三十四、気がつけばラビリンス
かっちりした軍服を着込んでいる短髪の青年の眉間に、みるみるうちにシワが寄せられていった。
「長旅ご苦労。よもや、道中で油でも売ってきたのではあるまいな」重々しく口を開くと同時に、組まれた腕にトントンとせわしなく人差し指が叩きつけられていく。見た限り、だいぶ苛立ちが募っていっているようだった。私はコタローと、ゆっくり顔を見合わせる。
「……上司の発言を無視するとは、いい度胸だ」
初対面(だと思う)にも関わらず、なかなかに偉そうな口ぶりに少しカチンときたので、ひとつ文句でも言ってやろうと思って……言いかけたのをやめる。
…………は? 上司?
その時だった。「――いやあ、待たせてすまない。雄心くん」
場に似合わず、のんびりと朗らかな声が牛車のほうから聞こえてきた。すかさず前と後ろとを見比べてみると、どうやら軍服の鋭い視線は後ろの彼へと注がれていたようで。
ズシャアア、と距離を取ると、その後ろの男性がゆっくり目を瞬かせた。
古めかしいけれど仕立てのよさそうな緑のスーツ。20代後半くらいに見えるこの人は、いったいどこから出てきたというのだろう。
思わずまじまじと見つめてしまう。するとスーツの彼はさっそく私の疑問に答えるように、胸ポケットからコームのようなものを取り出すと、
「あーあ。強風のおかげでせっかくのおめかしが台無しだよ。上に腰掛けていたから何度も落ちそうになったし、やっぱり俺も中に入れてもらえば良かったな」不満げに、外ハネぎみの髪を手際よく後ろに撫でつけてみせた。
「ねえ朧車ちゃん。次こそは君の自慢のボディに俺を乗せてくれてもいいんじゃない?」スーツが口説くように甘く微笑みかけると同時に。さっきまで牛車――だと思っていた、おどろおどろしい女の顔をした車は、音もなく消え去ってしまった。
「相変わらずつれないなあ」
ちぇ、と下唇を突き出すスーツの、独特な甘さのある声を聞いているうちに、私はあることに気づいた。
「――あの。私たち、前に会ったことがありますよね」
「なんだいそれは。君の時代のアイラブユー?」スーツがからかうように聞き返す。
まあ正確には、‘‘声を聴いたことがある‘‘なんだけど。……それも、背後から。
「質問にちゃんと答えてください。あなたは、屯所に忍び込んで私の意識を奪ったあと、あの車に私を乗せた。この狐を誘拐したのも、あなたなんですよね?」
スーツが、驚いたように目を丸くする。
「――わお。君、なかなか鋭いね! ひょっとして、知らないうちに沖田くんに鍛えられていたのかな?……でもねえ君、若いんだからそうカリカリしちゃあいけないよ。お兄さんたちはちょ~っと君たちに聞きたいことがあるだけだからさ。ねっ?」しかし悪びれるどころか、おちゃらけた感じでこう返された。
「はっ、あなたが無理矢理ここに連れて来たんでしょうが」
私の指摘に、スーツは困ったように笑うと。
Sh―――、と人差し指を唇にあてがい、でかめのウィンクを飛ばしてきた。キザったらしいことこのうえないポーズに、たちまちぞわりと鳥肌が立つ。本能に突き動かされるように、コタローをスーツから遠ざけた。
「時間の無駄だ、ついてこい」
私たちのやり取りにしびれを切らした軍服が、ため息混じりに橋をずんずんと踏み鳴らしていく。
「……ッ!」
「ごめんね」
屯所で誘拐されたときと、同じ要領で。ものの十、二十秒の隙に、すでにスーツの両手が肩へ乗せられていた。どこにそんな強い力を入れているのか、全く振りほどけない。こうして私は、得体の知れない男たちに半強制的に連行される形で、魔窟へと足を踏み入れてしまったのだった。
***
綺麗に飾られた花瓶からは、お墓参りで定番の白百合やら菊やらがこぞって顔を出していた。お墓特有のツンとした、冷や水と苔が混ざったような香りに、自然と姿勢を正される。
その、どこか平安京を彷彿とさせる立派な屋敷を歩いていると、さっきのスーツが、ここがお上のお膝元・別天地(以前、沖田さんに連れられて来たことがある)の中心部であること、事情聴取のため私たちを呼び出したことを、簡潔に説明してきた。
「わざわざ誘拐するくらい、私によっぽど大事な用があるのは分かりました。……でも、コタローは関係ないでしょ」
知らない人間に囲まれ、さっきから元気のないコタローをかばうように抱き上げた途端、今度は前からくつくつと低い笑い声が聞こえてきた
「何がおかしいんですか」私は、目の前で揺れる背中をキッと睨む。すると軍服は首だけをこちらに傾けて、静かに言い放った。
「貴様の生きた時代では、そのような面妖な動物が日中うろついているのが普通だったのか?」
コタローがさらに、九つの尾を縮こまらせたような気がした。あとほんの少しで舌打ちが出かかるところだったけど、コタローのつぶらな瞳がそれを制す。スーツは何を考えているのやら、薄ら笑いを浮かべたまま私たちについてくるばかりだった。
「……ね。ここから逃げよ、コタロー」太い木の柱の陰で、そうこっそり耳打ちする。
「そうだなあ……野山を駆けまわるみたいに、いっしょうけんめい走ったら、うまくいくかなあ……でも、トラはおいらについてこれる?」
「50m走8秒代後半の私をあんまり舐めないほうがいいよ」
例えが狐的にはちょっと分かりにくかったのか、コタローはきょとんと不思議そうに首を傾げた。まあでも最悪、コタローだけここから脱出してもらえればいいし。そうしたら屯所に戻ってきているだろう沖田さんに……っていやいや、何を考えてるんだ私は。
とりあえず、私たちに目もくれずにキビキビ進む真面目軍服さんには、あのまま進み続けていただこう。さて残すところは……いたずらっぽくひげを揺らしたコタローと、ばっちり目が合う。後ろのスーツがふわりとあくびをした、その隙を狙って。
コタローとふたりで息を合わせ、なるべく音を立てずに一目散に駆け出した。
パンを蒔かなくたって、自分が辿ってきた道くらいちゃんと覚えている。私はぜいぜい息を切らしながら、おそらく必死の形相でコタローにサインを出した。幸い、あの二人が追ってくる気配はない。それどころか、何度か曲がり角を急カーブしてもひとっこひとり見当たらなかった。
……これは、もしやいけるんじゃないか? ふたりで脱出、できるんじゃないか?
いいや、ぬか喜びなんてしたらそれこそシャレにならない。
拳を握り直し、ツラいけどなんとか速度を保つ。
「よしっ、もうすぐ出口だ……!」
コタローに、指で右!と指示を出す。いい感じだ。あの突き当りを曲がったら、大門にたどり着くはず。外にあった巨大仏像群が間近に迫ってきて、ようやく勝利を確信する。コタローといっしょに最後の一歩を踏み出そうとした、その時。
――ついさっきまで見えていた景色がまやかしのように、また見慣れた木造建築物へと切り替わった。
……あれ、もうちょっとだったのかな。
ところが、どんなに曲がっても、曲がっても。どういうわけか、何度も同じ場所に出てきてしまう。
「と、トラぁ、もしかして、出口忘れちゃったの……⁉」
なぜだかまた、外の世界がぐんと遠くなったような気がする。いや、やっぱりまだまだだったんだっけ? ていうかそもそも、平屋にここまで曲がり角ってあるもんなんだっけ? ここまでくるともはや、自分の記憶すら怪しくなってくる。
「コタロー。ちょ、ごめ……い、一旦、休んでもいい……?」
やっとの思いで声を絞り出しながら、私はその場に崩れ落ちる。もう、もう足が上がらない。さすがに限界だ。ふと隣を見れば、あの体力自慢のコタローですら、舌を出して苦しそうに喘いでいるではないか。
あがけどあがけど……これではまるで、蟻地獄だ。
「――どうだいおふたりさん、別天地特製ラビリンスから抜け出せなくなった心境は?」
金箔で鬼のような装飾が施された襖から、軍服とスーツが出てきた。ああ、見つかったのか。私はコタローとともに、がっくりうなだれる。
スーツのほうは、余裕そうにこちらへひらひら手を振りながら、言った。
「あはは、初心者さんはどつぼにハマっちゃいがちなんだよねえ。早く帰りたいなら、おとなしく俺たちについてきたほうが身のためだと思うけど?」
「まったく、無様なことだ」
なんと言われようが、もう反論する気力すら湧いてこない。
「……もしあのままさまよい続けてたら、私たちはどうなってたんですか」
「どうなるも何も、消えちゃうのさ。魂ごと、跡形もなく、ね」
さりげないウィンク、という名の脅し。……どうやら私とコタローには、しぶしぶついていくしか道がなさそうだ。




