1話 新崑崙における日常とはなにか?
血まみれの男が目の前にいた。
そいつはぼくの手に首根っこを掴まれ、持ち上げられている。
そいつは、でかい穴で風通しが大変良くなった壁とそこから見える月を背にしてこう叫ぶ。
「待ってくれ、降参だ! 俺の研究データ全部譲る用意がある! 同じ方士だろ!? 俺を殺してもなんの得にもならないし、だから――」
方士にとって、それは文字通り最大限の命乞いだった。
大道工学を司る方士にとって、自身の持つ研究成果は、すなわち自身の力であり財産でもある。
知識こそ力。それは人間の持つ力でもあり、それを先鋭化させたのが方士という存在だ。
「あー、それ以上言わなくて結構。さっきの馬鹿騒ぎで大体予想つくし、何より――」
落胆した目で続ける。
「ぼくは君の研究成果に興味がない」
激昂したのか喚き散らすが、体はピクリとも動かない。下でみっともなく揺れる情けないブツも同様だ。念には念を入れて斬ったのもあるが、一番は額に貼られた呪符だ。
やっていることは、そう大したものじゃない。
「まず一つ。今お前の神経系を乗っ取っているわけだが、普通の方士ならこんなチンケな手遊びはまず通しすらしない。意味はわかるよな?
加えて二つ目。追手の可能性すら考慮せずに、お楽しみに耽ろうとしたこと。仕事が終わったならとっととトンズラこくべきだろうに。
最後に一つ。ぼくは使い勝手に困る術式を渡されても困るんだよね。とりわけ、わざわざ他人の生皮をはがないと使えないようなものなら特にね」
「おおお俺を殺したら俺のいる流派の連中が黙ってないぞ」
「へぇ! 方術流派が? そりゃあいい! どこが来るんだ?
玄峨、蒼淵、朱嵐、碧濤、黄岑、白朔、黒瀧、紫霄、芦淵――以上が方術流派の最大派閥たる九道流派なわけだが、どこが来るんだ? ん?」
「そっそれは――」
「あのなぁ、あんな命乞いされて方術流派の方士でございなんて通るわけがないじゃん。仮に研究結果を渡されて生き延びたとしても、同門たちから何されるか知らんわけじゃないだろ」
だから、断ずる。
「どうせ、方術流派の修行に耐えかねてドロップアウトしたモグリだろお前。んでどっかの誰かから大金積まれて殺し屋を始めた。撃った弾をわざわざ拾いに行くやつがどこにいるっていうのさ」
方士崩れを無造作に投げ捨てる。
「そういえばさ。同じ方士じゃないかと言ったなお前」
そして、印を結んだ右手を、軽く叩くように振る。
「お前のようなカスと一緒にするな。不愉快だ」
直後、呪符が一瞬光り、同時に方士崩れは意識を失った。
……本当は頭をふっとばしたかったんだけどな。
突入に先立って「生かして捕えてくれ」とぼくのいる流派の上層部と警察から釘を差されていたのと、惨劇を前にしたあの女性にスプラッタの倍プッシュはどうにも気が引けたというのが正直なところだった。
下からサイレンが聞こえてきた。
開いた穴から下を覗くと赤いランプがついた車が数台止まっているのが見える。
……ようやく来たか。新崑崙警察。
遅いのはいつものことだが、今回は早かった方だ。良しとしよう。
警察が来るまで時間があったので、周囲を見回してみる。
左側には申し訳程度の浴槽と水道。壁には自動湯張りのコンソールが埋め込まれ、床には空気で膨らむマットが転がっている。
床はまだ濡れている。
仕切りの向こうには部屋の広さに似合わない高級そうな天蓋付きベッドがある。その上で、裸の若い女性が壁を背に震えながらこっちを凝視していた。
気絶すれば楽だったろうに、恐怖がそれを許さなかったらしい。
彼女の正面には、でかいテレビ。画面はひび割れている。そこにもう一人の男がいた。
結論から言うと、彼は死んでいた。バッサリと袈裟斬りにされ、顔の皮を剥がされてなお息があるなら悪運が強いとしか言えないが、そんな奇跡はなかったようで、混元現実に浮かぶ『生死判定:死亡』という無情な一文が、彼のすべてを物語っていた。
長々と説明したが、端的に言うならただの『風呂屋』だ。
繁華街近くにあって、なぜかベッドが置かれ、男女が一緒に入るだけのそんな風呂屋。
盛り上がって近くのベッドでセックスに励んでも、「自由恋愛だから!」「よし通れ!」と通ってしまう店だ。
まぁ、場所はどうでもいい。
方士崩れのバカが、前途ある若者を殺した。だからこうやって捕えてる。
だが、そんな方士崩れのバカにさえ、目の前の死体を始めとする徒人には対抗すらできない。
それが方士という人種であり、その一人がぼくで、これが新崑崙の日常でもあった。
そんな方士の襲撃という災害で命を落とした彼の亡骸に向け合掌して弔い、こちらを見ていた女性に「迷惑をかけて申し訳ない」と頭を下げる。
これもまた、ぼくの仕事だ。
そうこうしてるうちに、警官の怒声が聞こえてきた。
……この手の店のエレベーターは、大人数を想定してないからなぁ。狭いよなぁ。
そう思いながら。
「立って歩け」
と告げる。
直後、馬鹿な方士は気を失った状態のまま立ち上がり、ぎこちなく警官たちへ歩き出す。
これもまた方術の一つであり、その中でも手遊びの範疇だ。
乗り込んできた警官の一人――おそらくリーダー格だろう――が近づいて話しかける。
「その紋章は芦淵の――お疲れ様です。ご協力感謝します」
「あぁ。修復術式は後でやったほうがいいんだっけ?」
「はい。一回現場検証を行いますので、修復はその後になりますね」
「そうか。わかった。あと、あの娘のメンタルケアをしっかりやっててくれ。いい病院もだ」
「……気に入られたのですか?」
……少し気に障る事を言うやつだな。
「あのな、あの娘は猟奇殺人を眼の前で見せられて、果てに犯人からレイプされかけていたんだぞ。それで悪夢すら見ないで平気なやつがいたなら、それこそ方士の適性が高すぎると俺は思うね」
「――し、失礼しました」
「わかってくれればそれでいい。じゃあ、ぼくは帰るよ」
部屋を出る時、声が聞こえた。
「助けてくれて、ありがとう……ございます」
彼女はもう、震えていなかった。
†
――新崑崙 大道学区
――新崑崙総合技術大学
『新崑崙繁華街の風俗店を方士が襲撃。逮捕されるも被害者の男性一名が死亡。』
このあと長々と書かれているが、昼下がりの学食内のテーブルに置かれた平板の画面に浮かぶこの一文が、昨日命を落とした彼の全てだった。
「また、方士による殺しか……」
「悲しいけど、これもこの街の日常だよ翠嵐。割り切れとは言わんが」
「あぁ、わかっているさ。君が割り切れと言うほど冷たい人間ではないことも含めて、な」
形がどうであれ、方士が絡まない事件は今や珍しい。新崑崙ではなおさらだ。
大学区画内ではびっくりするほど平和と喧騒に満ちているが、そこから一歩出れば地獄がつきまとう。それが新崑崙だ。
「九道流派も頑張ってはいるんだけどなぁ。ただ身内にも過激派がいたり、旧体制でドロップアウトした方士崩れがいるのが頭痛の種だろうな」
「過激派は下手につつけば何しでかすかわからない。方士崩れはいつどこで何をしでかすのかわからない。八方塞がりってやつだね」
方士を志す人間の殆どは、方士による事件に巻き込まれたか、他者の悪意にさらされ続けて続けてきたか、そんな壮絶な過程を経て力を求めて、その道を進んだのだ。眼の前で茶の入ったカップを片手に、タブレットを操作している蒼玲も、その一人だ。
「……ほんと、ままならないよね」
翠嵐らのように、教育機関を通して育っていない。師匠に拾われて、師匠が属する流派の教育と修行を受けている。ただそれだけが、今年で19歳になろうとしている蒼玲の歩んできた人生の壮絶さを物語っていた。
「……しかし、なんで被害者は――こんなところで言うのもなんだけど――ああいう店にいたんだ? 学生だったんだろう?」
「院生だったからさ」
即答だった。
「なんで院生が理由になるのさ?」
「……童貞を卒業するために訪れる人の殆どが院生の人間だっていう話でな。多分彼もその一人だったんだろう。そして人間が油断しやすい瞬間が多いのがその手の店だしな」
経緯はどうであれ、なけなしのお金と勇気を振り絞った矢先に方士の殺し屋に惨殺されるだなんて、誰が想像できるのか。ましてや、方士の悪意を知らない一学生に。
「……だから、そこで狙われたと?」
「まぁ、そうなるな」
そう考えると昨日の彼は本当に哀れだと思う。
教師の卵である院生のなかでとりわけ成績が良かったし、彼が書いた研究論文も九道流派のお偉方たちが評価していた。師匠が「この論文面白いからお前も読んでみな」と読まされて、かなり興味深い内容だった記憶がある。
「彼が書いてた論文……確か『龍脈探査における新アプローチの展望』だっけ。ぼくも読んだよ。なかなか面白い内容だったよね」
「龍脈死滅にレイライン計画とタイムリーだったのもあるけどな。それだけに本当に惜しい人を亡くしたと思うよ」
彼も哀れであるが、残された遺族も同様だろう。色街の風呂屋で命を落としただなんて、蒼玲が語った事情とやらを踏まえてもとても他人には言えたものではあるまい。
そこでふと、思い至る。
彼はどこで、その事情を聞いたのか? ――と。
「蒼玲くんや」
「急にどうした、かしこまって」
「君は確か、童貞を卒業するために訪れる人の殆どが院生の人間だって言ってたよね」
「……そうだが」
「どこで、誰から聞いたのそれ」
「…………」
答えは沈黙と、どこか恥ずかしげに目をそらす動作。
……なるほど、あの噂って本当だったんだ。
九道流派――もとい方術流派は得意分野や術式が違えど、技術流出に対してはかなり神経質だ。そして技術流出の原因の一つに挙げられるのがいわゆる色仕掛である。
それに対する効果的な対策はなにか。成人した女を知らない見習い方士を高級娼館に金を握らせて放り込めばいい。……そういう噂であった。
なるほど確かに女に慣れさせるのには効果的ではあろう。だが本当にやっていたとは思わなかった。
「……成人迎えたとき師匠に、金握らされて無理やり連れて行かれたんだ。『この若造に女の凄さを教えてやってくれ。予約通りにな』って。その時のお相手さんから教えてもらった」
「へ、へぇ……」
機密一つ漏らそうものなら、即刻首を切り落とされても一切文句を言えないのが方術流派である。その観点から言うのなら遊びとかそういう以前に予防接種のひとつなのだろう。そう考えてみると、
……羨ましいんだか大変なんだかよくわからなくなってきたな。
「なんていうか、すごい人だね君の師匠って」
「一年近く行方不明じゃなかったなら、たしかにすごい人だと言えたし、喜んだと思うよ」
(実話です)




