三、命よりも大事なモノ
恐る恐る顔を上げてみれば、どろどろに皮膚が爛れた人間が、たしかに近づいてきているのが見えた。いや、それはもはや人間というより、ほとんど液体……
「ひ、いやああああああああっ!」
私はたまらず、襷上げされた着物の袖をひっ掴む。真剣を抜いた男は、こちらに振り向きもせず続ける。
「すみません。実は君と再会した時から、彼の気配をうっすらと感じていたんですけど……」
「いい! いいい今、そんなのいいから! あ、アレ、一体なんなんですか⁈」
「永い間、未練を思い出せなかったモノの成れの果てです。」
慣れているのか、平坦な口調だった。
「ああやって、自分がどこの誰だったか分からなくなり、世界を恨むだけの存在と化してしまうと、やがて此岸への干渉をも試みるようになるんですよ。ほら。怨霊って、トラちゃんの時代にもいたんじゃないですか?」
液体人間の黒い霧のような息吹が、ついに私にもかかってくる。
"怨霊"らしい液体人間は、目の位置すら分からないけど、なんとなく苦悶の表情を浮かべているような気がした。
私は覚えず、息を飲む。
どうしよう、どうしよう。私もあんな風に、死んでたら。
あの夜の記憶が、フラッシュバックする。
"痛い。苦しい。辛い。早く楽になりたい。"
そして。
『たすけて』
黒い息吹。生暖かい感触。
「だから、生者に危害を加える前に。ちゃんと僕が斬ってあげないとね」
違う、これは。
男が刀を、液体人間めがけて振りかざすーー
「ま、待って!」
男の両手に全体重をかける。刀が落ちた。さっきまでコロコロ変わっていた表情が、すっかり消えている。感情のない能面、みたいだ。介錯人さながらの氷のような視線が、私にだけ降り注がれた。
「退がれと言ったのが、聞こえなかったんですか」
足がすくむ。でも、ここで退いたら負けを認めるみたいで、なんとなく屈辱的だ。
「だ、だって。まだそんな、誰かに危害を加えたとか、分かんないじゃないですか! それにこの人、多分……ずうっとひとりで、泣いてたんです!」
私にかかった黒い霧のような息吹。あれはきっと、涙だったんだ。最初こそ怖いとは思ったけれど、怨霊にありがちな瘴気、みたいなものは、私にはよく感じられない。
「だから一旦。休戦、とか」
「……甘いよ」
一瞬の間のあと、男は雷のごとく、目にも止まらぬ速さで刀を握り直す。
(やめて!)
私だって自殺したから、人のこととやかく言える立場じゃないけど、消えるのだけが救いだなんて、そんなのあんまりだ。なんか違うじゃんか。寂しいじゃんか。
藁にもすがる思いで、ポッケから、湖で拾ってきた御守りを取り出す。
(もしもこの中に、神様がいるなら。どうか……あの人を、成仏させてくれませんか。)
体はとっくに、前傾していた。液体人間めがけて勢いよくダイブすると、胸にねじ込んだ御守りが、青白く輝き出す。
「ぅわ……っ」
淡く光った御守りの記憶が、濁流みたいに、私の中へ中へと入ってきた。
*
「ぱぱ! まりのプゼゼントしたおまもり、もう、もった?」
「ああ、もちろんだとも。まりのおかげで、パパは今日も安全に火を消せそうだよ」
「うれしいねえ! あのね、みんな、ぱぱに"あーとう"ってゆうよ。ほいくえんのこも、ゆってるもん!」
「本当かい? それはちょっと照れるなあ。でも、たまにはパパからも伝えてみるかな。せっかくだし。改めて、生まれてきてくれて"あーとう"、まり。」
「やたーっ!まり、ぱぱだーいしゅき! いってらっしゃい! きをつけてね!」
やっぱり、あのぼろぼろの御守りは、この人たちのもので間違いなかったみたいだ。私はほっと胸を撫で下ろす。
三歳くらいの女の子と、生前の液体人間……あるいは、男手ひとつで立派に子供を愛し抜いた、優しい消防士さんの家庭。
お父さんを見送る小さな手が、なんとも愛らしかった。
「おはようまり。メシ、食べられそうか?」
「……いらないって言ってんじゃん! 早くどっか行ってよ!」
「ごめんな、まり。今日こそはできるだけ、早めに帰ってくるから。ごめんな。行ってきます」
「…………」
突き放す感じ。身に覚えがある、と思った。これはきっと、子どもが成長する上で避けて通れない、反抗期だ。ズキリと、胸が軋む。
父娘の絆ほど、もろいものはない。そう、頭では理解しているはずなのに。
追い打ちをかけるように、不幸は重なる。その日は娘の誕生日で、早く帰ってあげたいと思ったお父さんは、普段はしないようなミスをしてしまったみたいだった。
炎に包まれた瓦礫の中、私の意識も一緒に、少しずつ遠のいてゆく。
(熱い、煙たい、寂しい、会いたい、ひとりは……寂しい)
「あんまり、構ってやれなくて、ごめんな。ごめん、ごめん、ごめんな……だい、すきな、まり……」
そのぼろぼろの御守りは、いつだってお父さんの運命共同体だった。彼は最期の瞬間まで、大事な娘からもらった、という事実を必死に守ろうとーー
唇を噛む。鉄の味が、口いっぱいに広がった。私にも何か、出来ることがあるんだとすれば。
「……いって、らっしゃい」
彼の愛した娘の代わりにはなれないけれど、私はただ、静かに呟く。消えゆくお父さんの体を、力いっぱい抱きしめて。消防服を見にまとった彼は、最期まで精悍な顔つきで、立派だと思った。
それが、今のところ私が思い出せる、最後の記憶。