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隻鬼の杖 〜持たざる者は頂を目指す〜  作者: ふじぬま


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第23話:幸福のひととき

 そろそろ祭りはお開きという空気が街には漂っている。通りに並ぶ飯屋はどれも人で一杯で、陽気に酒を飲む街人やこの日のために異国からやってきたのであろう旅行者たちで溢れている。


 大通りの人通りは多かったが、昼ごろよりは大分ましになっている。道の中央では男たちが楽器をかき鳴らし、その周りで通りがかった酔っ払いたちが陽気に踊っている。その中には行進に参加していたであろう薄い衣をまとった煽情的な格好の舞い手たちの姿も見える。


 道の端には小ぶりな陶器がずらりと並べられていた。その素焼きの浅鉢には、山羊や牛のバターから抽出した黄金色の油が満たされ、綿の芯に火が灯されている。通りの端から端まで並ぶその光は、まるで光の道のように連なっていた。

 光の祭典として知られるアガマ祭の今日、夕方から夜にかけて街の至る所には油灯が置かれ、その灯りが町を明るく照らし闇を払うとされている。

 しかし、そんな幻想的な光景に眼もくれず、ジンは立ち襟の長衣をまとった女の手を引いて道を急いでいた。


 通りをしばらく歩き、途中、小道に入る。

 石造りの家屋が立ち並ぶ閑静な住宅街を石塀に沿ってしばらく進む。やがて、その中でひときわ目を引く、瓦屋根の民家の前で立ち止まる。懐かしのタキの家だ。


 踏み石を踏み、庇の下の玄関前へ進む。掛け金の錠前を家主に外してもらい、板戸を引き開けて家主より先に中に入る。

 タキは中に入らず、玄関の前で緊張した様子で突っ立っていた。

 道中一言も喋らなかったジンは、なおも無言のままタキの手を引いて家に上がり、薄暗い廊下を進んだ。


 居間に着くと、ジンはタキに向き直った。しっかりと手をつないだまま、その目を見つめ続ける。

 タキは「うっ」と声を漏らし、視線をあちこちへと泳がせた。

 ジンの顔を見てすぐに逸らし、くせ毛の髪や日焼けした首元、繋がれたままの手を見て、最後に寝室に繋がるふすまへと目を向ける。

 ジンが一歩踏み出し体を寄せると、彼女はうつむいた。

 長いまつ毛が伏せられ、普段は凛として伸びている背筋も今はわずかに縮こまっている。


「可愛いな」


 ぼそりとつぶやくと、細い肩が小さく跳ねた。


「あ、あの! まだ飲み足りなくないですか?」


 ジンは至近距離で相手の顔を食い入るように見つめながらしばらく黙り込み、やがて答えた。


「いや、別に」

「わ、わたしはまだ飲み足りません」


 そう言ってつないだ手を振り払い、右手にある台所へ向かっていく。逃げていく彼女の後ろ姿を見ていたジンは、遅れて後を追う。


 台所は土間になっている。奥には食材を調理するための板場が据えられ、その脇の棚には調味料や味噌壺が整然と並んでいる。

 タキはそこから徳利をひとつ取り出してこちらへ見せた。


「この前、サバルから土産を貰ったんです。スイの有名な酒らしくて。ほら、これです」

「……サバルに?」

「ええ。わたしだけで楽しむつもりでしたが、せっかくなのであなたも一緒に――」


 ジンは素足のまま土間へ降り、タキの手にした徳利を掴んで棚へ戻させた。


「え?」


 ぐいと顔を近づける。


「そんなもの飲むなよ」

「な、なぜですか」


 心底わからない、といった表情を浮かべる彼女にジンは苛立ちを覚え、不意を打つように口づけをした。タキは驚いたように目を見開き、身体を強張らせて小さく声を漏らした。ジンは顔の横に手を添えて、その声すらも呑みこむようにきつく口づけをした。

 長い口づけのあと、息継ぎのため一度顔を離し、互いの呼気を交換するかのようにお互いの顔に息をかけあう。どちらのそれも酒の匂いを含んでいる。こうしているだけで酔いが深まりそうだった。


 熱を帯びたような彼女の視線はしばらくジンの口元をとらえていたが、そのうちに上へ上へと上っていき、また視線がぶつかった。大胆にも、今度は向こうの側から行動を起こしてきた。

 不慣れで控えめな口づけだった。導くように舌を動かし、唇を唇で挟み込む。


 しばらく体を密着させていると、胸板につぶれる彼女の胸のやわらかな感触と甘い体臭にたまらなくなってきて、ジンは彼女の手を引いて台所を出た。居間を横断し、ふすまを開けて寝室へ。

 部屋に入るなり、どちらからともなく唇を重ねた。頭はすっかり熱に浮かされていた。口を休ませないまま、寝室の床に積まれていた本を蹴散らすように寝台へ進み、彼女を押し倒す。

 ふたりの間に言葉はなく、息遣いだけが部屋に響いていた。



       ※



 翌朝、目覚めると隣にタキはいなかった。

 脱ぎ散らかしていた服を着てふすまを開けると、居間にはタキがいた。彼女はちょうど戸口から出ようとしているところだった。その背に向かって声をかける。


「おはよう」

「……おはよう、ございます」


 タキはゆっくりと振り返り、ぎこちない声で応じた。

 すでにいつもの道着姿に着替えた彼女は、革製の肩掛け鞄を斜め掛けし、手には杖を携えている。仕事に出るときのいつもの格好だ。


「もう出るのか?」

「ええ、まあ……」


 こちらを見るのが気恥ずかしいのか、彼女は目を合わせようとしない。かろうじて無表情は貫いているが、そっぽを向いて前髪をいじっている。

 その仕草は普段の凛としている彼女からは想像もつかないものだった。

 世の男からのお誘いを腐るほど受けているであろう彼女が、自分にだけはこの姿を見せている。そう考えると優越感を抱かずにはいられない。


「いってらっしゃい。気をつけて」

「……いってきます」


 タキは素っ気なくそう言って戸口のほうに向き直る。

 そのまま歩き出すのかと思いきや、タキはその場に立ち尽くしていた。

 中々動き出さないので、不審に思ったジンが「タキ?」と声をかけると、顔を背けたまま彼女は尋ねた。


「今夜も、会えますか?」


 何気なく言ったように装っていたが、彼女なりに勇気を出したのだということがジンにはわかった。

 思わず口角を上げ、「もちろん」と返す。

 タキは若干の間ののち、


「それでは、また夜に」


 そう言い残し、家を後にした。


 広い家はしんと静まり返る。外では鳥がさえずっていた。

 ひとり残されたジンは、夜までどう時間を潰そうか悩んだ。屋敷に戻るつもりにはなれなかった。昨晩の余韻にもう少しひとりで浸っていたかったのだ。とはいえ、この家でやれることも多くはない。


 結局、いつもどおりに過ごすことに決めた。タキが作った朝食を食べ、少し休憩をしてから日課の鍛錬を始める。

 懐かしの、草木一本生えていない殺風景な庭。物置から竹杖を持ってきてみたものの、まったく集中できなかった。昨晩見た光景が目に焼きついて離れない。

 ひんやりとした指先、流麗な曲線を描く白い四肢、きゅっと締まった腰、かすかに湿った唇の生温かさ。

 ……ダメだ。これでは鍛錬が身になりそうもない。


「今日は休むか」


 早々にそう判断し、寝室へ戻る。彼女が普段寝起きしている寝台で、彼女の残り香に包まれながら二度寝した。

 寝不足というわけでもなかったのに、驚くほどあっけなく眠りに落ちた。


 目覚めたのは昼頃である。夕方までまだ時間はたっぷり残っている。しかし、それまでどう過ごせばいいのか思いつかなかった。屋敷では鍛錬一筋の暮らしをしてきたせいで、ほかの時間の使い方を知らなかったのだ。


 とりあえず、ふと目に留まった縁側で春の日差しを浴びながら日向ぼっこをしてみる。

 が、すぐにそれも飽きてしまう。考えた末、せっかくなのでなにか恋人の役に立つことをしようと、家中の掃除をすることにした。

 まずは(すす)払いから始める。囲炉裏の煙で天井の壁や梁にこびりついた煤を竹竿の先に巻いた布で払い落としていく。もちろん、わざわざ自分の手で行うわけではない。杖で操って、である。ちなみに、自分の杖は屋敷に置いてきてしまったので、タキの寝室に置いてあった杖を勝手に拝借した。


 その次は、床に落とした煤を埃と一緒に掃除していく。ホウキ、ちりとり、雑巾。それらを杖で操り、家中の床という床から汚れを集め、庭の隅に穴を掘って埋める。最後に、囲炉裏にこんもりと積もった灰もホウキで集め、庭の穴に捨てた。


 この家に居候していたころは掃除も毎日の習慣だったため手慣れたものである。タキに小遣いを貰って家の手伝いをしていたアリンも、最近は術士になるための鍛錬に忙しいため久しく来ていないらしく、家にはそれなりに汚れが溜まっていた。

 掃除を終え、埃ひとつ落ちていない居間を満足げに眺めていると腹が鳴った。そういえば昼食がまだだった。


 有り合わせで遅めの昼食を作って食べると、そのあとは、寝台に横になりうたた寝したり、寝室に落ちていた小難しい学術書を読んで暇を潰した。

 そうして、タキが帰ってくるのを待ち続ける。

 不思議なことに、それを退屈な時間だとは思わなかった。ジンはそのとき初めて、恋人を待つ時間というものがかくも幸せなものだと知った。その反面、あとでしっぺ返しがくるんじゃないかと怖くなるほどだった。


 やがて夕方になり、タキが帰宅した。その日の夜もふたりだけの時間を過ごした。

 台所に一緒に立って夕食の準備をし、最近屋敷であったことなどを語らいながら食卓を囲み、夜は同じ寝床に就く。


 翌日はタキの仕事が休みだったので、丸一日一緒にいることになった。

 昼までぐっすりと眠り、目覚めるとふたりで買い出しに行き、不足していた薪や数日分の食材を買い込んだ。その日外出したのはその一度だけである。あとの時間はほとんど寝室に籠って過ごした。


 朝は仕事へ向かう恋人を見送り、夕方には仕事を終えた彼女を迎え、翌朝までふたりきりで過ごす。そんな日々が続いた。

 そして五日目の夕刻。ジンは一度屋敷に戻ることになった。そろそろこの自堕落な生活に終止符を打つべきだとタキが判断したのだ。


 本当はもっとここに居たかったのだが、彼女の意志は固く、その場に居座ろうとしても許してはくれなかった。恋人になったからといって自分に対する態度が軟化ということはないらしい。


「はあ」


 屋敷へ向かう途中、通りを並んで歩いていると、タキは大きなため息をついた。


「どうしたんだよ。離れ離れになるのが寂しいのか」

「違いますよ。自分に幻滅しているんです。……教え子とこんな関係になるだなんて」

「まだそんなこと言ってるのか。どうでもいいだろ。元がどんな関係だったか、なんて」


 彼女は祭りで着ていた服を風呂敷に畳んで小脇に抱えている。

 なんでもあれは借り物の服だったらしく、その返却のためにタキも屋敷に用があるのだった。


「そんなことより――」


 ジンはさりげなく彼女の手に自らの手を絡ませた。


「次はいつ会えるのか教えてくれよ」


 タキは一時ジンの顔を見つめていたが、はっと我に返ったような顔をしてその手を振りほどいた。


「気が向いたときに会いに行きますよ」

「ふうん。気が向いたとき、ね」


 なんて言って、またすぐに会いに来るんだろう。隣の恋人を観察していると、彼女はじろりと目を細める。


「なんですか」

「いや、別に」


 鼻を鳴らし、タキはそっぽを向く。

 ふたりの間に沈黙が流れた。気まずさを伴わない、心地よい静けさだった。


 ここ数日は夢のような日々だった。これ以上ないほど、満ち足りた時間だった。

 僧院にいたころ、師僧の講義を受けながらよく夢想にふけった。もしも自分に無二の親友ができたなら、思いの通じ合う恋人ができたなら。そんな想像の世界に浸っていたものだ。

 あのとき思い描いていたものをジンは手に入れた。心では望みつつも、自分には一生縁のないと思っていたものを手に入れたのだ。


 しかし、現実は想像をはるかに超えていた。本物の人肌は驚くほど温かく、心臓の鼓動は聞いているだけで不思議と心が安らいだ。ただ触れあっているだけで、これまで抱えてきた孤独がゆっくりと溶けていくようだった。


 隣の彼女を見つめて、ふと思う。こんな時間がいつまでも続けばいいのに、と。

 屋敷に戻れば、また日常に戻ってしまう。名残惜しい、と思った。


 やがて、目的地にたどり着く。

 高い塀に囲まれた、郊外の邸宅。正面には無骨な鉄門が構えており、その隙間からかすかに春の庭園が覗いている。


 鉄門の前まで近づくと、こちらに気づいた門衛が声をかける前に仕事を始めた。

 ふたりはその場に立ち止まり、門が開くのを待った。

 かんぬきが外され、ぴたりと閉じられた門扉がゆっくりと押し開かれていく。金属が軋み、耳障りな音が響き渡る。最後に、ガシャンと大きな音を立てて、門が完全に開き切る。


 そうして歩き出そうとした――そのときだった。ジンは、ふと視線を感じて横を向いた。


 屋敷を守る漆喰仕上げの塀が、途切れることなく道の先まで続いている。その道の端、道沿いの木々の陰に隠れるように、怪しげな男が立っていた。

 男は、じっとこちらを見つめていた。


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