジンにとってアリンは、可愛い弟分であり、大切な友人だった。リウ家に来たばかりのころ、皆と馴染めないジンを、「しょうがないなあ」という顔で家族に紹介してくれた姿が今も頭に焼きついている。


 この小さな友人のことが好きだった。イタズラ好きで、家族が大好きな少年だった。タキの家で厳しい鍛錬に励んでいたあのとき、彼の屈託のない笑顔にどれほど心が救われたことか。静かなあの家を、その明るい性格がどれほど賑やかにしたことか。きっと彼自身でさえも、理解していなかっただろう。


 アリンと一緒に、またタキの陰口を言って笑いたかった。

 守れなかった。子どもを守るのが大人の役目だろうに。


 ジンは手を伸ばし、アリンの柔らかな髪をくしゃりと撫でた。

 心の内を激情が渦巻いていた。目に映るものすべてに当たり散らしたい気分だった。

 様々な人々の顔が脳裏に浮かんだ。ギイチ、イェン、死んでいったリウ家の者たち……。

 そこで、ふと思い出した。タキは、彼女は今どうしているのだろう。他のみんなは?


 心が急速に冷えていく。自分には、こうして泣いている暇すらもないはずだ。

 怒りのあまり、溶接されたようにくっついてしまって離れない上あごと下あごを、ゆっくりと引きはがしていく。そしてようやく、口が自由になった。


「ハリシャ、こんなときにすまないが、教えてほしい。タキは無事なのか?」


 ジンは目元を拭い、ハリシャに尋ねた。


「え、ええ……」


 ハリシャは顔を上げ、赤く充血した目でジンを見つめ、しゃっくり混じりに答えた。


「タキ姉は無事よ。あ、朝方、屋敷に戻ったわ」

「今はどうしてる? 他のみんなと屋敷にいるのか?」

「わっ、わからないわ。ず、ずっと付き添いでここにいるから……」

「わかった。ありがとう」


 ジンは杖を手に部屋を出て廊下を進み、養生所の外へ出た。

 屋敷に戻り、現状を把握しなければならない。そう思って敷地を出ようとしたそのとき、通りからひとりの女がとぼとぼと歩いてきた。ひっつめ髪の小柄な女。


「みんな、行っちゃったわ……」


 沈鬱な面持ちのジュエンがこちらの姿を認め、呆然とつぶやいた。


「どういうことです。行ったってどこへ?」


 胸騒ぎがして、ジンは問い詰めた。


「あいつのところよ。タキもサバルも、みんな行っちゃった……」


 ジュエンは顔を両手で覆って泣き出した。


「スニルのところに行ったんですね⁉ いつですか?」

「……昼ごろよ」


 もう過ぎてる。見れば、太陽は頂を越え、昼下がりの光を投げながら西へ傾き始めている。

 頭をよぎったのは考えたくもない結末だった。このままでは、もっと多くの人が死ぬ。スニルに殺される。


 ジンは周囲を見渡した。緑にあふれた養生所の敷地の端、そこに小屋が併設されているのを見つけた。患者や付添人の馬を世話するための小屋だ。

 ジュエンと別れ、そのまま養生所の馬屋を訪れる。ずらりと並ぶ馬の中から毛艶の良い一頭を見定めると、ためらいもなく手綱を取って連れ出した。


「あっ、おい! あんたなにしてんだよ!」

「なにも言わず、この馬を借してくれ。詫びならあとでいくらでもする」


 小屋の外にいた馬番が気がついて止めてくるが、ジンが杖を突きつけながらそう言うと、馬番は怖気づいたように引き下がった。事情を説明する暇も、なりふりかまっている余裕もない。馬泥棒だろうが脅迫だろうが、なんだってやってやる。


 帯に杖を差してから地面を蹴って鞍にまたがり、手綱を引いた。馬が軽くいななくと、蹄を鳴らして走り出す。


 馬術はずいぶん昔に(ギイチ)に習った。隻腕ゆえに馬に乗るのは難しく、何度も馬から落ちて泣いたものだ。兄が亡くなったことで指導は途中で終えてしまったが、それでもなんとか、不格好ながらも乗れるようになっていたことがここに来て役に立った。


 向かうのは北の街門だ。スニルは『北門近くの森にて待つ』と言っていた。

 通りに出て、ひたすらに北に向かって走る。街門に着くころには日が暮れ始めていた。

 夜になる前に門は閉められてしまう。なんとか間に合った。


 通りの向こうから矢のように駆けてきた自分をぼんやりと眺めていた門衛の前で馬を止め、早口で尋ねる。


「ここにリウ家の人間が来たはずだ。どっちに行った?」

「え?」

「教えてくれ。早く!」

「ええっと、たしかあっちに――」

「ありがとう!」


 兵士が指す先、街道脇の北東の森に向かって馬を走らせる。

 脳裏に浮かぶのはタキの顔だった。


「頼む。無事でいてくれ……!」



       ※



 枝葉が重なり合い、陽の光もまばらな森の中。そこにひとりの老人が佇んでいた。

 両手に杖を携えたその老人は、目をつむり、白髪をたなびかせながら木々の合間から流れてくる緩やかな風を感じていた。


 ふと、老人がまぶたを持ち上げ、白いひげに隠れた口を小さく動かしつぶやいた。


「来たか」


 やがて、森の向こうから人影が続々と現れる。その数、五十ほど。若い男女がほとんどだ。どの人影も杖を携えており、中には腰に剣や短刀を帯びている者もいる。


 その集団の中の最も体格の優れたひとりが、迷路のように張り巡らされた木の根を踏み越え、老人の前にゆっくりと進み出た。


「お前が“死神”スニルだな」


 男の野太い声が森の中に響き渡った。


「俺の名はサバル。リウ家の長子にして、イェン亡き今、その跡を継ぐ者だ」


 スニルは、大男の髭だらけの顔を見据え、その威容と、衣越しにも感じられるたくましい筋肉をじろじろと確かめた。


「ほう、貴様が。なるほど、たしかに“使え”そうだ」


 そして、周囲の人影をぐるりと見渡す。


「ふむ。あの片腕の小僧の姿が見えないようだが……」

「あの軟弱者は療養中だ。ここには来ない」


 そう聞くと、スニルはどこかつまらなそうな顔をした。

 サバルは口角を吊り上げた。


「ふっ、安心しろ。奴がいなくとも、お前が死ぬ未来は変わらん」

「半端な戦力でこの俺に勝てるとでも?」

「この数が見えないのか? 老いぼれめ」


 この窮地にあってなお自信を漂わせる老人を前に、サバルは嘲るように笑った。


「数? ふっ」


 スニルもまた、笑い返す。


「肝要なのは戦士の“質”だ。いかに数を揃えようと、怒りに己を支配される者たちでは脅威足り得ない。俺とまともにやりあえそうなのは……そうだな――」


 スニルは周囲の術士たちをざっと見渡した。そして、サバル、タキ、三人の老人――使用人たちを、順に指さした。


「お前とそこの女、それからそこの老いぼれども……五人といったところか。それ以外は木っ端。単なる数合わせよ」


 その侮辱の言葉に、周囲の者たちは気色ばむ。

 サバルは杖を持たぬ方の手を挙げて、弟妹たちを制した。


「覚悟しろ」


 怒気をにじませた顔でサバルは凄んだ。


「俺たちはこの命尽き果てるまで戦うつもりだ。お前を殺すその瞬間まで、手足をもがれようと、杖をへし折られようと、決して動きを止めず戦い続けるだろう」

「はっ、情熱的な誘い文句だな。聞いているだけでいきり立ちそうだ」


 黄ばんだ歯を見せて笑うスニルを前に、サバルは目を細めた。


「リウ家は決して、お前を許しはしない」


 スニルは笑みを止め真顔になり、二本の杖をだらりと下げたまま、淡々と言った。


「来い」


 サバルは目線を走らせ、弟妹たちに合図を送った。途端、彼らはぴたりと息を合わせ、杖を構えた。

 長男が杖を振り抜く。それに合わせて、兄弟たちは一斉に攻撃を仕掛けた。


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