第25話:弟弟子
ジンはタキが持ってきた着物に着替えると、母屋から伸びる別館――北棟へと足を向けた。
「――なるほど」
北棟一階の一室にて。揺り椅子の上で話を聞き終えたイェンは、深くうなずいた。
彼女の背後では暖炉が赤々とした炎を湛えている。日が落ちて、すでに部屋の隅には闇が淀んでいる。
「スニルが屋敷の前に……それはたしかに憂慮すべき事態です。よくぞ知らせてくれました」
イェンは白布を巻きつけた顔をジンのほうへ向けた。
「お兄さんのことは残念でしたね、ジン」
「……はい」
「私もあの男とは深い因縁がありますから、あなたの気持ちは痛いほどよくわかります」
盲目の老婆は椅子からゆっくりと腰を上げた。彼女は左の手を後ろに回し、残る右手をジンによく見えるようにかざした。外側の二本しか指の残っていない、枯れ枝のような手。
「知ってのとおり、私がこんな身体になったのはスニルの仕業です。聖骸戦争の末期、スイ国との停戦協定を結ぶ協議の場にて、あの男は突如として現れ、辺りを血の海へと変えました。戦争継続を望むスイ国の一派によって雇われたとのうわさがありますが、定かではありません。あの男の考えていることは、もはや誰にもわかりません。かつては、あの顔を見ただけでなにを考えているかすぐにわかったものですが……」
イェンはかざした手を下げ、わずかに俯いた。
「スニルと出会ったのは、私がまだ年端もいかぬ少女だったころの話です。わが師、タモンに連れられ、幼子が道場へやってきたあの日のことを今も鮮明に覚えています。『姉弟子さま、姉弟子さま』と追いかけてきた、あの小さな足音まで――」
そうしてイェンは静かな口調で語り始めた。
今から五十年以上前のこと、バジの片隅で道場を営んでいたタモン老師は孤児であったスニルを拾い上げ、弟子として迎え入れた。
両親に捨てられた幼いスニルは道場にやってきた当初は精神的に不安定だったという。夜になるとタモンにしがみついて泣き、朝になると寝小便をして兄弟子たちに怒られ、また泣いた。
こんな泣き虫が術士になどなれるはずもない。当時のイェンはそう思ったそうだが、少年はタモンの厳しい指導に毎日泣きべそをかきながらも必死に食らいつき、予想に反して、彼は時を経るごとにたくましく成長していった。
タモンの元で修練を積んだスニルは、十五で成人を迎えるころには兄姉弟子たちのほとんどを凌駕し、のちには十大弟子のひとりとして数えられるほどの術士となった。そのころのスニルは純粋で心優しく、今とは似ても似つかない青年だったという。
スニルは師を父として、弟子たちを兄姉として慕っていた。兄姉弟子たちもまた、スニルを弟のように可愛がっていたのだそうだ。
彼の人生に転機が訪れたのは、タモン老師が病に伏せ、その生涯を終えたときだった。
青年は悲嘆の底に沈んだ。親同然であったタモンの死は彼の心を引き裂いた。兄弟子たちが力ずくで引き離すまで、彼は亡骸のそばから決して離れなかったという。
やがて師を失った弟子たちは、悲しみが癒える間もないまま、それぞれの思いのままに散り散りに別れていった。そして、互いに異なる道を歩んでいったのだった。
「私が次にスニルと会ったのは、それから二十年後のことです。バジの将軍として、戦火の中に身を置いていた私は、死体の山の前で笑うスニルと再会しました。彼はかつての純粋な面影など微塵も残さぬ、冷徹で恐るべき術士となっていたのです」
「スニルになにがあったのですか?」
タキが尋ねた。
「この上ない不幸が――人ひとりを壊してしまうような厄災が、彼を襲ったのです。戦場の真っただ中で、彼は淡々と、私に過去を語りました」
タモンの死後、独りになったスニルは、師の業を世の人々に伝えるため大陸各地を放浪し、やがてスイ国の田舎にて道場を開いたのだという。
そのうちに、近くの村から妻を娶り、三人の子に恵まれた。素朴で小さな幸福に満ちた生活に、彼は身を落ち着けた。
しかし平穏な日々は長くは続かなかった。彼の道場は戦火に飲み込まれ、敵国の兵士の手によって、愛する子どもたちは命を失ったのだ。
憔悴したスニルは、妻の姿が見当たらないことに気がつき、死に物狂いで探した。
そしてようやく見つけ出したときには、スニルの妻は兵士たちによって囚われ、野営地で慰み者にされていたのだという。怒り狂ったスニルは兵士たちを皆殺しにし、妻を連れて逃げ出した。
だが不幸はなお続く。逃走するスニルを兵士たちは馬に乗って追いかけた。追っ手との交戦の最中、妻は流れ矢に倒れ、息絶えたのだ。
「おそらく、私の知る弟弟子はそのときに死んだのです。すべてを失った彼は、目に映るすべてを破壊する悪鬼と化しましました。あの男はこの世のすべてを憎んでいるのでしょう。スニルはどこの軍にも属さぬまま、たったひとりで戦場を荒らし回りました。その狂気はかつての兄弟弟子たちにも及び、本物の兄弟同然に育った仲間たちを次々と手にかけ、そして最後は、この私を標的にしたのです」
イェンは深いため息をつき、続けた。
「スニルと戦い、私は惜しくも敗れました。こうして生き残ることができたのは、援軍がやってきたという偶然と、私の側近たちが命をかけてスニルを止めたからです。……あの男は、もはや言葉の通じぬ狂人です」
目の前の話に、ジンは言葉もなく耳を傾けていた。
スニルの過去を知ってもなお、あの男に対する怒りはまったく収まりはしなかった。あの男の過去の境遇は、自分としても共感できる部分は少なからずあった。だがどれだけ悲しいことがあろうとも、その憤りを他人にぶつけていい理由にはならない。自分もこれまで多くの苦しみを味わってきたが、それでも、その怒りを周りに向けようとはしなかった。スニルの行いは到底許されるものではない。
イェンは考え込むようにうつむき、しわだらけの顔に影を落とした。
「あの戦から二十年。あの男の狂気が静まったといううわさは聞き及んでおりません。もしも、あの男がなにか思惑があってこの街に現れたのだとしたら、最悪の事態を想定すべきかもしれません。念のため、警戒はしておいたほうがいいでしょう」
つと顔を上げ、イェンは姿勢を正した。老齢にもかかわらずまったく曲がりがないその背筋には彼女の生き方そのものが宿っているかのようだった。
「ヤンシン!」
手を打ち鳴らしイェンが呼ぶ。ほどなくして、年老いた使用人が静かに部屋に入ってきて頭を下げた。
「奥方さま、何用にございますか」
「スニルが現れました。屋敷に脅威が迫っています」
「なんと……」
「タキと協力して大広間に上の子どもたちを集めなさい。しばらくの間、彼らに交替で夜間の警備をしてもらいます」
「かしこまりました」
タキはなにか意見を述べることもせずうなずくと、ジンに目配せをしてから、使用人とともに部屋を出ていった。
部屋にはイェンとジンのふたりだけになる。
暖炉の中の薪がぱちぱちと弾ける音だけが静寂の中に響く。イェンは萎びた唇を真横に結び、しばらく黙り込んでいた。
「これを言ったらあなたは怒るかもしれませんが」
そう前置きをして、イェンは言った。
「はじめてあったとき、あなたをスニルに似ていると感じました。内に秘めた強い負の感情が理力さえも濁らせている。あなたの心には危うさが潜んでいます」
盲目であるこの老人は理力を通して世界を見ている。もしかすると、彼女は人の心すらも見通すことができるのかもしれない。ジンはイェンの言葉に、そうかもしれないと思った。
自覚はしていた。スニルのあの禍々しい理力。あれはジンの内に流れるものをさらに煮詰めて濁らせたようなものだった。
「報復を考えていますか?」
内心どきりとした。本心を明かせば止められると思い、否定した。
「いいえ」
しかし、そんな浅はかな考えなどこの聡明な老人の前ではお見通しだったのか、諭すようにこう言われた。
「気持ちはわかりますが、どうか抑えてください。今やあなたはリウ家の一員です。あなたが動けばこの家の全員が巻き添えになる。それをゆめゆめ忘れてはなりません。いいですね?」
半年ほど前、リウ家の一員となった記念として鉄刀木の杖をイェンに手渡されたときにも同じようなことを言われたことを思い出した。
『この杖にはリウ家の紋章が刻まれています。この杖を持つということは、あなたはリウ家の者として見なされるということです。しっかりと自覚を持たねばなりませんよ。軽はずみな行動は控えるように』
イェンの言うとおりだ。自分はもうひとりではない。
スニルのことは殺したいほど憎いと思う。けれどそれよりも、タキとこの家の住人が大切だった。どこにいっても疎まれた自分がやっと見つけた居場所、それがこの家だった。いつの間にか、この家は心の大部分を占めるほどに大きな存在になっていた。いっときの自己満足のために皆を不幸にはしたくない。それだけは嫌だった。
沈黙のあと、ジンは観念してうなずいた。
イェンは安堵したように息をつき、表情を和らげた。
「厨房に行ってなにか食べてきなさい。そのあとはまっすぐ自分の部屋に戻ってゆっくり体を休めることです。警備の件は今日のところは他の者に任せなさい」
「はい」
「行きなさい」
言われるがまま、ジンは部屋を後にした。
頭ではずっとスニルのことを考えていた。あの男には関わらないと決めたが、それでも心には重苦しいものがくすぶったままだった。




