第21話:お誘い
翌日。ひととおりの家事を終えた屋敷は、午後の陽に包まれ、静まり返っていた。タキは廊下を進み、子どもたちの住居である北棟へと足を運んだ。
「ジュエン姉さん。今、いいですか?」
子ども部屋の扉をそっと押し開けると、薄暗い部屋の奥からかすかな寝息が漏れ出した。タキは中の様子をうかがいながら問いかけた。
一面に絨毯が敷かれた広間。窓辺には陽だまりの中にふかふかの敷布が広げられ、その上で子どもたちが寝息を立てている。ジュエンもまたその中心でまどろんでいたが、タキの声に気がつくと、まぶたを上げゆっくりと身を起こした。
「ん、んん……あれ、タキ?」
「すみません、起こしてしまって」
タキは後ろ手で扉を閉め、小さく声を潜めて謝る。前掛け姿のジュエンは手をひらひらと振ってみせた。
「いいっていいって。それで、どうかしたの?」
「明日の祭りに行くための服を貸してほしいのです」
「へ? あんた祭りには行かないって言ってなかったっけ?」
「気が変わりました」
「ふぅん。ハリシャに負けたくないわけね?」
ジュエンはにやにやと笑い、妹の顔を覗き込む。
タキはしばし黙り込んでから、絞り出すように答えた。
「ありていに言えばそうです」
「ふふ、わかった。協力してあげるわ」
ジュエンは敷布の上から腰を上げ、こわばった肩をほぐすように腕を大きく回しながら伸びをした。そして気怠げに子ども部屋を出ると、タキと並んで廊下を歩き始める。
「でも、あんたが着れる服なんてあったかしら。あたしの服はあんたには小さすぎて着れないだろうし……。そうだ、衣装部屋にスアンが嫁入り前に置いていった服があるはずよ。あれならぴったりのはず」
ほどなくして、北棟三階、衣装部屋。
「――やっぱりね。スアンと同じであんたもすらっとしてるからちょうどよさそうだわ」
大ぶりな姿見の前に立つタキの隣で、ジュエンは鏡に映った妹の姿を満足そうに眺めていた。
ふんだんに絹が使われた真っ白な立ち襟の長衣。下衣も同じく絹で仕立てられている。しわひとつなく滑らかなその布地は、長く丁寧に保管されてきたことを物語っていた。
防虫香の香りが漂う、整然とした部屋。ふたりの周囲には木製の衣装棚がいくつも並び、引き出しのひとつひとつにはリウ家の女たちの晴れ着が丁寧に折りたたまれて保管されていた。
「でも、いいんでしょうか。スアン姉さんの服をわたしが無断で着るなんて」
タキは姿見で自分の姿を確かめながら、隣に映るジュエンに問いかけた。鏡越しに見ると、小柄なジュエンの背丈はタキの肩あたりに収まっている。
「まあ、いいんじゃない? あの子、嫁に行ってからずっと実家に帰って来ないし。子ども産んで、しばらく着れないだろうしね」
ジュエンはあっけらかんと答え、自分の妹の肩に手を置いた。
「それ、彼に見せるんでしょ?」
しばし間をおいてから、タキはこくりとうなずいて同意した。そして、鏡の前で視線を落とす。
「なあに、不安なの? 大丈夫、あんた綺麗だよ」
「いえ、それは重々承知しています」
そう言ったタキは真顔だ。
「あっ、そう。あんたってホント、呆れるくらい自信家よね……」
「そうではなくて、なんというか」
「なによ?」
「その……わたしは、自分の思っていることが素直に伝えられないというか……それで困っていて……」
口ごもりながら、タキはぼそりぼそりと胸の内を明かした。
ジュエンはぱちくりと目を瞬かせると、ぷっと吹き出した。
「あっはっはっは!」
「わ、笑わないでください」
「まさか、あのタキの口からそんな普通の女みたいな台詞が聞けるなんてね」
ジュエンは笑いながら、目元の涙を拭った。
「失礼な。なんですか、それ」
「いや、あたしあんたのこと、妹ってよりは弟みたいに思ってたからさ。あのサバルに何度も挑んで、その度にぼろぼろになって……そんな姿を小さいころから見ていたら、そう思うのも無理ないでしょ?」
なんの弁解にもなってない、と言いたげにむっと唇を結んだままのタキを前に、ジュエンは「ごめんごめん」と謝ってから、ひとつ胸を張る。
「いいわ。お姉さんのありがたい助言を聞きなさい」
「……お願いします」
「あんたはさ、いつも負けたくないって思ってるでしょ。人と話をしてるときも、なにをするにしてもさ。みっともない自分を見られたら“負け”だと思ってる。どんなときも自分が有利でいないと気が済まなくて、弱みなんて見せられない。だから素直になれないのよね」
タキは驚いた表情で、姉の顔をまじまじと見下ろした。
「なぜそこまでわかるんですか?」
「ふふ、何年あんたの姉やってると思ってるのよ。お姉さんにはお見通しなのよ」
ジュエンは笑みを消し、真剣な表情で続けた。
「自分をさらけ出してみても、別に死にはしないわよ。たまにはあんたも負けてみなさい」
「そんなこと、できません」
「できるわよ。あのサバルに立ち向かえる女にできないことなんてないわ」
「……そうでしょうか」
タキが問い返すと、ジュエンは妹の肩をぽんと叩いた。
「そうよ、あたしが保証する。安心してぶつかってきな」
薄い胸を張ってそう言った姉の姿をタキはとび色の瞳でじっと見つめると、考え込むようにうつむき、「わかりました」と小さく答えた。
やがて試着を終えたタキは、いつもの黒い道着姿に戻ってからジュエンに小さく頭を下げた。
「姉さん、ありがとうございます。今度なにか買って贈ります」
「こんなことくらいどうってことないわよ。それより、あんたって人に頼ること少ないからさ。姉ちゃん、頼られてうれしかったよ」
そう言ってジュエンは妹の体をぎゅっと抱きしめた。
少し遅れて、タキは困惑したような表情を浮かべつつ、姉の小柄な体を控えめに抱き返す。
窓の外で、春風が庭園の草花を静かに揺らしている。遠くからは修練場で鍛錬に励む男たちの声がかすかに聞こえていた。
「いいですね。たまにはこういうのも」
「ふふ、そうね。こんなの何年振りかしらね」
ふたりの笑い声は緩やかに廊下に響き、静寂に包まれた屋敷へと溶け込んでいった。
※
昼時の大広間は、今日も人で賑わっていた。昼食を食べに母屋にやってきたジンは、長机のひとつに腰を下ろしてから、いつもに比べて大広間が騒がしいことに気がついた。
なにかあったのか、と斜向かいに座っていた坊主頭の男――カシンに尋ねてみると、彼は興味がなさそうにカブのスープを匙で掬いながら、「今日はアガマ祭だろ。だから女どもが色めきだってんだよ」と話した。
それを聞き、ジンは「ああ、もうそんな季節か」と納得する。
遠い遠い昔、五柱の神々はこの世界を創造した。その最初の日――『原初の日』を祝い、一の月のはじまりには盛大な祭りが行われる。それがアガマ祭なのだった。
昼食を終えたころには、アガマ祭に行くためにリウ家の女たちが綺麗に着飾って大広間に集まりだしていた。
しかしジンもまた、カシンと同様に祭りになど興味がなかった。そういった騒がしい行事は性に合わなかったし、人が大勢集まるような場所も苦手だった。今までだってそういったことには縁遠い生き方を送ってきた。
午後も変わらずに修練場で汗を流そう――そう考えながら食べ終えた食器を運ぼうと腰を上げかけたとき。
「ジンくん」
自分の名が呼ばれ声がしたほうに首を巡らせると、美しく着飾った眼帯の少女がそばに立っていた。
「どう? 似合ってる?」
ハリシャは小首を傾げて尋ねてきた。
彼女は一枚の赤い布を全身に巻き、残った布端を上半身にかけて左肩から優雅に流している。布には金糸の刺繍と縁取りが施され、大広間に差し込む日差しを受けてきらきらと輝いている。華やかなその服は快活で愛らしい少女によく似合っていた。
「いいじゃねえか。似合ってるぞ」
訊かれたのはジンだったが、先にカシンがでれでれとした顔で感想を述べた。
「うん。似合ってる」
ジンも同意すると、ハリシャは花が咲いたような笑顔を見せた。
「ほんとに? ありがとう、ふたりとも」
ハリシャはジンとの距離を一歩詰め、恥じらうような表情を見せた。
「それで、ジンくん。これからさ、あたしと一緒にお祭りに――」
と、ハリシャが言いかけたときだった。
大広間の両開き扉が静かに開き、そこに長身の女が現れた。その女は入口近くに座ったジンの姿を見つけると、たおやかな足取りで近づいてきた。
ジンの視線は一瞬にしてその女に奪われる。
「タキ」
彼女は髪を細ひもで結び、肩からゆるやかに流していた。唇には紅を引き、目元にもまたうっすらと紅を差している。そして着ているのはいつもの道着ではない。
薄手の絹で仕立てられた立て襟の長衣に、ゆったりとした下衣を合わせている。上下ともに柄も装飾もない、真っ白な出で立ち。上衣の両脇には腰のあたりまで深い切り込みが入っており、歩くと裾が大きく揺れ動いている。上品な光沢を湛えたその衣はほどよく体に沿い、身体の線をうっすらと浮かび上がらせていた。
その衣は、上背のある彼女の長い手足を引き立て、まるで彼女のために仕立てられたかのようによく似合っている。ジンはカラジュ国の伝統衣装にこのような服があったことを頭の隅で思い出していた。
「ほーん。ま、見た目だけはいいよな。見た目だけは」
カシンがからかうように言うと、タキは冷ややかに光る瞳を動かした。すると彼は、「やべっ」と焦ったようにどこかへと退散していった。
去っていく兄の後ろ姿をにらむように一瞥し、タキはジンのほうへ視線を向けた。とび色の目がなにかを要求するようにこちらを見つめている。
ジンは、年中色気もへったくれもない道着を着ている普段の彼女からは考えられないような変わりざまに、困惑してしまっていた。感想を述べずに黙っていると、みるみるうちに不機嫌そうな顔になっていくのを見て、慌てて口を開いた。
「綺麗だよ、タキ。本当に綺麗だ」
「……あなたに言われずとも自覚していますが」
「なんだよそれ。素直に『ありがとう』って言えないのか?」
返ってきた言葉に呆れていると、タキはいま来たばかりだというのに、踵を返して元来た方向に歩き出してしまった。
「あー、くそ……」
ジンは頭を掻いてぼやいた。きっとすぐに感想を言わなかったのがダメだったのだろう。失敗した。もしかしたら傷つけてしまったのかもしれない。あいつ、本当に面倒くさい女だ。
仕方ない、追いかけようと椅子から腰を上げる。
「えっ、ちょっと待ってよ、ジンくん! まだ話の途中なのに!」
むくれ顔のハリシャに「ごめん」と一言謝ってからタキを追いかける。
広間を出て、その先の玄関を出る。母屋の前でタキは立ち止まり、ようやく追いついた。
庭園を眺めるタキに後ろから声をかけようとしたとき、彼女は前を向いたまま、不意に言葉を発した。
「今日はアガマ祭だそうですね」
「え? うん」
「ですから、仕事は休みです」
「ああ。君がここにいるんだからそうなんだろうな」
「わたしは暇です。とても暇です」
「うん。……それで?」
なぜか、そこで振り向いてじろっとにらまれる。
「行きますか」
「行くって、どこに?」
「街にです」
そこでようやく、なにを言いたいのか理解した。つまり彼女はこう言っていた。祭りに一緒に行かないか、と。
なんでこう素直じゃないんだとジンは思ったが、口に出したらまた気を損ねそうなので、単にうなずくだけに留めておいた。




