第17話:一年後
春陽が降り注ぐ郊外の丘。その頂に重厚な石造りの屋敷が構えている。屋敷を囲む庭園では、刈りこまれた芝が風にそよぎ、緑の海のように波打っている。その波間の真っ只中に、男がひとり、あぐらをかいて座り込んでいた。
男は風に乗って飛んできた落ち葉の破片をくせ毛の黒髪のあちこちにくっつけながら目をつむっている。身につけているのは紺の着物。右袖はひもで縛られており、風が吹くとそれにつられてぷらぷらと左右に揺れていた。男の肌はこんがりと日に焼け、しなやかな筋肉で覆われた身体には所々に細かな傷が刻まれ、それが男の経験した今までの戦いの苛烈さを物語っていた。
左腕には、一本の杖が握られている。黒褐色と淡い金色の混ざりあった縞模様。その鮮やかな木目の杖は鉄刀木で作られている。重厚かつ頑丈、腐食に強い、三大銘木のひとつとされる高級素材である。銀貨どころか、金貨を何十枚積んでも足りないほどの代物だ。
杖の全体は丁寧にやすりで磨かれ、塗布された油によって表面は光沢を帯びている。側面には誇りとともに刻まれた作者の銘。杖頭にはあるのは細かな彫り物で、吉兆の象徴である鳳凰を意匠に取り上げた紋章――リウ家の家紋が刻み込まれていた。
その男――ジンは、草木のざわめきの中に溶け込ませていた意識を現実へと引き戻し、ぱちりと目を開けた。
「来ないか……」
前方の鉄門に目を向けて落胆する。屋敷に出勤してくる使用人たちと食材を下ろしにやってくる業者を除くと、今日も訪問者はやってこない。門扉はぴたりと閉じられ、この先もそれが開かれる気配はなさそうだ。
ジンは“彼女”を待つことを諦めて立ち上がった。庭を横断し、母屋の周辺にいるであろう人物を探すことにする。
件の人物は中庭で見つかった。長袍を着た盲目の老婆。遠く離れた庭園から歩いてきたジンの気配を超人的な第六感で察知したリウ・イェンは、目元を覆った白布の下で露骨に嫌そうな顔をした。
ジンが近づいて話しかけるまで、イェンは彼に気がついていないふりをして自身にまとわりつく子どもたちの相手をしていた。
「イェンさま、今よろしいですか」
「見てのとおり忙しいので明日にしてくれますか」
「それ、昨日も聞きましたよ」
「……」
「ねえねえ、お母ちゃん、これ見て」
「あぁ、はいはい。なんですか?」
イェンはジンの声を聞こえていないふりをして子どもの相手を継続する。地面に描いた絵を見てとせがむ子どもの要望に答え、しゃがみこんで子どもの話に耳を傾けている。
気にせずジンはもう一度話しかける。
「僕と手合わせしていただけませんか」
イェンはぴくりと耳を動かし、顔を上げた。
「今日もですか、ジン。この前相手をしてあげたでしょう」
「一度だけでは足りません。負けたままでは嫌なんです」
「図々しい。私に勝つまでそうやって頼みにくるつもりですか?」
「はい」
即答すると、イェンは深いため息をついた。
「手合わせしていただきませんか」
「……」
「どうしたら僕と手合わせしていただけますか」
「あなたが毎日毎日私をつけ回し、一言一句同じことを言い続けて頼み込みに来なくなれば、です」
「……あの、もしかして怒ってます?」
「ええ、あなたにはうんざりしています。で、なぜあなたは嬉しそうなのですか」
「いえ、心静術を極めたあの『至高の術士』も人間なんだなぁ、と」
イェンは天を仰いだ。近くの子どもたちも母の真似をして空を仰ぐ。
「タキは、あなたの飼い主はいったいどこにいったのです! なぜあの娘はこの狂人を野放しにしているのですか? 母を殺す気ですか!?」
「彼女にはずっと避けられていまして。ほったらかしにされているんです」
ジンが屋敷に来てから一年あまり。最近ではタキと顔を合わせる機会がめっきり減ってしまった。
タキは今、自分の家で暮らしている。何日かおきに屋敷には顔を出すが、毎日会えることはない。弟子が自分の手を離れたのでひとりの時間を満喫でもしているのか、以前のように指導を受ける機会はなくなって久しい。
「どうせあなたに愛想が尽きたのでしょう。理術、理術とやかましいから。人殺しの術に入れ込むなど、ばかばかしいですよ」
「でも、イェンさまの若いころは僕なんかよりずっと理術に傾倒していたと聞きましたよ」
「口の減らない男ですね。そもそもあなたと私では生きている時代が違うでしょう。泰平の世には理術など無用な力です」
イェンは、「ともかく」と続けた。
「そうやって頼み込みにくるのはもうやめなさい。迷惑です」
「はあ、すみません」
頭を掻いて謝るが、内心はまったく悪いと思っていないジンだった。
イェンは盲目でありながら、今も凄まじい練度を誇る術士である。タキ以上に精確な防御の技術に、サバルにも迫るほどの攻めの鋭さを兼ね備えていた。前に一度手合わせしたときはそれなりにいい勝負にはなったものの敗れてしまった。
このまま負けっぱなしではいられない。明日もまた必ず来ようと心に誓う。
イェンは子どもたちを引き連れて、その場から離れていった。
「ふぅ……」
残されたジンはこれからどうしようかと考えた。と、そのとき。
「おーい、ジンくん」
自分を呼ぶ声がしてそちらを見ると、可憐な少女がこちらに向かって歩いてきていた。
「こんなところにいたんだ。探したんだよ?」
茶髪を肩口で切りそろえた、黒目がちな少女。その顔に乗った部品はどれも小ぶりで形が整っていたが、ただ一点だけ調和を乱す要素があった。彼女の左目、そこには白布が巻かれている。
「ハリシャ」
眼帯の少女――ハリシャは名前を呼ばれて嬉しそうにはにかむと、ジンの髪にくっついた塵に気がついて、ぱっぱと手で払った。
「ん、ありがとう」
「どういたしまして。……それで、ジンくん、ちょっといい? 手伝ってほしいんだけど」
ハリシャがそう言ってから、ジンは彼女の足元に引っついている存在に気がついた。
「夕食に使う食材の調理、手伝ってほしいんだってさ」
「だってさ」
「手伝って」
子どもたちが次々に言い、ジンは上を向いて少し考えた。タキが屋敷に来ないのであれば今日は特にやることもない。居候らしく、家のことを手伝うべきだろう。
ジンはうなずいた。
「うん、構わないよ」
「ほんと? ありがとっ」
ハリシャが可愛らしく笑って両手を合わせる。花柄の刺繍が入った白い布地の腰巻が動きに合わせて揺れる。片方の目が眼帯によって隠れてしまっていても、彼女の魅力は少しも損なわれていなかった。
ハリシャはリウ家で唯一の『痣持ち』である。幼いころ、《腐痣病》によって左目が腐り落ち、その後両親に捨てられたハリシャはイェンによって拾われ、この家にやってきたそうだ。
会ったばかりの人間に粗雑に扱われる経験ばかりしてきたジンだったが、この家ではそんな扱いを受けたことがない。リウ家の人間が『痣持ち』である自分に偏見を抱かず接してくれるのは、ハリシャがこの家で育ったからであり、ある意味で彼女のおかげでもあるのだった。
ジンは眼の前の隻眼の少女の眩しい笑顔をぼんやりと眺めた――どこかの誰かさんならこんな笑い方と仕草はたとえ死んでもしないだろう。そんなことを考えていると、子どもに着物の袖を引かれた。
「はやくはやく」
せっつかれ、はいはいと言いながら厨房に向かって歩き出した。
母屋の一階、大広間の奥にある厨房室に入ると、そこには市場から仕入れた大量の食材が調理台の上にでんと置かれていた。
四棟の屋敷に住まうリウ家の人間は大人と子どもを含めて約百二十名。さらに、独立して別に住んでいる子どもたちも、夕餉を目当てに毎日十人ほどが顔を出す。
それでもなおリウ家の兄弟すべてが揃っているわけではないというのだから、その規模の途方もなさが窺える。加えて、屋敷には大勢の使用人が住み込みで働いているので、食事の支度ひとつとっても、まるで城の饗宴のような騒ぎになるのだった。
ジンは調理台の前に立ち、棚に向かって杖を振り、次に食材の山に向かってもう一度杖を振った。理力が戸棚を開き、中から十本の包丁を引っ掴み、調理台へ向かって滑るように飛んでいく。
一方の食材の山のほうもひとりでに宙に浮かび上がった。飛んできた十本の包丁は、各々手際よくカブの茎を切り落とし、皮を丁寧に剥き、その白い根をくし形切りにしていった。
切り終えたものは元あった鉢の中と大皿の上に戻し、次々に作業を進めていく。カブの次は玉葱、鶏肉と順番に切り分けていく。
そうこうするうちに食材をすべて切り終える。作業はさほど時間がかからずに終わった。
「いやあ、相変わらず惚れ惚れするような手際だねぇ」
気がつけば、前掛け姿の若い女が隣に立っていた。彼女はジンの肩をばしっと強めに叩いた。
ひっつめ髪の小柄な女――リウ家の長女、ジュエンだ。毎日の食事の用意と子どもたちの世話を主に担当している彼女は、リウ家ではイェンに次ぐ力を持っている肝っ玉母さんである。
「流石タキの弟子だね。よっ、いずれサバルを超える男!」
「どうも。でも、そうやっておだてるのって自分が楽をしたいからですよね。わかってますよ、ジュエンさん」
「あっはっは! ばれた? 頼むよ、明日もお願い」
「勘弁してください」
大口を開けて豪快に笑うジュエンにそう言ってから、ジンはさっさと厨房を出ていこうとする。
「あ、待って、ジンくん」
そこでハリシャに引き止められた。
立ち止まると、彼女はさりげなく腕を抱き寄せ、「ねえ、ありがとね」と上目遣いで熱っぽい視線を送ってきた。
鼻腔をくすぐる甘い香りと、腕に押しつけられた豊満な胸の感触に、思わずジンは視線を泳がせた。
「あー……近いよ、ハリシャ」
「えへへ、ごめん」
彼女は恥ずかしそうにぱっと手と体を離した。
「また困ったらお願いね」
「う、うん」
なにか悪いことをしているような気分がしてジンは居心地が悪くなり、逃げるようにその場から立ち去った。
厨房を出ると、大広間で偶然アリンと会い、成り行きで彼の手伝いもすることになった。屋敷の裏手にある修練場のさらに奥には、畑と家畜小屋が存在する。
馬や豚、鶏の小屋を掃除して餌をやり、家畜の糞を肥小屋へ運ぶ。それが終わると畑に出て土をいじり、ついでに収穫したばかりの野菜を台車に載せて厨房に届けた。
「あら、今日も手伝い? 助かるわ」
「おい、ジン。お前もあとで修練場に来いよ。今日こそは負けねえぞ」
道すがら、ジンは様々なリウ家の人々と顔を合わせた。この家での暮らしにも慣れ、今ではほとんどの住人と面識がある。顔を知らないのは、すでに嫁いで家を離れた上の姉たちや、実家を出て国外で暮らしているという上の兄たちくらいである。
「それにしても、ずいぶんみんなと仲良くなったよね。ここに来たばかりのころなんてぼくしか話し相手がいなかったのに」
畑と厨房を往復する途中、隣のアリンが台車を引きながら言った。
「君には感謝してるよ」
若干の恥ずかしさを覚えつつジンは同意して、屋敷で生活を始めたばかりのころを思い返した。
タキの家を出て、リウ家の屋敷に居候することになったジンには立派な客間が与えられた。
大人ふたりが悠々と寝転べそうな大きな寝台、染みひとつない清潔な寝具、見るからに高級そうな家具の数々。タキの弟子というだけでまだ何者でもない自分がこんな待遇を受けてよいのだろうかと思ってしまうほど、屋敷での生活は快適なものだった。
朝起きて修練場へ赴き、リウ家の者たちと汗を流してから大広間で朝食を摂り、そのあとも修練場で鍛錬に励む。
そのようにして、タキの家にいたころよりもさらに鍛錬漬けの毎日を過ごすジンだったが、屋敷で生活を送るにあたって大きな問題に直面していた。
この家に中々馴染めなかったのだ。
それは、リウ家の人々の心が部外者に対して閉じていたから、というわけではない。問題はジンの心にあった。
今まで虐げられてきた人生を送ってきたジンにとって、他人は基本、敵だった。よく知らない人物には特に警戒し、心を開かない。他人に舐められないように振舞う癖がどうしても抜けず、笑い声を聞けば自分を笑っているのではと思ってしまう。その難儀な性格が周囲の人間と打ち解ける邪魔をしていたのだ。
その点、タキのときは例外だった。彼女はそもそも僧院での知り合いであり、なんの見返りもなく善意で自分を拾ってくれた相手だった。だから人となりを知っていたし、ある程度の信頼があったのだ。
一方で、タキの兄弟たちはまったくの初対面である。タキという共通の知人がいるだけの他人だ。その上、数が多く、名前も顔もなかなか覚えられない。
そういうわけで、ジンはリウ家に馴染むのに苦労した。頼りのタキとは別々に暮らすようになり、ジンは屋敷の中で孤立してしまった。食事時も机の端でひとりで摂っていたほどだった。
当時のジンは僧院にいたときを思い出し、あのころと比べれば、誰にも嫌がらせをされない分マシだと自分を慰めていたものだ。
そんなとき、助けてくれたのがアリンだった。彼は屋敷の住人たちをジンと引き合わせ、会話をする機会を設けてくれたのである。そのきっかけがあったからこそ、ジンはリウ家の人々の輪に入ることができたのだ。
「今だから言うけどさ」
アリンは言った。
「実はあれ、タキ姉に頼まれてやったんだよね。ジン兄ちゃんはきっとウチに馴染めないだろうからって言われてさ」
「なんだそれ。初耳だぞ」
「そりゃそうだよ、口止めされていたんだから。でも、もう一年も前のことだし、もういいかなって思って」
「うわ、うそだろ。陰でそんな世話まで焼かれてたのかよ」
大の大人が子どもに助けられただけでも十分恥ずかしいのに、それがすべてタキの差し金だったとは。まったく、恥の上塗りもいいところだ。
肩を落とすジンを見て、少年は鼻の下を擦り、屈託のない笑顔を浮かべた。
「へへ、なんだかんだ面倒見いいんだよね、タキ姉って」
アリンの手伝いを終え彼と別れると、次は修練場へ向かう。いつもどおり、そこにいた上半身裸で鍛錬をしていた男たちに混ざって汗を流す。
ジンが竹杖での鍛錬を終えたのは半年前のことである。今は木杖での鍛錬に移っている。神鹿の力を存分に蓄えたその杖から放たれる理術の恐ろしさは、僧院時代、いじめっ子の背骨を真っ二つにへし折ってしまったあの出来事がなによりも雄弁に物語っている。ゆえに近ごろは、息を殺すような集中の中で杖を振っている。
調子がいい。それが今の自分の正直な感想だった。視界が開けたような感覚がする。頭も冴えている。自分の中で改善すべき点が、もはや見当たらなくなってきた。鍛錬の成果は確かに現れている。肉体は理想形に近づき、動きにも迷いがない。
これまではひとつのことで手一杯だったが、今では複数の動作や思考を同時に処理できるようになった。判断のひとつひとつにも冴えがあるのを実感する。その日行われた手合わせでは、誰ひとりとして自分を倒すことはできなかった。




