二十四、桜色の砂浜の下、非家の苦悩。
蓮見湖までの道中、永井さんは身振り手振りを交えて、いろんなことを語っていた。
「……それで、学生時代はずいぶん悪さばかりしていたから、小生たちはいつしか、ダブル修治と恐れられるまでになったのですよ」
太宰君は小生のよき友でありながら、よき理解者でもありました――大切な宝物を慈しむかのようにため息をつく永井さん。口元には、恍惚の表情さえ浮かんでいた。
太宰治――本名、津島修治。てっきり、「太宰治」が本名なのかと思っていた。私は国語の時間、基本的に居眠りをしていたので、よほど地獄耳、ましてやマニアでもなければ、そんな知識蓄えられるはずもなかったけれど。
「へえ、つまり気の置けないご友人ってわけですか。なんだか羨ましくなっちゃうなあ」
「ええ。酒も女も、みんな太宰君から教わりましたから」
おおう……。
私は二人からすすす、と距離をとる。なんとなく、悪友のほうがしっくり来るような気がする……のは、考えすぎだろうか。
「着きましたよ」
水面に、まるで生まれたての雛みたいな永井さんの顔が映る。絵に描いたように不思議そうな顔をしていたけど、まあ無理もない。今日も今日とて、蓮見湖には両手いっぱいにも抱えきれないほどの‘‘落し物‘‘が浮かんでいたのだから。
「――さあて、みんなで永井さんの未練を手当たり次第探しましょう!」
えい えい おー、と、コタローがぷっくりした肉球を振りかざす。私はがっくり肩を落とす。
この中からか……この中から……
今日に限って一段と"落し物"が多い。はてしない作業になりそうなのはすでに目に見えていた。
とほほ……うなだれる私の肩を、沖田さんがポンと軽快に叩いた。
*
「トラちゃあん、そっちはあ~⁉︎」
「特に、何もーっ……!」
顔を上げれば、限界まで袴を折った沖田さん。あと少しで、半身が湖に沈んじゃいそう。
もう、とっぷり日が暮れていた。さっきまで威勢の良かったコタローはしょんと耳を垂れ下げている。視界も悪くなり始め、ここらで潮時かと思われた頃だった。
(……これって)
突然私の前に現れたそれは、チケットケースだった。水滴のまとわりついた手を払って、中をのぞく。そこには『埋もれた名作展』と記載されていた。
裏面には、文学館の住所が――。
チケット片手に、私は困惑する。だって、こんな都合のいいことってあるだろうか。
正直そう思っていた。
「其れは、切符でしょうか……?」
永井さんが、背後からぬっと顔を出すまでは。
しぶしぶながらも、私はチケットを彼に差し出した。永井さんの目に、みるみるうちに光が灯ってゆく。その輝きがまるで、「行きたい」と訴えかけているようで。
すると沖田さんは、嫌味なんてみじんも感じさせないほどに、こんなふうにあっけらかんと言ってみせた。
「ほほう永井さん。己が鬼才であると、そういう自信があるんですか」
「っ……!」
けっこう痛いところ突いてくるよなこの人――私はすっと目を細める。沖田さんの言う通り、このチケットが本当に永井さんと関係のあるものなのかは分からなかった。たまたまそれっぽいものを見つけただけで。
「拙作は……日の目を見なかっただけで、世が世なら……きっと、きっと……」
永井さんは、何か言いたげに、けれども、ただ静かに首を振っていた。
「自己弁解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。――」
気が動転した結果まさかのポエム? 勘付かれないよう、心の内でそっと毒づく。
「……いきなりどうし」
しずくがチケットに大きなシミを作ったのを皮切りに、チリリ、と白い靄みたいなものが頭をよぎっていった。
*
重い瞼をこすれば、夕空の下には男性らしき姿があった。
ここ、どこだ……? 私はちらちらあたりを見渡す。
『修治、か。うふふ、そうだ……好いことを思いついた』
目の前の‘‘彼‘‘の頬に、斜陽の影がさしかかった途端、寄せては返す波のように、心の奥がざわめいた。
(私の記憶?……ううん、違う)
別に、嬉しくもなんともないはずだった。
ただ、どういうわけか、さっきから変に胸がどきどきしていた。けっして惹きつけられてはいけないのに、不思議な引力に抗えない――例えるなら、そんな感覚。私は、勢いを増した花吹雪に、とっさに目を瞑る。校庭には、みごとな桜の砂浜ができあがっていた。
『この名を君に――くれてやる』
すごく皮肉めいていて、けれどどこか穏やかさを孕んだような声音。
誰だろう、この人は。どうしてこんなに、懐かしいんだろう、苦しいんだろう、泣きたくなってくるんだろう――だんだん、意識も輪郭もはっきりしてくる。
背格好や雰囲気は永井さんとよく似ている。でも、今脳内に浮かび上がっている彼はきっと永井さんじゃない。それだけは、なんとなく理解できた。