第1話:発端
最悪だ。完全に寝坊だ。
赤レンガの壁に囲まれた僧院の一室。壁に設けられた高窓からはすでに夏の強烈な日差しが差し込んでいる。この部屋ではいつも十五人ほどの見習い僧たちが雑魚寝をしているのだが、今はもうジンひとりだけだった。
寝坊したジンを起こしてくれるような者はいない。生まれてこの方、友人と呼べる存在を持ったことがないのだった。
「はあ……」
埃だらけの絨毯の上に布団代わりの薄っぺらな敷布を敷き、そこに上半裸で寝転んでいたジンは、憂鬱な気持ちで腰を上げた。
朝食の時間はとうに過ぎている。時間に遅れれば食事は抜きだ。ここでの食事は朝と昼の二回だけなので今日は昼食だけで一日をしのがなければならない。
ジンは枕代わりにしていた青錆色の大布を手に取って広げ、左手と口、そして脇を巧みに使いながら、それを素肌の上に巻きつけていった。そうして、僧衣である袈裟を片腕だけで着終える。
ジンの右腕は、肘から上の途中で途切れていた。そこから先はなにもない。丸く残った腕のつけ根には黒い痣がカビのようにびっしりと広がっている。
生まれて間もないころ、ジンは右腕を失った。人体を腐らせる黒い痣が現れる奇病――《腐痣病》に罹患し、赤ん坊のころに腐り落ちてしまったのだ。
田舎の小村に生まれた彼は、右腕がないということを除けば、他の村の子どもたちと同様に健康に生まれ育った。しかし、右肩から首筋にかけてかすかに残った黒い痣は彼の人生を大いに狂わせることになった。
『腐れ痣』の痕跡を持っているというだけで肩身の狭い思いをしたことは数え切れないほどある。やれ、「呪いが移る」だの、「視界に入るだけで気分が悪くなる」だの、そういった理不尽な中傷にさらされることは日常茶飯事だった。
それでも、ジンはもう慣れきっていた。世間の冷たい視線にも、この不自由な体にも。
部屋を出て、軒下にある共用の水瓶に顔を突っ込むようにして水を浴びる。夏の暑さでぬるくなった水を二度三度と顔に引っ掛けて軽く寝汗を洗い流し、犬のように頭を振って水気を切る。
水鏡には、無造作なくせ毛の黒髪と大きな瞳が印象的な青年の姿が映っている。日焼けした肌には、子どものころに村の悪童たちにつけられた古傷があちこちに浮かんでいる。
我ながら見目は悪くないと思う。欠点があるとすれば、やはり、欠落した右腕と『腐れ痣』だろう。これさえなければ今頃はもっと別の人生を送っていたに違いない。とはいえ、この体あってこその自分だ。そんなことを考えても仕方がない。
寝てる間にあっちこちに跳ねてしまった髪を水鏡を見ながら手ぐしで整えれば、身支度は終わりだ。そのまま修練場へ足を向ける。授業はとっくに始まっているころだろう。
辺りには赤茶色の四角い建物が櫛比している。その建物――僧房はどれももぬけの殻である。
境内の中央には本堂があり、それを囲むように大小様々な石塔が立ち並んでいる。本堂をつなぐ回廊の先には、僧たちが学問に励む講堂があり、そこからは読経の声と笛の調べが重なりあって聞こえてくる。東西にそびえる二本の尖塔の中では、僧侶を目指す多くの者たちが今日も見るだけで頭痛がしそうな書物の山と格闘していることだろう。
僧房も回廊も、境内をぐるりと囲む堀も、どこもかしこも石とレンガで造られたこの場所の名は、カマラダ僧院という。
カマラダ僧院は、ムリガ教の信者たちの寄付によって運営され、四カ国から集まった五千にも及ぶ修行僧がこの僧院で共同生活を送りながら、教学、哲学、医学、数学といった学問や『理術』についてを学んでいる。
ジンもまたその一員なのだった。
渡り廊下を素足で渡りきり、その先の回廊へ。回廊を抜けると、視界がふっと開けた。そこには一面に砂が敷き詰められた広々とした空間が広がっている。修練場だ。
案の定、授業はすでに始まっていた。日差しを浴びて白くきらめく修練場の一角に、素足の青年たちが三十人ほど集まっている、皆、洗いざらしの袈裟をまとって教員の周りで講義を受けている。
ジンは群衆にそっと近づき、なに食わぬ顔でその輪の中に溶け込んだ。幸いなことに、講義に夢中で誰もジンが遅れてきたことに気がつかなかった。
周囲の空気は心なしか浮ついている。背伸びをして確かめてみると、講義を担当していたのは黒い道着をまとった若い女だった。
背まで届く流れるような髪に、男顔負けの長身。美人と評判のリウ・タキ女史である。
学僧たちとさほど年齢が変わらないにもかかわらず、彼女の“術”の腕前は達人級という評判で、その美貌も相まって生徒たちの人気は高い。僧院では異性と関わる機会は数少なく、数名在籍している女性教員を除けば異性と話をする機会は無に等しい。周囲には今日こそは彼女にいいところを見せて接点を持とうと張りきっている者も少なくないようだ。もっとも、当の本人はそんな学僧たちの視線にまったく気にした様子がないのだが。
淡々と授業を進め、授業が終わればすぐに帰ってしまう。常に無表情で、他人になどまるで興味がないという態度をとっている。それがリウ・タキという教師なのだった。
授業はいつもどおりの基礎訓練だった。瞑想による“力”の操作、杖の素振り、“術”による的あて。貸し出された竹杖を携え、いつもの手順を今日も滞りなく反復していく。
「最後に、手合わせを行って授業を終わります。二人一組になって互いに向かい合いなさい」
授業が佳境に入ったころ、タキは無表情で皆に告げた。手合わせとは、実戦を模倣した一対一の訓練のことを指す。どちらかが杖を落とすか地面に倒れるまで戦いが行われる決まりだ。
生徒たちはすぐに動き出し、腕と同じくらいの長さの竹杖を手に隣と一定の間隔を保って離れ、二人一組になって互いに向かい合う。
ジンも相手を探し周囲を見渡すが、目が合っても誰も応じてくれなかった。そうして困っているうちに、ようやく組もうと声をかけてきたのはナビンという名の大男だった。
取り巻きふたりを常に従え、威圧的な態度で周囲をねじ伏せる意地の悪い男。ジンは一年前の入寺以来、なにかにつけてナビンに絡まれ続けていた。今回もどうせ鍛錬の名目で痛めつけてやろうという腹だろう。
「まさか、君から声をかけてくれるなんて思わなかったよ、ナビン。よし、やろう」
ジンがにこやかにそう言うと、ナビンはあからさまな侮蔑の表情を返し、吐き捨てた。
「調子に乗るなよ。気色のわりぃ『痣持ち』が」
ジンが右腕を失った原因――《腐痣病》は、身体をめぐる“力”の暴走によって引き起こされるという。だが中にはそれを病ではなく厄災と見なし、恐れ嫌う者たちがいる。ナビンもまたそのひとりだった。
産まれたばかりの赤ん坊の体が突然腐り落ちてしまう。そんなおぞましい現象を「前世で犯した悪行」の結果であると解釈する者が世の中には多いのだ。すなわち、それは業であり、前世の罪の結果なのだと。
くだらない迷信だとジンは思う。そんなもの、こじつけに決まってる。
「そういやよ、お前、知ってるか?」
ナビンは手の内で竹杖を弄びながらにやにやと笑った。
「たまに死人が出るらしいぜ、こんな授業でもよ。頭を打って、そのまま目を覚まさないままポックリってな。そんな話が年に一度はあるんだと。ようはこんなチャチな杖でも、打ちどころによっちゃ危ないってわけだ」
言い終えるとナビンは急に真顔になり、ずいと顔を近づけてきた。そして、低くささやく。
「今日、お前がそのひとりになるかもな」
ジンは一瞬目を細めたが、すぐに平然とした顔で杖をナビンとの間に突き立てた。そうすることで、脂ぎった顔がこれ以上近づいてこないよう壁にする。
「いいのか? そんなことをすればムリガの教えに背くことになるぞ」
「はっ、悪人を殺してなにが悪いんだ? 悪人を殺すのは善人のすることだぜ。ムリガは善行を積む者の味方だろ?」
その歪んだ論理にジンはしばし無言になり、ナビンの顔をまじまじと見つめた。どうやら大真面目に言っているらしい。体ばかり大きくておつむのほうは空っぽなのだろう。試しに彼の頭を叩いてみたらきっとこんこんと虚ろな音がするに違いない。
口元に皮肉な笑みを浮かべ、一言だけ返す。
「なるほど」
ジンは踵を返し、砂を踏む乾いた音を響かせながら数歩歩き、相手と距離を取った。十分に離れてから向き直り、杖を構える。
修練場にはいつの間にか張り詰めたような静寂が満ちていた。その場には、遠くからかすかに聞こえる読経の声とセミの鳴き声だけが残る。
日差しが容赦なく肌を焦がす中、ジンは目を閉じて集中した。
かつて、この大陸――コスニアには、世界を創造した超常の存在が生きていたという。
神の名はムリガナータ。太古の時代、人々はムリガの住まう森で暮らしていた。
夜空にきらめく星々の中で、ひと際光の弱い星から渡り来たとされるムリガは、荒涼としたこの星を作り変え、生命を創り出したと伝えられている。
長い長い間、人々はより『高次元の存在』の庇護下にあった。争いがあればムリガが人々をいさめ、飢えれば与えられ、ムリガの教えを実践することで人々は平和に生きていた。
しかし、そんな平穏な時代も終わりを迎える。ある日、ムリガは死んだのだ。
その理由は定かではない。教典によれば、ムリガは生命創造により力を使い果たしてしまったとも、邪神と争った際に負った傷が原因となったとも記されている。
ムリガの遺体は《原初の森》に安置され、そこで何日も追悼の儀式が執り行われた。人々は悲しみに打ちひしがれた。何日も、何か月も、儀式は続けられた。
ムリガという「主」を失った人類は、途方に暮れた。これからは自分たちのことを自分たちで考え、解決しなければならなかった。それでも、人々は長い年月をかけて立ち直り、国を築いていった。
そのうちに、奇妙なことが起こった。ムリガの死後、数百年が経ったころ、赤子たちが不可思議な力を持って産まれるようになったのだ。奇妙なことに、その力はムリガの操る神秘の力と酷似していた。
学者たちは気がついた。ムリガの遺体から発する“力”が、コスニアとそこに住まうあらゆる生物に伝播し、微弱な神通力を身に宿す『進化した人類』が産まれるようになったのだと。かの神は、希望を残していったのだと。
『理術』と呼ばれる奇跡はそうして生まれた。
「ふぅー……」
かすかな神との繋がりが、たしかに自分の中に息づいているのをジンは感じた。
念じると、力が生じる。さらに念じて、発現したその力を動かしていく。水を手で掻き回すような重たい感覚とともに、ずずずっと身体の奥でなにかがうごめき、体の内をぐるぐると巡っていく。その力は微弱だが、指先から杖へ、そして杖先の『源石』へと注ぎ込まれることで増幅され、強大な力へと変わる。
杖先がずしりと重くなり、杖を持つ左手がじんわりと熱くなる。蓄えられた力が解き放たれる瞬間を今か今かと待っているのを感じる。
神秘の業――理術が完成する。ジンはやや前のめりになって開始の合図を待った。杖を振る、その一つの動作にのみ意識を割く。
どうやら向こうも準備ができたようだ。視線の先で、こちらをにらむ大男が杖を大きく振りかぶって待機している。
緊張がジンの体に走った。逸る気持ちを抑えて、耳を澄ませてひたすらに待つ。風の音、衣擦れの音、周囲の男たちの息遣い。それらが一瞬、世界から消え失せる。
「――はじめ」
女教師の口から発せられた「は」の音が耳に届くや否や、ジンは杖を振り抜いた。ひゅんと風を切る音とともに杖先から光が放たれる。
それは稲妻のような速さで宙を駆け抜けると、ナビンの杖を持つ手にぶち当たり、大男の体は後ろにばったりと倒れた。重く鈍い音とともに砂煙がもくもくと巻き上がる。
「ふぅ」
ジンは杖を下げ、軽く息を整えながらナビンの元に近づいた。
「う、うううっ……い、痛ぇ……」
ナビンは腕を抑えてうめき声を上げていた。手首があらぬ方向に曲がってしまっている。どうやら骨を折ったらしい。
とはいえ、本来術士の操る神秘の業というものは、大岩を穿ち、鉄の鎖をもねじ切ってしまうほどの威力を持つ。今回は稽古用の竹杖と粗製の『源石』であったからこそ、この程度の術の威力で済んだのだ。もしも神力を宿した古木の杖であったなら、ナビンの負った怪我はもっと深刻なものになっていただろう。
『悪人を殺すのは善人のすることだぜ。ムリガは善行を積む者の味方だろ?』
先ほどのナビンの言葉を思い返し、ジンはほくそ笑んだ。どうやら“善行”を積み損なってしまったらしい。
「手の空いている者は負傷者を救護室へ運びなさい」
タキの凛とした声が修練場に響き渡り、学僧たちが動き出す。
釣鐘の音が三度鳴る。授業はそれで終わりだった。




