三十六、灯籠機関
気づいた時にはもう、水鏡のように研ぎ澄まされた刃がきれいに半円を描いていた。畳を擦る足、ひらめく浅葱。沖田さんは私の前に立ち、軍服の手から刀を弾き飛ばす。
「…………なんで、あなたが」「話は後です」
鋭い視線はただ、目の前の軍服にだけ注がれている。
「ほう……満を持してのおでまし、か」
沖田さんの登場という予期せぬ事態に、少年は軍帽を目深に被る。その仕草はまるで、腹の底から静かに湧き上がる怒りを鎮めているかのようだった。
「狩野虎美とともに何やら良からぬことを企てているようだが、神獣の存在を秘匿していたことも、警備以外で現世に赴いたことも、忘れたとは言わせない――さあ……、弁解するなら今のうちだ!」軍服は、落ちた軍刀を拾うと同時に威勢よく雄叫びを上げ、ものすごい速さで間合いを詰めてくる。
「ッおきたさ――!」危ない、と、蚊の鳴くような声が口から洩れた。
しかしながら、私とコタローを庇う背中は微動だにしない。それどころか、
「……奇遇だな。僕も、雄心くんとは一度本気でやり合ってみたかったんですよ」そう、心底楽しそうに囁きながら、沖田さんは真剣を顔の横に構えた。……笑っているようで全く笑っていないその瞳に、ぞわりと鳥肌が立つ。
そうして――気付けば両者はどちらからともなく、足を前に踏み出していた。
鋼と鋼が容赦なくぶつかり合う音に、耳を塞ぎたくなる。思わずやめて、と手を伸ばしそうになるも、スーツに阻止される。……仲裁しようにも、おそらくこの緊迫した空間には誰も入れやしない。そんなの分かってるけど、でも。
スーツが無言で首を振る。……行っても無駄、か。よく見たら、握った拳が痙攣したようにガタガタ震えていた。どうすることもできず、その場に固まることしかできない臆病な自分に嫌気がさしてくる。
その時だった。ものすごい音がした。振り返ると御簾の先には、嵐のような一閃に吹っ飛ばされた沖田さんがいた。吹っ飛ばされた衝撃で、一瞬、ほんの一瞬、沖田さんが柄から目を離すやいなや、好機を得たりとしたり顔の軍服。軍刀の切っ先は、容赦なく白い鼻頭をかすめる。小さな呻き声が耳に入ってくる。
「沖田さん!!!」
私の声に反応したのか、沖田さんはピクリと眉を動かした。それが合図となったのだろうか。彼は意地を見せるがごとく、まだふらつく体を頑張って起こし、逆上がりの要領で宙を一回転して、軍服から距離を取ってみせた。
……それからの快進撃はすごかった。次も、その次も。沖田さんは軍服の攻撃を軽くいなしてしまう。
しびれを切らしたように、静寂に鳴り響く軍服の舌打ち。
「調子に乗るなよ、田舎侍の分際でッ」
「……どんなに泥臭くたって、田舎臭くたって、君に白星をあげる気なんてハナからありませんよ。なにせ僕は‘‘負けない‘‘剣術を叩き込まれてるんでね」
太い柱を白刃が突いた。しかし……それはただの沖田さんの身代わりに過ぎなかった。また狙いが外れてしまった軍服の眼球が、怒りとくやしさでグチャグチャに血走っている。が、沖田さんはこれにも動じない。浅葱色の羽織から放たれる冷ややかな闘気は、まさに強者のそれだった。隣でスーツが、ひゅ、と息をのんだのも頷ける。
瞬きの間に、軍服の襟元は三回も突かれていた。沖田さんの、凪いだ水面を思わせる流麗な剣さばきに、その場にいる誰もが言葉を失った。
最初こそ洗練されていた軍服の動きも、だんだん大振りになってくる。
もはや当たって砕けろ、と真正面から袈裟斬りにかかる軍服の考えなど、あらかじめ読めていましたよというふうに、沖田さんは間髪入れず刃を横から叩いた。
カーン、と軽快な音が鳴った。
「なぜだ……ッ、なぜ、勝てない!!!」形勢逆転。次々と繰り出される超人的な剣技の数々に、軍服が神経を磨り減らされつつあるのはもはや明白だった。
「筋は悪くないですが、あんな挑発を流せないあたりまだまだ青いってことかな」
そう、にこやかに言ってのけると、沖田さんは畳をダン、と、今までで一番強く蹴って――、そのまま、軍服を体ごと地面に叩きつけてしまった。
「かはっ」
たすき掛けの沖田さんは肩に峰をあてがったまま、暴れる軍服を取り押さえる。
圧巻だった。これが、これこそが、新選組一番組組長・沖田総司…………これまで自分が見てきた人懐こい笑顔など、全てまやかしにすぎなかったんじゃないかと思えるくらい、それは凄まじい豹変ぶりだった。
「お、のれ、よくも……っ!」
「――そのへんにしとけって。お上のお体に障りでもあったらどうする」誰かが御簾をくぐる。
……初めて見るヒトだった。緑のよれたジャンパーに、やつれた顔が乗っかっている。
その男が部屋の惨状を一瞥してため息をついた途端、ふたりの動きはぴたりと止まった。
「う。宗像、殿……この者、たちに、然るべき、処置を……」言い終わらないうちに男は両者の間にずかずか割り込んでいき、軍服にだけゲンコツを入れた。燃え尽きたように気絶した軍服を、たまたま近くにいたスーツが支える。厳しい表情のせいで分かりにくかったけど、寝顔は案外少年らしいものだった。
「ったくこの暴走機関車め。仲間割れはご法度だっていつも言ってんだろうがよぉ」
男は、スーツと沖田さんにまるで同情を求めるみたいに(ちょっとオーバーリアクションぎみに)、感情をこめて話し始める。
「沖田ももーちょい手加減してくれよな。幽霊とはいえ相手はピチピチのガキんちょなんだから」
「はあい」
「もしかしなくてもおまえ反省してねえだろ」
「いやあ滅相もありません」
「……んで? お前らが沖田家の秘蔵っ子かい?」
ひょろりと背の高い男が背中を曲げる。いきなりこっちに意識が向けられたので、思わずコタローとともに跳ね上がってしまった。
頭のてっぺんから爪先まで、文字通り舐め回すようにジロジロ見てくるものだから、いよいよ不気味に思えてきて、
「何か」と聞くと、宗像、と呼ばれたその男はあごひげを思案するようにゆっくり撫でていった。なるほどね神獣は勝手についてきた感じか、などとひとりでぶつぶつ言っている。
すると突然「浄玻璃の鏡よ、狩野虎美の咎を映し出せ」男の少ししゃがれた声が、部屋の真ん中に置いてあった大きな鏡に吸収されてゆく。
「…………え?」
「俺は、そこの二人みたいにまどろっこしい真似すんのは嫌いなんだよ」
鏡の中では、半袖のセーラー服を夜風にはためかせた私が、ひどくうつろな目をして突っ立っていた。
「おーおー、やってんなー」他人事のように、気だるそうな男の声。
耳鳴りがする。忘れかけていたあの日の記憶が、徐々に呼び覚まされてゆく。
動かない体。冷たい鉄筋コンクリートの感触。それから赤い、あかい、まるでトマト缶をぶちまけた時みたいに、額からは生臭い赤が噴き出てきて――
私は、自宅のマンションから飛び降りた。自分の意志で。
「……てなわけで鏡さん曰く、以上がお前の咎なんだと」
頭がぐるぐるする。は、は、は、は、と、苦しい胸を必死に押さえつける。
「トラ、だいじょうぶ……?」
「しゃんばらに来てから記憶が薄れつつあったようだが、現世で犯した罪はそう簡単には消えちゃくれねえ」
「つ、み…………?」
「灯籠機関なんて大層な役目を仰せつかっちゃいるが……まァなんだ、言っちまえばここは、明確な殺意を持って‘‘誰か‘‘を殺したロクデナシの掃き溜めなのさ」
無精ひげをさすりながら、リーダー風の男はどこかもったいぶったように、
「ある者は、竹馬の友を」口を引き結ぶ軍服を見る。
「ある者は、学恩の師を」今にも泣きそうなカーディガンを見る。
「ある者は、最愛の妻を」微笑を浮かべるスーツを見る。
「そして――ある者は、誠の武士を」沖田さんを見るも、その表情たるや、一切の無だった。
「はてさて、嬢ちゃんはいったい誰を殺したのやら……って、さっきの鏡を見りゃ一目瞭然だよなあ」
切なく鼻を鳴らしたコタローが、気遣わしげにこちらを覗き込んでくる。
……とっくに分かり切っていたはずだったのに。他人から、いざ面と向かって事実を突きつけられてみると、全身が粟立つような不快感に昏倒しそうになってしまう。
わたし、私は――他でもない、「私」を殺したから。そう思うと、地蔵をおぶさったように、背中が一気に重くなった。
停滞した空気に耐えかねたのか、それとも今の状況に一切関心がないのか、スーツが口を開く。
「ね、宗像さん。彼らの処遇についてお上はなんとお言いで? 出不精の貴方がわざわざこんなところに顔を出したということは……そういうこと、なんだろう?」
「そうだなあ。万年人手不足の灯籠機関の一員となって、しゃんばらの民のために貢献してくれ」
「それじゃあ彼女も例にならって」
「……と言いてぇところだが、肝心のお上があいにく本調子じゃないようなんでね。……おい。沖田、狩野、狐。せっかく来てくれたところ悪ィが、また出直してきてくんな」
「わお、分かりやすく放任主義! 僕も宗像さんの判断に口出しするつもりはないけれど、沖田くん一人ではさすがに面倒が見切れないんじゃないかい? そっちの九尾――神獣に関して言えば、別天地に預けたほうが何かと楽だろうし」
「そこらへんは持ちつ持たれつといこうや。未練の解消がうまくいけば俺らの余計な仕事も減るだろ。ま――天才剣士だろうがなんだろうが、誰だって副業の初めたては、狐の手も借りたくなっちまうものなのさ」男は気絶した軍服を起こさないよう、控えめにしっしと私たちを追い払った。
*
「知っててずっと黙ってたんですか」
「んー?」
「私が……現世で自殺したことですよ」
――帰路に着く途中で、かるま堂のだるま店主と鉢合わせた。どうやら私たちが朧車に乗せられ強制連行されているところを偶然目撃した彼のおかげで、大事にならないうちに沖田さんがかけつけてくれたようだった。
挨拶もそこそこに、私とコタローと沖田さんの三人は別天地を抜ける。
「そうだなあ……」
どことなく気まずい空気が漂う中、沖田さんがついに口を開いた。
「僕からしてみれば、そこに意思があっただけマシだと思いますよ」
答えにならない答えだったが、すぐにハッとなる。
私は想像する。病魔に侵され、志半ばで死んでいった若き狼のことを。彼の描いていた未来は、何ひとつ叶わなかったのだ。
みんなが大変な時に剣をふるうことも。
武士らしく自分で腹を切ることも。
新選組の終焉を見届けることも。
笑顔で故郷の多摩に帰ることも。
沖田さんの表情は、暗くてもうよく見えなかった。
「なーんて」急に小気味よい音がしたと思ったら、骨ばった人差し指でおでこをはじかれていた。
「神妙な顔しちゃって。もちろん半分くらいは冗談ですよ」
「なっ」自分のせいで人の地雷を踏み抜いたかと思ったのに……。
「でも、」明るい声を保ちながら、沖田さんが言う。
「――親より先に死ぬなんて、まったくトラちゃんはひどい子だ」
空を仰ぐ沖田さんの眼差しには、どこか寂しさがにじんでいた。
押し黙る私に、まあ僕もあんまり人のことをとやかく言えた立場ではないんですが、と、からから笑って見せる沖田さん。
……なんだよそれ。私のこと親不孝って言ったくせに。
「ふふ。ああそうだ、この場を借りて言うのもなんだかなとは思いますが、僕がついていながら、ふたりに怖い思いをさせてしまったこと、謝らせてください。……改めておかえりなさい、トラちゃん、コタロー」
ちゃっかりしていてずるいよなあと、心の底から思う。コタローが元気に九尾の尻尾を振った。沖田さんの眩しい笑顔を直視なんてしたら、安心してもう何も言えないじゃん。
だから。これは確実に、沖田さんのせいなんだ。
幼い私を新選組ゆかりの地に連れていくたび、彼らの勇姿について熱く語る――父の丸っこい背中を、思い出してしまったのは。




