水沢しずく6
しずくは精神科クリニックの待合室に座り、膝の上で小さなノートを握りしめていた。白い壁に囲まれた部屋は、消毒液の匂いと静かな空気で満たされていた。
窓から差し込む朝の日差しが、床に柔らかい光の模様を描き、しずくの緊張を少し和らげた。
彼女はノートに書いた目標を読み返した。
「今日、笑うこと。」
その文字は、彼女の心に小さな希望を刻んでいた。
だが、先輩の幻影はまだ頭の片隅で囁いていた。
「しずく、私から逃げられないよ。」
その声は、治療を始めてからかすれ始めていたが、完全に消えることはなかった。
しずくは目を閉じ、深呼吸して幻影を振り払おうとした。
「ねえ、初めて?緊張するよね、ここ。」
しずくは声に驚き、顔を上げた。隣のソファに座る若い女性が、笑顔で話しかけていた。
ショートカットの髪と、明るいオレンジのセーターが目立つ彼女は、彩花と名乗った。
しずくは小さく頷き、
「うん、2回目…」
と呟いた。彩花はコーヒーの紙カップを手に、
「私も最初はドキドキしたよ。でも、慣れるとここ、なんか落ち着くんだよね。」
と笑った。その軽やかな声に、しずくの心は微かに揺れた。彼女は、こんな風に気軽に話しかけられた経験がほとんどなかった。
彩花の笑顔は、あかねや絵里の温もりを思い出させ、しずくの胸に小さな温かさが広がった。
「私、幻聴に悩まされてたんだ。変な声、聞こえることない?」
彩花の言葉に、しずくは息を呑んだ。
彼女の心の奥に閉じ込めていた闇が、突然言葉にされた気がした。
「…ある。先輩の声が、ずっと…」
しずくは震える声で答えた。彩花は静かに頷き、
「わかるよ。私も、昔の誰かの声が頭から離れなかった。」
と穏やかに言った。その共感が、しずくの心の壁を溶かした。
彼女は、初めて自分の闇を他人に共有できた。彩花は話を続け、
「でもさ、こうやって話すと、ちょっと軽くなるよね。」
と微笑んだ。しずくは小さく笑い、頷いた。笑顔が、自然にこぼれた瞬間だった。
待合室には、他にも患者がいた。年配の男性や、若い学生らしき女性が、静かに本を読んだり、スマホを眺めたりしていた。彩花は彼らとも気軽に挨拶を交わし、しずくに紹介した。
「この人たち、みんな仲間だよ。変な言い方だけど、ここで会う人、なんか特別な感じするよね。」
彩花の言葉に、しずくは頷いた。待合室は、彼女にとって初めて安全な場所になった。
幻影の声はまだ響いたが、彩花の笑顔や他の患者の穏やかな存在が、それを押し退けた。しずくは、孤独が自分の全てではないと気づき始めた。
診察を終え、クリニックを出ると、彩花が「ねえ、近くのカフェでお茶しない?」と誘った。しずくは一瞬迷ったが、
「うん、いいよ」
と答えた。カフェの窓際の席で、彩花は冗談を交えながら自分の治療の話をした。
「私、最初は薬飲むの嫌だったけど、慣れると楽になったよ。」
しずくは、彩花の明るさに心から笑った。彼女はノートに新たな目標を書いた。
「彩花と話すこと。」
その文字が、彼女の心に光を灯した。
「私は孤独じゃない。」
その確信が、しずくの感情を覆した。幻影の影は薄れ、友達という新しい絆が、彼女の心を満たし始めた。




