十七、看板狐・コタロー
青白い光の中、狐はふわりと浮き上がる。
「もう……平気、なの?」
私の問いかけに、狐はただ、全てを悟ったように薄く笑った。
沖田さんも、私も、そのさまをまっすぐに見守っていた。
「沖田さん特製のいなり寿司は? さいごに食べてかなくていいの、本当に……」
自分でも、もはや何を言っているんだかさっぱり分からなくなってしまった。引き留めなんてものはきっと、足枷にしかならない。頭では充分理解しているつもりだった。
(らしくないな……)
一体どうしちゃったんだろう。普段の私なら、こんなの慣れっこだったし、誰がどうなろうが、知ったこっちゃなかったのに。
「ーーあっ、」
けれども、時間は私を待ってはくれない。
だんだん、光の球が狐の体を覆い始める。
「ま、待って!」
「トラちゃん。」
沖田さんが、静かに首を横に振った。
追うな、そんなふうに咎められている気がした。
「っ……」
そのまま、
狐は線香花火のように消えーーなかった。
私の手の中に、もふもふがしゅたっと舞い降りる。
「「え」」
沖田さんと私は、ばっと顔を見合わせる。勢いあまって額どうしをぶつけそうになってしまった。
『最期にもう一度、あったかい匂いに包まれたい。』
なんで、声が上ずる。
見当違いじゃなければ、狐の未練はもう解消したはずだった。それなのにどうしてーー
さっきまで一本だった尻尾は、気づけば九本にまで増えており、雰囲気もどことなく妖しくなっている。
まさか、怨霊化を食い止められなかったとか?
「ーーおやまあ、神獣に昇華したんでしょうか。」
呆然とする私をよそに、沖田さんは「こりゃ滅多にお目にかかれないぞ。」見物客のごとく目を輝かせる。
「うん、あのね。助けてくれたトラと総司に、おいらやっぱり恩返しがしたくなったんだ!」
突然輝く牙を見せつけてきた狐に、思わず腰が抜けそうになった。
知らないうちに、喋れるように、なってたなんて。
「そんでねそんでね、いつかここに来るかもしれないお母ちゃんを待つんだー!」
でも。私はごくりと唾を飲み込む。
「そ、れは」
(死んでから何十年も経ってるなら、母狐はすでに……)
私の疑問を見透かしたかのように沖田さんが口を開く。完璧すぎるタイミングだった。
「無理な話ではないですよ、魂として目覚める時期には個人差がありますから。」
時期ずれ……タイムラグがある、ということだろうか。
そうだと言うなら、ここに来る以前の魂はなんだ、"まっさらな無"だとでも?
実は、私がこうしている間にも、現世じゃ何十年も経ってた、なんてこともあったりして。
(なんか浦島太郎みたい)
可能性がゼロでないならむしろ、そのほうがいいのかもしれないとさえ思えてくる。
堂々巡りしたところで何も得られないのは熟知しているが、私はあ、と声を漏らす。
ひとつだけ、引っかかることがあった。
死んでからのタイムラグがある。
それなら。
沖田さんは、いつーーしゃんばらにやって来たのだろう。
「あの、」
思えばずっと、違和感があった。沖田さんは常に笑顔を貼り付けているのに、自分自身のことなんて、まるでどうでもいいみたいに、進んで語ろうとはしてくれない。
「沖田さんは、いつからここに」
「さ、トラちゃん。」
これ以上話を引っ張りたくないとでも言うように、沖田さんは新たに口火を切った。
「そろそろ行きましょうか。お客さまが待ちくたびれてるかもしれません!」
笑顔の裏には隠したいことの一つや二つ、あるということなんだろうか。まあ私とて、無理に教えろなんて酷なことは言わないけど。
頭で手を組んだまま、沖田さんが続ける。
「せっかくです。お狐さんの名前、トラちゃんが決めていいですよ」
ーーお狐さんも僕らに着いてくるんでしょ?
悪戯っぽく、笑ってみせて。
「じゃあ…………」
とりあえず、なんとなくの直感でも大丈夫だろうか。
記憶もうっすらだが、ペットを飼うならこんな名前がいいという候補が、いくつかあったような気がする。
父が犬猫アレルギーだったから、それらが採用されることはなかったけど、今になってようやくチャンスが巡ってきたーー
「よろしく。"コタロー"」
私が命名するとコタローは、九尾を嬉しそうにぶんぶん振りまくっていた。
「あっはっは、結局犬っぽいのに落ち着いちゃいましたね。ここほれワンワン!」
沖田さんの下手くそな鳴き真似にコタローが噛みつくのは、もう数秒あとのお話。