二、月夜の野良猫
転生しても、私はーーぼっちのままなの?
私は一人、湖のほとりで拾った、ぼろぼろの御守りに話しかけていた。この御守りが誰のものかは知らない。でももし、中に神様がいるのならちょっと問いただしてみたい気もする。
水でも飲めば、少しくらいは空腹を紛らわせるかもしれないと思ったが、どうやら逆効果だったみたいだ。湖にぼうっと佇んで独り言……今の私、どう取り繕ったってイタイ奴にしか見えない。
こんな体たらくでは、また、甲高い声を出した女子たちから後ろ指を指されてしまうだろうか。
水面に、一筋の月光が差す。湖全体が明るい緑色に変わりかけたその瞬間、私の全身から、一気に血の気が引いていくのが嫌でも分かった。
「え」
そこはかとない、違和感に似た恐怖がーーじわりじわりと、私を蝕み始める。
"本当はもう、分かってるよね?"
うるさい、うるさい、うるさい。動悸がまるで止まらない。私は思いっきり、胸を抑えつける。
街を行き交う灰色の人型。露店に並ぶ、箸の刺さった山盛りのご飯。
昼でも夜でも充満している、線香の香り。
刹那、水面に映る、短い髪をうねらせた女に睨まれる。眼が、ギョロッとしていて気持ち悪かった。
生前の、私。
(私は私のまま、異世界に来ちゃったの?)
おまけに半袖のセーラー服は、あの夜……自殺実行時にも、着ていたものだった。
じゃあここは、今いる場所は多分、テンプレ異世界なんかではなくーー。
「……死後の世界、だったんだ」
私がうずくまったのと同時に、背後の茂みのほうから、がさがさ音がした。体がこわばってしまっているのか、上手に首が動かせない。
代わりに、蚊の鳴くような情けない悲鳴が漏れた。
「だ、だれ」
「こんばんは、どろんこ野良ちゃん。」
場にふさわしくない、びっくりするほど穏やかで、間延びした声。
ああ、なんだと騙されたような心地がした。
「あなたって、死神なんですか」
なぜかしばらく続いた沈黙が、いやにむずがゆい。ロン毛男は私を叱責するでもなく、かといってなぐさめるわけでもなく、私の隣を陣取って、言った。
「…………ふっふっふ。よくぞ気づいてくれました! そうです。僕、死神なんです。ちょうどお腹を空かせていたところ、迷子の君を見つけてしまったものだから。はあ、僕は実に運が良い。子どもの魂はねえ、みずみずしくって、格別に美味しいんですよ」
だとすれば、私から執拗に未練を聞きたがる理由や、現実離れした容姿にも、およそ合点がいく。腰に差した刀だって、きっとそのうち魂を刈り取る鎌へと早変わりしてしまうのだ。
「それでは早速。君には未練も無いようなので」
先ほどとは打って変わって、男は抑揚のない声で、日本刀ならぬ死神鎌に手をかける。
なんかもう、どうでもいいや。
私は観念して、両目を瞑る。どうせ異世界転生できないんだし、ここで殺されてもいいや。
ところが。
私の額にできたのは、物騒な刀傷ではなく、大きめのデコピン跡だった。
「……んっふふっ、あはははっ!」
置いてけぼりの私をよそに、男は両手を叩いて大はしゃぎしている。
「なーんてね♡ 残念ですが、少なくとも僕は、君の想像しているようなモノではありませんよ。」
死神じゃなかった? それなら。
「やっぱりただの変質者……」
ドン引きした私はそそくさと逃げようとするも、男にセーラーカラーを掴まれてしまい、計画はあえなく失敗に終わった。さすがに、二度も同じ手には引っかかってくれないらしい。
「こーら。野良ちゃん、勝手にお外を歩き回ったらいけないでしょう? 夜の街は危険なんですから」
手元でじたばた暴れる私がそんなに愉快なのか、男は目を輝かせて、まるで内緒話でもするかのように囁いた。
「そ・れ・に。野良ちゃんみたいなのは特に、彼らの大好物でしょうしね」
「は……彼ら?」
「この地、しゃんばらには出るんですよ」
「何が」
男は私の問いかけに答えもせず、ただただにまーっと笑って、私の手を引いて歩き始めた。
「ちょっと、離して! っていうか結局、あなた何者なんですか!」
「しーっ! 細かい話はあとあと。それより野良ちゃん、今夜は僕から絶対に離れないようにしてくださいよ。彼らは今でも、耳をそばだてているんですから」
私は、ポッケに入れたさっきの御守りを、いっそう強く握りしめた。けっして、脅しに怯んだとかじゃない。
*
がらんとした洞窟からはまた、水が滴り落ちてきた。
「よしよし、この辺りで良いですかねえ」
じめっとして薄暗い洞窟。ちょっと角度があるから、比良坂だなんて言われているらしい。私の記憶が確かならば、そういえばこの世界(シャンバラ?)に来て一番最初に見た光景だったかもしれない。
「そうだ、念には念を入れておかないとね。改めて、野良ちゃんは僕の側を離れないように」
「……」
「野良ちゃん? おーい、野良ちゃんってば。ちゃんと聞いてますか?」
「……あの! いい加減、その野良ちゃんって呼び方やめてくれませんか」
不快。恥ずかしい。しかし男は開き直った様子で、私をまじまじと見つめてくる。
「え〜。だって君がいつまでも名乗らないから、仕方なく野良ちゃんって呼んでるんじゃないですか」
「それがいらないお節介なんです。……どうしてもって言うなら、せめて野良じゃないのにしてください」
不満そうに尖った、桜色の唇が私に向けられる。次の瞬間、男は名案を思いついたとでも言わんばかりに、私の両肩をぽんと叩いた。
「分かった! 僕に本名を当ててもらいたいんですね? なあんだ。それならそうと早く言ってくれれば良かったのに。全くもう、野良ちゃんってば、恥ずかしがり屋さんで困っちゃいますねえ」
私はもう、何も言わんぞと決めた。
「うーんと、そうだな。シロ、クロ、チビ、タマ、ミケ……」
よりにもよって、なんで全部ピンポイントにしてくるんだろう。猫っぽいのは意地でも譲らないのか。
ジトーっとした私の目と、ガラス玉みたいに澄んだ男の目が合う。
「トラ!」
自信ありげな声に、不覚にも私の耳はぴくっと反応してしまう。
「お? 当たりかな。じゃあ、キジトラのトラちゃんでいきましょうか」
「ななっ、私にはちゃんと、狩野 虎美って言うれっきとした名前が!」
私は急いで口をつぐむが、もう遅い。ああ終わったなと思った。得体の知れない男相手に、すっかりぼろを出してしまった。
切長の目で弧を描きながら、男は言葉を覚えたての幼児のように、トラちゃんトラちゃん連呼してくる。
「だ〜〜ッ! よくないです、全然。」
人の気も知らないで。
狩野虎美。狩野永徳じゃんとか、青狸の妹じゃんとか、こっちは今まで、何かと苦労してきたのに。
「そうですか? 僕は好きだけどなあ、虎美。」
いかにも、打算なんて一才ありません!みたいなセリフに、私はうげーと後退りした。思わず、砂糖を吐きそうになってしまう。きっとヤツは、プロのジゴロか何かなんだ。こんなふうにさらりと言ってのけるところとか、もはやだんだん腹が立ってくる。
「だいたい、私は! 名前なんーー」
静かに、と合図された途端、私の体は、まるで凍りつきでもしたかのように動かなくなってしまった。
一瞬……ほんの一瞬。すっと細められた男の両眼からは、明確な殺意が感じられた。瞳の中で、青い炎が揺れている。
「……トラちゃん、退がって」