水沢しずく5
退院から数日後、しずくはあかねの勧めで精神科のクリニックを訪れた。
クリニックは街の外れにあり、白い外壁とガラス窓が清潔感を漂わせていた。
待合室は静かで、柔らかい日差しがカーテンを通して差し込み、消毒液の匂いが漂っていた。
しずくはソファに座り、膝の上で手を握りしめた。彼女の心はまだ不安定で、先輩の幻影が頭の片隅で囁いていた。
「しずく、私から逃げられないよ…」
その声は、病院での休息や仲間たちの温もりで薄れたはずなのに、なおも響いた。
彼女は目を閉じ、幻影を振り払おうとしたが、胸のざわめきは収まらなかった。
受付で名前を呼ばれ、しずくは診察室に入った。
医師は中年の女性で、穏やかな笑顔と落ち着いた声がしずくの緊張を和らげた。
「水沢さん、初めまして。焦らなくていいよ、ゆっくり話していこう。」
医師の言葉は、まるで暖かい毛布のようにしずくを包んだ。彼女は診察室の白い壁を見回し、壁に飾られた小さな花の絵に目を留めた。
そのシンプルな美しさが、彼女の心に微かな安堵をもたらした。
医師はカルテを手に、
「最近、どんなことがあったか教えてくれる?」
と尋ねた。しずくは唇を噛み、言葉を探した。
幻影のこと、3日間の闇のこと、仲間たちの温もりのことを、どう話せばいいのかわからなかった。
しずくは、震える声で話し始めた。
「先輩の声が…頭の中で聞こえるんです。いつもそばにいるって…」
医師は静かに頷き、メモを取った。
「それはつらいね。でも、ここではその声を少しずつ遠ざけられるよ。」
医師は、軽い抗不安薬を処方し、定期的なカウンセリングを提案した。
しずくは薬の説明書を手に、医師の言葉を反芻した。
「焦らなくていい。」
その言葉が、彼女の心に小さな光を投じた。
診察室を出ると、待合室の窓から見える庭の緑が、彼女の目を優しく捉えた。彼女は小さなノートを取り出し、初めての目標を書いた。「今日、笑うこと。」その一文が、彼女の新しい一歩だった。
クリニックを出ると、あかねが車で待っていた。
「どうだった、しずく?」
彼女の声は、いつもの明るさでしずくを包んだ。
あかねは、しずくの才能を高く評価し、いつも励ましてきた。
彼女のショートカットの髪と、きびきびした動きが、しずくに安心感を与えた。
「少し…楽になった気がする。」
しずくは小さく微笑んだ。あかねは
「よし、じゃあ何か食べに行こうか!」
と笑い、車を走らせた。カフェでの会話は軽やかで、あかねの冗談にしずくは小さく笑った。
幻影の声はまだ響いたが、その頻度は減り、かすれ始めていた。
治療は、しずくに自分を取り戻す力を与え始めた。
夜、アパートに戻ったしずくは、ノートを開き、今日の出来事を書いた。
「あかねさんが笑わせてくれた。医師の声が優しかった。」
文字を綴るたびに、彼女の心は軽くなった。窓の外では、星が瞬き、雨の匂いは消えていた。
幻影はまだそこにあったが、治療の光が近づいていた。
しずくはベッドに横になり、目を閉じた。
初めて、静かな眠りが彼女を待っている気がした。
だが、夢の奥で、先輩の笑顔が一瞬ちらつき、彼女の心を微かに揺らした。




