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隻鬼の杖 〜持たざる者は頂を目指す〜  作者: ふじぬま


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第11話:薪

 ジンが生まれ育ったアキツは、コスニア大陸の南方の海にぽつりと浮かぶ小さな島国である。四方を海に囲まれたこの孤島では、自然の脅威が絶えることがない。

 揺れる大地、吹き荒れる嵐、燃え盛る山の怒り。命を脅かす災いは常にそばにあり、島民たちは大地の声に耳を澄ませ慎ましく暮らしていた。


 そんなアキツの南西にある、山あいの小村――イナギ村に一家が移住をしてきたのは、ジンがまだ産声を上げて間もないころのことだった。


 ジンの父、エイシンは、名高き杖職人の家系に生まれたが、四人の兄がいたため父からの期待はほとんど向けられなかった。さらにエイシンが『腐れ痣』を持つ子――ジンを授かったことで、父の関心はますます薄れていった。その結果、エイシンは世間の目を避けるように山奥の村へ移り住み、杖職人として細々と生計を立てる道を選んだのである。


 『腐れ痣』を持って生まれた者は、生まれて間もなく絞り殺されることも少なくない。『腐れ痣』は世間では(カルマ)の証とされ、それを持つ者は忌むべき存在とみなされていたからだ。その風習はイナギ村でも例外ではなく、一家は迫害を受け、村から孤立した。


 ジンには三人の家族がいた。父親であるエイシンに、母親のミヒ、そして兄のギイチ。その三人。

 六つ上の兄、ギイチは、家族の中で誰よりもジンを気にかけてくれていた。母親は明るく優秀なギイチが大のお気に入りだったが、反面、下の息子には厳しかった。


 母が自分よりも兄を愛していることは幼いころからわかっていたことだった。ギイチと接するときには見せる母の笑顔も、ジンの前では途端に消えてしまう。少しでもジンが笑うと、母は苛立った。それは、一家の不幸の原因が自分にあるからなのだと幼いジンはうっすらと理解していた。


 母が不機嫌になると、ギイチは決まって外に連れ出してくれた。手を引かれ村のはずれを歩き回り、林の中を探検し、途中で見つけた木の枝を剣に見立てて遊んだ。

 ジンはギイチが大好きだった。穏やかで優しい自慢の兄だった。

 いつだってジンは自分が一家のお荷物であることを自覚していたが、それでもギイチには疎まれたことがなかった。兄にしても、様々な葛藤があったに違いない。一家を不幸にした弟を憎らしいと思ったこともあっただろう。事実、幾度か喧嘩をしたこともあった。

 けれども、ギイチは少なくとも母のような振る舞いをしたことがなかったし、普段は弟を気遣い、ひとりの人間として尊重してくれていた。ジンにとって兄は、物語に登場するどんな英雄よりも偉大で憧れる存在だった。


 あるとき、村の子どもたちにジンが突然避けられるという出来事があった。


「おっかあがおまえとは遊ぶなっていうんだ。おまえは呪われてるからって。だからもう、おまえは仲間に入れてやらねえ」


 村の子どもたちをまとめていたガキ大将はそう言って、ジンを突き飛ばした。背後にあった水たまりに尻もちをついた少年は、ただ呆然と遠ざかる子どもたちの姿を眺めていた。


 ジンは泣きながらあぜ道を歩いて家に帰った。道の途中、偶然会ったギイチは話を聞き憤慨した。


「あんな奴らとは遊ばなくていい。遊びたいなら兄ちゃんが遊んでやるからな」


 ギイチはジンの頭を優しく撫で、弟をおぶさりながら帰り路を歩いた。


「ジン、大人になったら俺と一緒に村を出よう。ふたりで大陸中を旅をして回るんだ」

「そんなの無理だよ」

「どうして?」

「旅をするなら馬が必要だろ。でも家には馬なんていないし、買う金もないだろ。路銀だってどうやって稼ぐのさ」

「そんなの兄ちゃんがどうにかするさ。お前が心配することじゃない。金のことは任せろ」

「でも……」

「いいか、ジン。お前はこの村を旅立つそのときまで、決して負けちゃいけない。お前はこの村から逃げるんじゃなく、この村を捨てなきゃいけないんだ。綺麗さっぱり忘れて次に進むためにはそれが必要なんだ。この世界のどこかにはお前を受け入れてくれる場所がきっとある。だから、負けるなよ――」


 その力強い言葉が、幼い少年を勇気づけた。ギイチのその言葉を信じて、ジンは生きてきた。村人たちから辛い言葉をかけられようと、子どもたちから『呪い持ち』と言われ石を投げられようと、ジンが耐えることができたのはギイチの言葉が希望だったからだ。

 この村をギイチと旅立つその日まで、ジンは決してこの村の人間には「負けない」と心に誓った。戦って抗って、生き延びようと決意した。


 ジンはギイチに支えられながら村の中で必死に生き抜いた。

 村の子どもたちに意地悪をされながらも村長の家で読み書きを習い、いつか村を旅立つときのために村の所有する馬を勝手に借りてギイチに馬術を習った。

 家では母に怒られながら家事を手伝い、洗濯も料理も薪割りも自分でできるようになった。

 辛く厳しい生活も耐えられた。ジンには希望があったから。


 転機が起きたのは、ジンが十一のころだった。

 希望(ギイチ)が、死んだ。


 村の外れにある林の中で、大木の枝に縄で吊るされて死んでいるのが見つかった。ギイチの死体の傍らには彼の婚約者の亡骸が横たわっていた。彼女の衣服は乱れ、暴行された形跡があった。

 知らせを聞いて両親と駆けつけたジンはギイチの死に様を目の当たりにし、その場にへたり込んだ。母は悲痛な声で叫びながらギイチの死体を地面に下ろそうとしていた。ああ、ギイチ、なぜこんなことに。どうして私の息子がこんな目に……。

 ジンは呆然と立ち尽くす父の隣でこれは夢かなにかじゃないかとまだ疑っていた。


「『腐れ痣』の呪いじゃ……」


 誰かがぽつりとつぶやいた。振り向くと、死体を見に野次馬たちが集まってきていた。そのうちの誰かが言ったのだ。

 いつもであれば、こんな言葉は受け流すことができた。ひどい扱いを受けるのは慣れっこだった。だが今回ばかりは難しかった。兄が死んだのは自分のせい。無遠慮に言われたその言葉で、ジンの心は凍りついた。


 ギイチはいつも言っていた。呪いなんてものはない、と。けれどそれはまちがいだったのかもしれない。本当に自分のせいで兄は死んだのかもしれない。自分が悪いのかもしれない。すべて、自分が……。


 心が絶望に押しつぶされそうになったとき、少年は見た。群衆に紛れ、三日月の形の目で笑うひとりの男の姿を。

 愉悦に満ちた目だった。絶望するジンが、悲しみ嘆くジンの両親が、心底面白いといった風な笑いだった。黄ばんだ歯をむき出しにして、まばらにひげが生えた頬を持ち上げ、笑っていた。

 違う。ギイチが死んだのは呪いのせいなんかじゃない。


 勢いよく立ち上がり、群衆の中に飛び込んだ。気づいた男は背を向けて逃げていく。

 ジンは必死になって追いかけた。しかし、男は捕まらなかった。男の姿は忽然と消えていた。人混みの中をもう一度探しても、林の中を抜けて街道へ出てみても、あの男の姿はどこにも見当たらず、そこにはただ陰鬱とした木々が広がっているだけだった。


 その後、父親にそれらしき男を見かけたと話すと、父はすぐに村長に伝え、犯人の捜索が始まった。犯人の顔を見たのは一瞬だったが、ジンははっきりとその特徴を記憶していた。褐色の肌の中年の男。伸ばしっぱなしの白髪、髭面、ぎょろりとした大きな目の持ち主。

 犯人の姿に見覚えはない。村の人間ではなく、明らかに外部の人間だった。犯人はすぐに捕まるはずだった。


 だが期待は打ち砕かれた。村総出での捜索だったが、待てど暮せど兄殺しの犯人が捕まったという報告はなかったのだ。

 そのうちに捜索は打ち切られ、ひと月経ったころには事件は人々の記憶から忘れ去られてしまった。


 なによりも大切な存在を失ってしまっても、時は無情にも進んでいく。人生は続いていく。

 ギイチという潤滑油を失った一家は途端にぎくしゃくし始めた。

 ジンの両親はことあるごとに喧嘩をするようになった。心の支えであったギイチを失ったことにより、母の精神は限界を迎えていた。

 ある日の喧嘩は、いつにもまして激しいものだった。


 両親が大声で罵りあう。食器が割れ、椅子が倒れる。

 母が目をむいている様も、いつも寡黙な父が唾を飛ばして怒鳴る様も、ジンにとはたまらなく恐ろしい光景だった。ジンは布団を被って震えながら、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。この場から消え去りたいと願うことしか。

 次第に、母は今まで見たこともないような恐ろしい顔をして荷物をまとめ始める。


「お母さん、どこに行くの」


 布団の隙間から顔を出し、恐る恐るジンは尋ねた。


「母さんはね、もうここにはいられないの」


 箪笥から着物を取り出して包みながら横目で息子を一瞥し、母は言った。そこに父が割り込んできた。


「ジン、母さんはいけないことをしたんだ。お前と父さんを裏切って、とても悪いことをしたんだよ。だから今、こうして逃げようとしてるんだ。自分の犯した罪とも向き合わないで、卑怯にもな」


 やめて、と母が叫ぶ。父は叫び返した。


「この期に及んで子どもにいい顔をするのはやめろ!」

「あなたにはわからないわ! 私がどんなに辛かったか。近所の人にも、会ったことのない隣村の人にだって石を投げられた。唾を吐きかけられたわ。あなたはそれを聞いても、しょうがないとばかりいうわ。運悪く、ジンの身体がこうなってしまったのだからしょうがないって。守ってなんかくれやしない。辛いことは全部わたしに任せるだけでなにもかも見て見ぬ振りだった。ギイチが死んでからもそう。あなたは仕事にかまけて、わたしを慰めようともしなかった」


 母がそう言った途端、父が平手で母の頬を殴った。音を立てて母が床に倒れる様をジンは震えながら見ていた。


「だから、他の男を逃げ道にしてもいいというのか。だから、家族を裏切ってもしかたがないというのか。お前はただの淫売だ!」


 父は指を母に突きつけ、つばを飛ばして怒鳴った。


「もっともらしい理由を吐くが、お前がやったことはなにを言っても取り繕えない。もう一度言うぞ、お前はただの淫売だ!」


 ジンは布団を被り直し、耳を手で塞ぎ、目を固くつむって縮こまった。


 母が家を出ていってしまった日。

 なにもかもが壊れ、家族がバラバラになってしまった日。当時十一歳だったジンの心に、大きな絶望と傷を残したあの日。


「ちゃんと生んであげられなくてごめんね」


 それが、母の言い残した最後の言葉だった。


 それからジンは父とふたりで暮らし始めた。母がその後どうなったのかはわからなかった。村の中に母の姿はなく、行方を父に聞いても返答はなかった。

 母はそれっきり帰ってはこなかった。その事実が、暗に母の本音を示していた。息子にはもう執着などないのだと。会えずとも構わないのだと。


 父は自分の殻に閉じこもり仕事に没頭し、息子ではなく杖とだけ向き合い続けた。

 父の考えていることがジンにはわからなかった。自分の過去の身の振る舞いを後悔しているのか、あるいはすべての元凶である息子を憎んでいるのか。長らく会話らしい会話を父親としていないジンは、ついぞその真意を知ることはなかった。

 幼少期から父が繰り返し言っていた言葉は、「家から出るな」だ。それが息子のことを案じて発した言葉ではないことをジンは知っている。


 昔から父はジンに無関心だった。同じ家で暮らしていながら、父と子の間には見えない壁があった。悲惨な現実から目を逸らすように、常に息子を視界に入れないようにしていた。

 親子の間に会話はほとんど生まれず、家の中はいつも静まり返っていた。


 そんなある日、父が死んだ。ジンが十四の年のことだった。

 母が家を出ていってからというもの酒浸りになっていた父は、就寝中に吐瀉物で喉を詰まらせて亡くなった。一人前とはいえない息子を残して、あっけなく逝ってしまった。


 知らせを聞いて駆けつけた父の兄弟たちと父を弔ったジンは、すぐに母親を探しに行った。村人たちに話を聞いて回り、ようやく居場所を突き止めることができた。母は隣村で見つかった。


 真新しい民家の前で、母は幼い子どもを胸に抱き、見知らぬ男の隣で幸せそうに笑っていた。前の家族のことなどもう忘れてしまったかのような心からの笑みだった。

 母親が憎くてたまらなくて、ジンはにらみつけた。目の前にある幸福な光景をすべて無茶苦茶にしてやろうと思った。けれども、捨てきれない母親への愛情が寸前で思い留まらせて、ジンは母の前に姿を現すこともなく家へと帰っていった。


 兄と父は死に、母はもう他人となった。孤独になったジンは誰もいない家で泣き暮らした。板戸を閉ざした暗がりの中、布団に包まりながら無為に日々を過ごした。

 暗闇の中で様々なことを考えた。兄のこと、両親のこと、『痣持ち』である自分の身体のこと。生きること、そして死ぬこと――。


 誰かが自分をこの絶望の中から救い出してくれる。そんな想像を頭の中で何度も繰り返した。しかし、そんなものが都合よく現れることはなかった。


 天涯孤独の身になっても、毎日腹は減り、父の残した多くはない遺産は消えていく。

 どん底だった。傷ついたジンを誰も助けてはくれなかった。村の人間はむしろジンに通りがかりざまに罵声を浴びせてくる有り様だったし、親族は父の葬式を終わらせてからというもの、『痣持ち』には用はないとばかりにジンに近づこうとはしなかった。


 そんなジンが再び立ち直ることができたのは、かつて兄と過ごした思い出が力をくれたからだ。

 いじめられ、泣きながら帰ったあのあぜ道で、ギイチは弟を背に負いながらこう言った。


「負けるなよ、ジン」


 あの言葉が、あの大きな背中の温もりが、ジンを再び歩み出させる力となった。


 家を出て、仕事を始めた。村民たちが避けたがる、いわゆる『不浄』とされる仕事を片っ端から引き受けて、必死になって金を貯めた。村人たちに罵声を浴びせられながら、雨の日も風の日も、仕事に明け暮れた。


 このときにジンは人生の真理を悟った。

 人は、苦しむときも立ち上がるときも、ひとりなのだ。この世に救いはなく、結局のところ、自分を救えるのは自分だけだ。いつまでも自己憐憫に浸っていてもなにも変わらない、救われない。

 ゆえにジンは、いつまでも他人の助けを期待することをやめた。自らの行動で自らの運命を切り開くと決めたのだ。


 やがて村を離れる決意を固めた。貯めた金を使って港から大陸行きの船に乗り込み、振り返ることなく故郷アキツを後にした。そうして、遠くコスニアの北方の地、バジ共和国へとやってきた。


 負け犬のまま死んでいきたくはない。だからこそ、故郷を出た。

 ジンは、イナギ村で自分をのけ者にした連中のことを片時も忘れたことはない。僧院で自分に暴力を振るってきた者、それを見てみぬふりをする者手がつけられないといった眼を向けてきた指導僧たち……彼らのことも、きっと忘れやしないだろう。


 心の根底にあるのは、彼らに対する怒りと、なにもかもを見返してやりたいという思いだ。

 けれどもジンは、彼らに復讐をしたいだとか、なにかを成してその証を彼らの前に突きつけたいというわけではない。

 手にしたいのは、彼らを鼻で笑って無視できるだけの、自分が心から“納得”できる強さだった。


 母が家を出ていったあの日のような、部屋の隅で縮こまり、ただ悪夢から逃げることだけを考えるようなみじめな自分と決別できる強さがほしかった。それさえあれば、この暗闇の世界にふたつの足でしっかりと立っていられる気がするのだ。


 ……そう、ジンは強くならねばならない。自分が思う“納得”を手にするために。たとえそれが、他人から見て、どんなに無意味なことだとしても――。



       ※



 深夜に目を覚まし、暗闇をずっと見つめていると、今までのことが次々に思い起こされた。

 忘れたくても忘れられない、忌まわしい記憶。イナギ村の陰鬱な思い出。絶望の中に輝いていた、かすかな希望。

 それらは、ジンにとっての“薪”だった。ジンの中の“執念”という名の炎を燃やすための、薪。


 筋を違えた首を擦りながら、暗闇の中、起き上がる。壁を伝って底冷えするような寒さの廊下を進み、月明かりの差す居間から縁側に出る。

 空を仰ぐと、煌々と冴える月が頭上を照らしていた。刺すような空気の冷たさの中、ほうっと息を吐くと、白い煙が立ち上った。

 素足のまま庭に出る。敷地の端にある物置小屋の引き戸を開き、中から竹杖を見つけると、それを手に庭の中央まで戻った。


 ジンには、許せないと思うことがいくつもある。家族を裏切った母のこと。息子に無関心な父のこと。そしてなによりも、弱く情けない自分自身のこと……。


 このまま終わるわけにはいかない。

 ジンは杖を胸に抱き、その場に座り込んで静かに目をつむり、基礎鍛錬を開始した。




「――いつからそうしているのですか?」


 声がして、ジンは目を開けた。声がしたほうをみると、寝間着姿のタキが縁側に立ち、こちらを見つめていた。首を巡らしてみると辺りはもう明るくなっていた。


「夜更けに起きたんだ。それで、ずっとこうしていた」


 ジンは立ち上がり、縁側の前まで歩いた。


「タキ」


 名前を呼ぶと、相手は半目になった。


「だから、わたしには敬意を払いなさいといつも言っているでしょう」


 タキはそう言うが、しかし彼女はもう、ジンの中で師匠などと敬うような存在ではない。超えるべき壁であり“敵”だ。対等な存在である。そもそもの認識が間違っていたのだ。

 まるまる聞き流し、続ける。


「タキ、君にお願いがあるんだ。あと一月、待ってくれないか。それまでに君から必ず一本取って見せる。それで僕のことを見極めて欲しいんだ」


 いきなりなんの話だ、という顔をしたタキは、思い出すように「ああ、昨日の話ですか」とつぶやいた。


「たしかに『諦めてはどうか』と提案をしましたが、わたしは別に今すぐあなたを追い出すつもりなどないですよ」

「わかってる。だけどこれは僕なりの決意なんだ。自分を追い込まなきゃ、僕は“本気”になれない。ひと月経っても約束を果たせなかったならここを出て行くよ」


 わずかに間を置いてからタキはため息をついた。


「まあ、あなたがそうしたいのなら別にそれでも構いませんが……」

「ありがとう。それから――」


 とび色の双眸をまっすぐに捉え、ジンは頭を下げた。


「昨日は、ひどいことを言ってすまなかった。至らないのは自分のせいなのに、君にやつあたりをしてしまった」


 現状に追い詰められ、自分を見失っていた。このままでは捨てられると思った。だから焦り、苛立って、それをタキにぶつけてしまった。

 もうあんな失態は繰り返さない。これからは、自分の中の弱さときちんと向き合わなければならない。そうしなければ、自分を納得させるだけの“強さ”は手に入らない。


「昨日はみっともなかったですね。泣きべそかいて、喚き散らして。……クソ女、でしたか? 気にしてませんよ。クソ野郎になにを言われようともね」

「気にしてるじゃないか」


 ジンは苦笑した。

 それを見て、タキもわずかに口元を緩める。


「忘れてあげます。わたしは寛容ですから」


 ほどなくして、タキは言った。


「では、稽古を始めます。用意はいいですか?」


 いつものように両手を背中に回し、あごをわずかにそらして偉そうに問いかけてくる。ジンはうなずいた。


「もちろん」


 今日もまた、苦しみの海に頭までどっぷりと浸からなくてはならない。ジンは大きく息を吐いてから気合を入れ直した。


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