第15話:理想の体現者
タキの提案で屋敷の裏手に設けられた修練場へ向かう途中、棟と棟の間に造られた長い回廊を渡りながら彼女はこんな話をした。
「わたしの母――イェンは長らく『至高の術士』と呼ばれてきました。しかしそれは聖骸戦争における戦果を考慮しての呼称です」
だから、なにもみんながみんな戦いあってイェンが最も優れているのだと証明されたわけではないのだとタキは言う。
「加えて母は高齢で、あのように盲目です。ゆえに本当の『至高の術士』は他にいる、というのがわたしの見解です」
「で、誰なんだ?」
「ひとりは、母を下した男です」
ジンはその男を知っていた。
「名はスニル。“死神”と称された男です。世間では彼はイェンを騙し討ちで倒した卑怯者と評されていますが、その実力は本物です。かつてはタモン老師のもとで母と並んで理術を修めたと聞きますから間違いないでしょう」
ジンはうなずき、話の続きを促した。
「そして、それに匹敵するであろう術士がもうひとり。これから会う男です。修業のために長らく旅に出ていたのですが、最近この家に戻ってきたようです」
回廊の果てにたどりつく。視界が開けて、タキの家にあるような均された土が一面に広がる修練場が現れる。その片隅に建てられた質素な板葺きの東屋に人影がぽつんと見える。
タキは人影に向かって歩を進め、東屋の前に辿り着くと、そこにいた人物に声をかけた。
「久しぶりですね、サバル」
屋根の下、地べたにあぐらをかいていたその男は、タキの声にぴくりと体を揺らし、静かに双眸を開いた。
「タキか」
地鳴りのような低い声。
その男――サバルが一言発しただけでジンは理解した。この男は術士として、いや、生物として格上なのだと。自分はおろかタキよりも格上なのだと。
年のころは三十ほどだろう。だが四十と聞かされても不思議ではないほどの貫禄がある。
精悍な顔つきの男だった。彫りが深い顔立ちで、毛虫のような太い眉の下にはぎょろりとした大きな目が並び、窪んだ目元には陰が差している。肩幅は驚くほど広く、双肩にはこぶのように膨れ上がった筋肉が乗っている。まとった黒い衣の合間から覗く胸板は分厚く、日差しを受けて黒光りしている。全身に虎を思わせるような悠然とした雰囲気をまとわせた偉丈夫だった。
「皆から聞いていますよ。ずいぶんと忙しそうですね」
「ああ。前の契約が終わって、こうして休みをとれたのも二月ぶりだ」
「それで休みの日も鍛錬ですか。相変わらずですね」
「ふん、まあな」
「次はどこに行くつもりなのですか」
「アキツだ。前から早く来いと催促をされていてな。ついでに帝都にいるスアンにも会ってくるつもりだ」
「スアン姉さんに?」
「ああ。前から手紙のやり取りをしていたんだが、最近はなぜか返事が返ってこないのが気になってな。嫁ぎ先でなにかあったのかもしれん」
「それは心配ですね。……それはそうと、アキツに行くのでしたらお土産を買ってきてくれませんか。アキツの帝都ではラクザンという名工の茶碗が有名だそうで、どうしても気になっていて」
「わかった。覚えていたら買って帰ろう」
ふたりは親し気に、ジンにはわからない会話を繰り広げている。会話に入れず、ジンはただ耳を傾けていたが、ふたりのやりとりを目にしているうちに、なぜだか、胸の内にもやもやとした感情が渦を巻いた。
「タキ、お前のほうこそ、最近どうしてるんだ」
「わたしはいつもどおりですよ。最近は――……あ」
と、そこでようやく、タキは弟子の存在を思い出したのか、隣のジンに目を向けた。サバルもそれにつられるように視線を移す。ジンは内心どきりとした。
「その男は?」
「わたしの教え子です。いい機会になると思って、あなたに会わせに来たのです」
「ほう」
サバルはゆらりと立ち上がると、屋根の下からのそりと出てきて、ジンのことを威圧的に見下ろした。縦にも横にも呆れるほどに大きい。ジンも背が低いというわけでもないのだが、並び立つとまるで大人と子どものようだった。
「ジン、紹介します。こちらがリウ家の長兄、サバルです」
「は、初めまして、ジンと申します」
そう言って頭を下げる。緊張に、顔が赤くなるのを感じた。
サバルの値踏みするような視線が、ジンの足元から頭の先までをゆっくりと這い上がる。その視線は最後に、ぶらぶらと垂れ下がった中身のない右袖へと向かい、サバルはふんと鼻で笑ってタキのほうを向いた。
「お前の教え子だと? これが?」
明らかに馬鹿にしたその言い方に、ジンは無言でサバルをにらみ上げた。向こうも視線に気がつき、視線が交わる。
こげ茶色の瞳はなんら感情を映していない。タキと同じ、高度な心静術によって心を殺した瞳。熟達した術士の証。
「ひとつ、彼にご指導願えますか?」
タキは横から頼み込んだ。
サバルは即答する。
「断る」
「そう言わずに、お願いします。可愛い妹の頼みですよ」
サバルは視線をジンから離さずに腕を組んで黙り込んだのち、
「手合わせだけだ。それぐらいならやってやる」
と唸るように言った。
ジンとサバルのふたりは修練場へ出た。
どちらもタキの用意した竹杖を携え、互いに距離を取り向かい合う。
サバルの構えは凡庸なものだった。修練場の乾いた土の上に素足で立ち、足を肩幅に開き、体の前で杖を緩く構えている。その立ち方と構えにはなんらおかしな点はない。しかし相対すると、異様な威圧感に圧倒された。
それは殺気とも違う“なにか”だった。おそらくサバルはなにも特別なことはしていない。ジンは、この威圧感の正体は“積み重ね”にあるのだと感じていた。幾度となく重ねられた研鑽、繰り返された試行錯誤、そしてそれを裏打ちする豊富な実戦経験。それらが一体となって磨かれた技能は、もはや意識せずとも威圧感となって全身から発せられている。
恐ろしい、とジンは思う。そんなことはタキにすら感じたことはなかった。気がつけば、自分が及び腰になっているのに気がついた。こんなことでは駄目だ。そう思って杖を構えてみても恐れは一向に消えず、身体は言うことを聞いてくれない。
修練場に一陣の風が吹き、木の葉を攫ってほうぼうへと散らした。それを合図とするように、ふたりからすこし離れた場所に立ったタキが凛とした声で開始の合図を告げる。
「始め」
ジンはまず、相手の殺気を読もうと試みた。が、相手から感じるのはひたすらに“無”だった。巧妙に殺気が隠されているのか、あるいは端からなにもする気がないのか。攻撃の気配はまったくといっていいほど感じない。
サバルは理力の操作すら行っておらず、心の目を通して視ても、ぼんやりと浮かび上がる人型が暗闇に立っているのみだった。
ならば、牽制で様子を見る。そう決断して、理力を杖に回した――そのとき。
視線の先でサバルがかすかに指先を動かした。
その直後、理力の塊が空気を裂き、唸りを上げて突進してきた。虚を突かれ、ジンは回避も防御もすることが敵わず、迫りくる理力にそのまま腹部を貫かれた。
景色が凄まじい速さで後方へ流れていく。ずりずりと背中と後頭部を地面に激しく擦りながら後ろに滑っていく。
ようやく勢いが止まり、呆然と上体を起こす。
あまりにあっけない幕切れだった。
遠くに見せるサバルはもうこちらを見てもいなかった。退屈そうに手にした杖を眺めている。
サバルの一振りはあまりに早すぎた。理力の操作を始めたのはジンのほうが先だった。にもかかわらず、速度で上回られた。
それだけではない。サバルは集めた理力の中から「柔」の理力を排し、速度に優れる「剛」の理力のみを杖に集めて打ち出していた。だからこそ、ジンは反応することすらできなかったのだ。
こんなやられ方はタキに弟子入りした当初にしたきりだ。鍛錬を積んだ今の自分はもうタキにこんな負け方はしなくなった。それなのに――。
世の中には、こんな奴がいるのか。今まで師こそが世界のすべてだったジンにとって、天地がひっくり返るような衝撃だった。
しばらくすると、タキとサバルが一緒になってこちらに向かってきた。
「それで、どうでしたか?」
タキが問う。
サバルは地べたに尻をつけたままのジンを蔑むような目で見下ろした。
「これに教えてどれくらいになる」
「住み込みで教えて半年です」
「それでこれか。話にならんな」
そして、サバルはこう続けた。
「見解を述べよう。見込みはない」
その一言は、氷の刃のようにジンの胸を貫き、息を奪った。
ジンが言葉を失っていると、サバルは興味を失ったように視線を外し、妹のほうを一瞥した。
「タキ、こんなことをしているからお前はいつまでたっても俺に勝てんのだ。つまらん男にかまうな。お前は自分のためにだけ時間を使え」
一方的にそう言い放つと、彼は元いた東屋へと歩き去っていった。
ジンは体の力が抜けてしまい、その場に大の字に寝転がった。
先ほどの一振りを思い出す。あのとき――サバルが杖を振る直前、爆発するように急速に膨れ上がった理力が、矢のようにまっすぐな軌跡を描いてサバルの身体を駆け抜けていったのを感じた。
すべてが洗練されきっていた。杖の一振りだけで途方もない実力差を理解らされた。果たして、自分はあそこまでの境地に到れるのだろうか。
……一生かけてもたどりつけない気がした。もしそうだとしたら、今までやってきたことは無駄だったとすら思えてくる。
誰からも侮られず、同情もされない。あの男はまさに自分の思い描く理想そのものだった。
やりあう前に勝てないと悟った。そんなことじゃ駄目だと思いつつも、心のどこかで、でも仕方がないじゃないかと思っている自分がいる。
足下の床が急に抜けたよな感覚に襲われた。
先ほど言われた言葉が頭の中で反芻される。
見込みはない――。




