第14話:実家
タキからはじめて一本を取ってからひと月が経った。
相変わらず、ジンは鍛錬と家事に明け暮れる日々を送っている。
少し前までは、毎日が苦痛で仕方がなかった。遅々とした自分の成長に苛立ってばかりいたからだ。けれど、今は違う。むしろ日々の鍛錬が楽しみですらある。
タキから一本を取ったあの日から、自分の殻をひとつ破ったような感覚がある。世界の見え方が少しだけ変わったのだ。今まで気がつきもしなかった部分にまで意識が回り、至らないところがあってもむしろまだ改善点があると思えるようになった。
タキとの関係も比較的良好だ。最近は彼女も少しだけ優しくなったように感じる。といっても、あの無表情と淡々とした喋り方は相変わらずなのだが。
そんなある日、朝食を済ませるとタキはいきなりこんなことを言い出した。
「そろそろあなたには、この家を出て行ってもらいます」
「え?」
この間の諸々のやり取りはいったいなんだったのか、と困惑するジンの前で、タキは足りなすぎた説明の補足をした。
「わたしが親鳥のようにあなたに飛び方を教える段階はもう済んだ、ということです。基礎はもうできていますから、あなたはそろそろわたしの手を離れ、もっと多くの仲間と切磋琢磨すべきです」
「ええと……それで僕にどこへ行けと?」
「わたしの実家です」
「おおっ!」
それを聞き、ジンは思わず身を乗り出した。タキの実家といえば、術士にとっての憧れの場所だ。英雄リウ・イェンの手で育てられた達人たちが集う家としてその名は広く知られている。
鼻息荒く近づいてきたジンの顔をうっとおしげに手で押してタキは続ける。
「今日からあなたにはこの家を離れ、リウ家で生活をしてもらいます。そちらのほうが効率がいいですから。向こうにまだ話を通していませんが、まあ、寛大な母のことです、許してくれるでしょう。……いいですか? 向こうで粗相をしてわたしの顔に泥を塗らないように」
「僕は子どもかよ」
半眼になって指摘すると、タキは鼻で笑った。
「この前癇癪を起こしたのをもう忘れたのですか」
ぐぬぬ、とジンは唸った。それを言われたらなにも言い返せない。
そうしてふたりは家を出た。
石造りの家と木造家屋が入り乱れる住宅地を抜け、大通りに出る。外套に身を包んだ人々で溢れる朝の通りをひたすらに歩き、ようやっと大通りを抜け息苦しさから解放される。小道に入り、道なりにずっと進むと街の郊外に出る。
遠く、冬枯れの山を背にして、ひときわ大きな屋敷がそびえていた。都会にはあんな大きな建物があるのだな、とジンがのんきに眺めながら歩いていると、次第にそれに近づいていることに気がついた。
「あれがわたしの実家です」
視線の先に見える石堀に囲まれた屋敷を指差し、タキが淡々と口にした。
その言葉に驚いているうちに、巨大な鉄門の前までやってくる。
屋根のついた堅牢な建物の中央部には、黒々とした肉厚な門扉が何人たりとも不審な者は通さないといわんばかりの威圧的な雰囲気を醸し出し、そこに鎮座している。門柱は人の背丈をゆうに超えるほど高く、そこには吉兆と幸福の象徴である鳳凰を意匠として取り上げた家紋が刻まれている。
タキは門衛と思しき男に話を通し、門を開けさせた。
門衛がかんぬきを外し、門扉を押し開く。その先には敷地いっぱいに広がる巨大な庭園が広がっていた。
タキの先導で、庭の中央に一直線に通った石畳の小道を歩いていく。
道の両脇には冬枯れの芝が黄色に染まり、じっと春を待つように広がっている。その向こう側では冬椿が丁寧に剪定され、寒空の下、凛とした姿で花を咲かせている。庭園の隅に目を向ければ、葉をまばらに残した灌木が風に揺れ、さやさやと葉擦れの音を奏でていた。その根元では数人の子どもたちが走り回っている。
遠くで聞こえる子どもの無邪気な笑い声を背に受けながら、ジンは郊外のなだらかな丘の上に建つ屋敷を見上げた。
大振りな屋根と高い煙突を備えた、重厚な石造りの屋敷。近づくにつれ、それが段々と大きくなっていく。
正面に見えている母屋と思しき三階建ての建物には、側面に四角い開口部が並び、そこにいくつもガラス窓がはめ込まれているのが見える。その左右にも同じく三階建ての別館が縦向きに配置されており、見渡す限り、三棟の邸宅がでんと居並んでいた。
「母屋の奥にはさらにもう一棟あります。わたしたちはそれを『北棟』と呼んでいます。母屋の左右の別館も、それぞれ『東棟』『西棟』と呼んで区別しています」
先を行くタキの説明を聞きながら、ジンはほうっと感嘆の息を漏らした。
邸宅どころか、これは城だ。しかし考えてみれば、この屋敷の持ち主は大陸を救った英雄なのだから、当然といえば当然なのだった。
かつて、このコスニア大陸は戦火に覆われていた。
大陸中央から北を支配する大国バジ、西海岸を支配するカラジュ、東海岸と南海岸を支配するスイ、そして島々を支配するアキツ。コスニアを構成するそれら四カ国は、互いに激しく争った。その争いの原因となったのは、奇跡の源――神鹿の聖骸だ。
聖遺体を巡って各国が争うのはコスニアの長い歴史の中でもさして珍しいことではない。信仰の威光や国の威信を競い合い、諸国は幾度となく争いを繰り返してきた。しかし、コスニア全土が戦火に包まれるのは初めてのことであり、四ヶ国すべてが刃を交えるまでに争いが発展したこともまた前例のないことだった。
多くの人が死に絶えた。町も森も焼かれ、大地は焦土と化した。
そんなとき、大陸の惨状を目の当たりにしたバジの将軍リウ・イェンは立ち上がった。
スイ国出身のイェンは自身の幅広い人脈を駆使し各国の要人と接触を図り、停戦の実現に向けて奔走した。その努力が実を結び、『聖骸戦争』が集結を迎えたのが十九年前、ジンが生まれる二年前に起こったことだ。
「あのリウ・イェンの屋敷だものな……」
つぶやき、屋敷の前の階段に立った。遠い島国の片田舎に産まれた自分が歴史に名を残す偉大な将軍と関わりを持つことになるだなんて、まだ現実だとは信じられない。
「行きますよ」
既に階段を登り始めていたタキが振り返って声をかけてきた。ジンは早足で彼女を追いかける。
冷たい石壁の中腹に取りつけられた分厚い扉を開き、玄関に入ると、中からわっと子どもたちが飛び出してきた。
「タキ姉だ!」
「おかえり、タキ姉!」
「お土産は?」
幾人もの子どもたちがタキの足めがけて突撃し、全身でぎゅっと抱きついて捕縛しながら次々に喋りだす。それに続いて、奥からわらわらとさらに子どもたちがやってきて、ふたりは一瞬にして子どもたちに取り囲まれてしまった。
タキ姉、タキ姉、と騒いでいた子どもたちは、やがてその隣に立っている見知らぬ隻腕の男の姿を認め、一瞬、しんと黙った。
次の瞬間には、今度はジンに向けての質問が飛び交った。
「ねえ、この人だあれ?」
「お客さん?」
「タキ姉の恋人?」
面白がって、ジンは最後の質問に、「ああ、そうだよ」とうなずいてみせた。ませた女の子たちがキャーと声を上げる。
ジンがにやりと笑って横を見ると、タキは呆れたような顔でこちらをにらみつけていた。余計なことをするなとその目が言っている。
「ジン兄ちゃん」
聞き覚えのある声がジンの名を呼んだ。声のほうに顔を向けると、十歳くらいの少年が子どもたちの輪から少し離れた位置に立っていた。
「久しぶり、アリン」
「うん、久しぶり。……ぼく、心配したんだよ。前に行ったとき、大変そうだったからさ」
子どもにそんなことを言わせてしまう。ばつが悪くなり、ジンは頭を掻いた。
「悪かったな。心配かけて」
「ほんとだよ。まあ、今は仲直りしたみたいでよかったけど」
口をとがらせてそう言うアリンの頭を、ジンは優しく撫でてほほ笑んだ。
ジンとタキのふたりは子どもたちと別れ、玄関を通って通路を進んだ。その先の大扉を押し開くと、広々とした縦長の空間が現れる。
「ここは大広間です。食事の時間には家族全員がここに集まります」
広間には、真っ白な卓布をかけた長机と長椅子がいくつも鎮座していた。左右の壁には両手では数えきれないくらいの、見上げるほど大きなガラス窓が並んでいる。部屋の脇にはどろどろに溶けた蝋燭を載せた燭台や、使い古された油灯が点々と置かれ、奥では暖炉が赤い炎を燃やしていた。
その暖炉の前に、ひとりの老婆がいた。
白髪を高く結い上げた、背の高い老婆である。細身の体にスイ国の伝統服である長袍をまとっている。老婆は揺り椅子に腰を下ろし、骨ばった手をひじ掛けに置いてゆっくりと身体を揺らしている。
膝の上には幼い子どもが座っており、その周りでは次は自分の番だとせがむ子どもたちが集まっていた。
穏やかな表情で子どもの背中を撫でていた老婆は、急に表情を強張らせた。
「ほう、これは禍々しい理力の持ち主ですね。まるで――」
そこまで言いかけて、止める。老婆は尋ねた。
「そこにいるのはどなたですか?」
硬い、どこか警戒を含んだ声。老婆の目元は白い布で覆われており、そこには視線というものが存在しなかった。
「母さん、わたしの生徒を連れてきました。前に一度話したでしょう?」
タキが説明すると、老婆は途端に表情を柔らかくして、「ああ、そうですか」とうなずいた。
老婆は膝に乗せた幼子に一言声をかけてからそっと床に下ろし、手すりに手を添えて椅子からゆっくりと立ち上がった。
そのとき、ジンは気がついた。老婆の右手の指が薬指と小指しかないことに。
ずいぶん前に、こんな話をきいたことがある。稀代の英雄リウ・イェンは、十九年前の『聖骸戦争』の折り、“死神”のふたつ名で知られる術士と激闘を繰り広げ、右の三本の指を失い、さらには光さえも奪われたという――。
しかしかつての英雄のその姿は、うわさに聞いて思い描いていたものとはまるで異なっていた。
イェンは盲目であることをまったく感じさせない力強い足取りでジンの前まで一直線に歩み寄ってきた。その背筋は老齢をまったく感じさせないほど、竹のようにぴんとまっすぐに伸び、身にまとった立ち襟の白い衣がその凛とした姿に一層の威厳を添えている。
ジンは、タキが年をとったらこんな老人になるのだろうなと考えた。それほどに血の繋がらないふたりの親子はよく似ていたのだ。
「はじめまして、イェンさま。ジンと申します」
「ああ。そんなにかしこまらなくていいんですよ。頭を上げてください」
頭を下げるジンに、イェンは穏やかな笑みを浮かべて応えた。
タキはイェンにここに来たいきさつを簡潔に説明した。
「――なるほど。そうでしたか」
そう言ってイェンはゆっくりとうなずく。その動作ひとつとっても品がある。
「わかりました。ジン、あなたのこの家への滞在を許します。タキの生徒ということでしたら断る理由はありません」
「ありがとうございます」
礼を述べると、イェンは優しい声色で、「ここをあなたの家だと思って、どうぞくつろいでください」と微笑んだ。
「あなたはタキの家で居候をしていたのでしたね。私の娘は変わり者でしょう?」
「ええと……はい」
「苦労をかけるとは思いますが、これからも娘の相手をお願いしますね」
そう言うと、イェンは長い年月を感じさせるしわだらけの両手を差し出した。
「はい、お願いされました」
ジンも微笑んで左手を差し出す。その手は両手で包み込まれた。温かい、優しい手だった。
と、そんなやり取りをしていると、いきなり横合いから頭を叩かれた。
「いてっ」
「なにを馬鹿なことを言っているのですか。苦労をかけられているのはわたしのほうですよ、まったく」
イェンはふたりの若者のやりとりを微笑ましそうに見守っていた。
それからひとつ間をおいて、イェンは「それはそうと」と話を変えた。
「タキ、まだあなたは棒っきれを振り回して遊んでいるのですか?」
「別に、わたしの勝手でしょう」
「あなたの外での様子をイシャンから聞きましたよ。人付き合いを避けているそうですね。おまけに自分の家にずっと引きこもって……。若いうちからそのような枯れた生活を送っていては将来が心配です。そんなことだからいつまでたっても男のひとりもできないのですよ」
タキはうんざりするようにため息をついた。
「母さん、その話はあとにしてくれませんか」
「いいえ。あなたは滅多に顔を出さないのですから、今させてもらいます。……ちょうどこの前、縁談の話が来たのです。どうですか、一度会ってみませんか。カラジュの知り合いの息子で稼ぎも良いそうですよ。なんでも、遠国との貿易の仕事をしているのだとか」
「何度も言っていますが、縁談になど興味ありません」
「またそんなことを言って。試しに会ってみなさいな。私も会って話したことがありますが、人当たりの良い好青年でしたよ。異言も堪能だそうです。私があなたの話をしたら、どうやら向こうも興味が――」
「……はあ。もう行きましょう」
タキはため息をつくと、ジンの袖を引っ張って、あごで大広間の入り口のほうを指し示した。
「え? でも……」
「いいから」
戸惑うジンをタキは強引に引っ張って歩き出してしまう。
「待ちなさい! まだ話は終わっていませんよ!」
背中に元気な老人の声を受けながら、ふたりは急ぎ足で玄関のほうに引き返していった。
「……おほん。えー、さて。今日あなたがここに来たのは、もうひとつ理由があります」
イェンとの話が終わり母屋の前に再度戻ってくると、タキはいつものように両手を背中に回して話を始める。今までの威厳のようなものはさっきのやり取りでどこかへと吹き飛んでしまった気がする。
彼女の娘としての一面を見るのはなんだか新鮮だった。
「それより、さっきの話だけど」
「なんですか?」
「いやだから、あの縁談がどうのって話だよ」
「……なんですか?」
「……」
あくまでさっき見たことはなかったことにさせたいらしい。ジンは白旗を上げた。
「はあ、もういいよ。で、そのもうひとつの理由って?」
聞き返すと、ごほん、ともう一度咳払いをして、タキは仕切り直す。
「この家の子どもたち――リウの子らはイェンから戦いを学んで育ちます。男も女も、兄弟間で常に競い合いながら大人になっていくのです。その中で子どもたちは、過酷なこの世界で生き残るための必要な能力を、強い心を養います。……ですがその一方で、この家では“勝者”と“敗者”が生まれます。思春期のころなどは兄弟間に多くの不和が生まれ、屋敷の中は荒れに荒れたものでした」
「ふうん。こんな豪邸に住めて羨ましいって思っていたけど、いいことばかりじゃないんだな」
タキはうなずいた。
「そんな中で、この家にはこれまで一度も手合わせで負けたことがない“勝者”がいます。もちろんわたしも『あの男』には勝ったことがありません。彼からすればわたしも大勢いる“敗者”の内のひとりに過ぎません」
「君が?」
「はい」
言って、タキは口の端をわずかに吊り上げた。
「今からその“勝者”に会いに行きましょうか」




