第24話:吊られた死体、嗤う男
薄汚れた外套に身を包んだ老人だった。
伸びっぱなしの白髪。頬はこけ、日焼けした浅黒い肌はがさがさに荒れ、目は不気味に血走っている。夕焼けが差す通りに影のように佇むその姿はさながら幽鬼のようだった。
無宿者か、と思い視線を外そうとして――できなかった。
ジンは見た。老人の全身を禍々しい理力が巡っているのを。灰色に輝くどろどろとしたものが、ゆるやかに蛇行して体中を這いずり回っている様を。
老人の表情には底知れぬ狂気が宿っている。ひと目見て理解した。あの男はまともじゃない。
ジンはその目に妙な既視感を覚えた。昔、どこかであの目を見たことがある気がした。
そう、あの目は――。
脳裏に“あの”光景がまざまざと蘇る。
鬱蒼と木々が茂る村の外れ。木の枝が重みで悲鳴をあげている。樹上で獲物を狙うカラスたちの鳴き声。
うっ血してぶどうのように腫れた顔。異常なまでに長い首。飛び出した眼球と舌。ぶらぶらと揺れる両足の間から垂れ流される糞尿。
母の憔悴しきった声が幻聴として聞こえてくる。息子がなぜこんな目に。こんなこと、いったい誰が、どうして……。
周りを取り囲む群衆の哀れみの眼。その中で、ひときわ目立つぎらぎらと輝く瞳。嘲笑う男――。
「――っ」
意識が一気に現実に引き戻される。
気がつけば、ジンは地面に膝をついていた。
喉元に酸味が込み上げ、口元を抑える。
しかし、こらえきれずにそのまま嘔吐してしまった。石畳の上に胃の中のものがぶちまけられる。
先ほどまでの幸福感はどこかへと消し飛んでいた。
冷や汗が止まらない。あの絶望の光景が、まだ脳裏に焼きついている。
「ど、どうしたのですか⁉」
こちらの様子に気がついたタキが隣にしゃがみ込み、背中を擦ってくれた。しかし彼女には目もくれず、ジンは老人に目を向けていた。口元を着物の袖で拭い、震える声でつぶやく。
「あれは、誰だ……?」
老人は微動だにせず道に立っている。こちらと目は合っているものの、一言も言葉を発さない。ただひたすらにこちらを観察しているだけだ。
ジンの言葉を受けて、タキはその視線をたどった。そして、例の不気味な老人の姿を認めた途端、彼女は身体を硬直させる。
「知っているのか」
「いえ。ただ――」
タキは老人を見つめたまま、ぎこちなく首を振る。
「一目見て力量の差を感じる術士など、このコスニアを探してもそうはいません。あれはサバルに匹敵する術士です。つまり――」
一泊置いて、その名を口にした。
「“死神”スニル」
驚きにジンは目を見開いた。このコスニアにその名を知らぬ者はいない。
理道の秘匠、タモン老師が業を授けた代表的な十人の弟子――いわゆる『十大弟子』のひとりにして、イェンの弟弟子でもある男。
聖骸戦争の折、スニルは大陸各地の英雄たちを次々と葬り、“死神”の異名を得た。彼と対峙し生き残ることができた者はこの世でただひとり、“武神”と謳われた英雄、リウ・イェンだけだ。
スニルは今もなお影でその力を振るっていると噂される、暗い影をまとった人物だった。
「そこの男! わたしたちになにか用ですか!」
タキは声を張り上げて問うた。
その途端、老人は踵を返し、こちらに背を向ける。
タキは「待ちなさい」と制止したが、老人は立ち止まることはなくそのまま歩き出してしまった。
その背を見つめ、タキはつぶやくように疑問を口にする。
「あれほどの大物が、いったいなぜここに……?」
「……っ」
「……ジン?」
名前を呼ばれ、肩を掴まれる。ジンは返事を返すことも、身体の震えを止めることもできないでいた。怒りで、震えが止まらない。
八年前、自分の兄を――ギイチを殺したのはあの男だ。そう確信した。
忘れもしない、十一歳のあの日。大樹の枝から荒縄でぶら下げられた兄の遺体を発見したあのとき。
ジンは見た。事件を聞きつけて集まったやじうまたちの中で嗤う、あの男を。
欲望にまみれたあのぎらぎらと光る双眸も、あの脂ぎった白い長髪も、当時となにも変わっていない。間違いない。あれがギイチを殺した男だ。
立ち去っていくスニルの後ろ姿をにらみつけながら、ジンは固く拳を握った。
あのギイチを、心優しい兄の命を奪っておいて、スニルはのうのうと生き延びている。それが許せなかった。
今すぐにでも追いかけて行って殺してやりたいところだったが、あいにくこちらは丸腰だった。相手は歴戦の英雄だ。杖も持たずに勝てる相手じゃない。
「……ていますか? ジン」
再度呼びかけられるが、遠くに見えている男の背中から目が離れない。勢いよく体を揺さぶられ、視線が強引に引き剥がされる。
「屋敷に帰りましょう。今のあなたは普通ではありません」
その言葉を聞き流し、もう一度あの男のほうを見ようとしたところで、「ジン!」と強く呼びかけられた。
ようやくジンはこくりとうなずき、タキに手を引かれるようにしてその場から立ち去った。
※
リウ家の屋敷に帰ってくるや否や、「静かな場所で一度話をしましょう」とタキが提案し、東棟にある彼女の部屋へ向かうことになった。
実家を出てしばらく経っているタキだが、屋敷にはまだ彼女の部屋が残されている。私物はほとんど彼女の家に運び出されているので、部屋は簡素な状態である。といっても、リウ家の中では簡素、というだけの話であり、部屋に置かれているものはすべて一級品なのだった。
床には敷かれているのは紅を基調とした織り地に細密な花の模様が織り込まれた上等そうな絨毯。壁には大きな窓がふたつ並び、そこには職人の技を物語る曇りひとつない透き通るようなガラスがはめ込まれている。窓の両端には天鵞絨の窓かけが束ねられ、窓から差し込んだ夕日の先では胡桃の木で仕立てられた丸机と椅子が橙色の光を受け輝いていた。
「座ってください」
部屋の扉を後手で閉めてから、タキが寝台に目を向ける。ジンは素直に従って寝台の縁に腰掛けた。
そこで、自分の服が汚れていることに気がついた。どうやら先ほど吐いたものの飛沫がかかってしまったらしい。
汚れが寝具につかないよう、すぐに腰帯を解き、半着を脱いで上裸になる。
「着替えを持ってきます」
そう言ったタキの手を、ジンはほとんど無意識に掴み、かぶりを振った。
「あとでいい」
「ですが……」
「そばにいてくれ」
タキはすこしためらうような素振りを見せたあと、手を握られたまま隣にちょこんと控えめに腰掛けた。
それからしばらく、ふたりの間に会話は生まれなかった。一方は思いつめた顔でうつむき、もう一方はその様子を心配そうに眺めていた。
静まり返った空気の中、タキはそっと口を開いた。
「あの男と、なにがあったのですか?」
「……うん、全部話すよ」
ジンは語った。すべての不幸の始まりを。八年前のあの事件のことを。兄が殺され一家が不幸のどん底に陥り、そしてばらばらになってしまったことを。
「――そうですか。あの男が、あなたのお兄さんを……」
ジンは握ったままの細い手に力を込め、視線を窓の外に投げた。燃えるような夕焼けが庭園を赤く染めている。
あの空を見ると、あのときの光景を思い出す。兄と歩いた、イナギ村のあぜ道の景色を。
幼いころ、村の子どもたちにいじめられ泣いていたあの日。ギイチはジンをおぶさり家路についた。夕焼け空は田畑の稲穂を、遠くに見える茅葺き屋根の家々やそびえ立つ山々を、真っ赤に染め上げていた。
残酷な現実に反し、ひどく美しいその景色の中で、ギイチは背中におぶさる弟に向けて優しい声色で語った。
『お前は胸を張って外に出ていいんだ。間違っているのは村の連中だよ。俺はお前の味方だからな』
自分ではどうすることもできない理不尽な理由で虐げられ、幼いジンは悔しさに涙した。けれど、誰よりも頼りになる味方が自分にはいるのだと実感すると、次第に安心して眠ってしまった。
あの大きな背中の温もりをジンは片時も忘れたことはない。
父も母も、本当は自分を疎ましく思っていることを知っていた。けれども、ギイチだけは別だった。うそ偽りなく、自分のことを大切に思ってくれていた。家族の温もりを教えてくれたのは、両親ではなく兄だった。
兄は、“幸福”の手本を心の奥深くに確かに根づかせてくれた人だった。この厳しい世の中で生きていくための勇気と自信を授けてくれたのも、タキを愛しいと思えることでさえも、すべては兄のおかげなのだ。あのとき、唯一兄だけが自分に愛を示してくれたからこそ、今の自分がある。
家族を失い、誰もいない家でひとり泣いていたあのとき、思い出したのは兄と過ごした思い出だ。あの温もりがなければ、きっとジンは自分を見捨ててしまっていただろう。あの絶望からもう一度立ち上がることもなかったに違いない。
自分がどれだけお荷物で嫌われ者でも、この世にはたったひとり、味方がいた。その事実を思い出すだけで、どんな辛いことだって耐えられた。
こうして今まで生きてこられたのは兄のおかげだ。そう言い切れるほどに、ギイチという存在はジンの心の最も深い部分に根ざしていた。
あの男――スニルがギイチを殺したという証拠はない。今更それを証明する手立ても存在しない。あるのはただ、確信めいた直感だけだ。
「あいつが元凶だ。僕の人生を狂わせたのはあいつなんだ。あの男のせいで、僕の家族は滅茶苦茶になった。兄さんが生きていたら、今も家族四人で暮らしていたかもしれない。そういう未来もあったはずだ。……あいつが、僕から家族を奪ったんだ。ぜんぶ、ぜんぶ、あいつのせいで……」
そしてなにより、あの男が犯した悪行はそれだけではない。
スニルは兄だけでなく、兄の婚約者までを襲い、殺した。
ギイチの婚約者――イナは、ジンに優しくしてくれたはじめての異性だった。周囲の意見にも決して流されず、鼻つまみ者だったジンにも良くしてくれた心優しい女性だった。決して兄には明かすことはなかったが、イナはジンにとって初恋の相手だった。
そんな彼女がどれほどひどい目にあったのか、まだ少年だったジンにはただ漠然と怖い目にあったのだということしかわからなかったが、大人になった今ではそれがどんなに汚らわしくおぞましい行いなのかがわかる。
あの男は、彼女の生命だけでなく“心”までも殺したのだ。
「あれは人間じゃない。獣だよ。こうして同じ街にいるという事実だけでも許しがたいことだ。もしも君があいつに狙われたと思うと気が気じゃない」
「わたしはあの男に捕まるようなへまはしません」
「わからないじゃないか。全盛期のリウ・イェンですら敵わなかった相手なんだぞ」
タキは考え込むようにうつむき黙り込んでから、やがて顔を上げた。
「母にすべて話しましょう。あの男のことは母が一番よく知っています」
ジンはうなずいて同意した。そうすることが今の最善手だと思った。




