十六、孝行狐の家出
「まさかーーッまずい!」
沖田さんが、必死の形相で私の腕をつかんだ。体はビュウと跳ね、切り裂くような風が頬をなぶる。彼の手に引かれ、うっそうとした木々の間を一気にくぐり抜ける。仄暗い山は、瞬く間に後ろへ流れていった。
「どうしましょう沖田さん、狐っ、なんで……こんな……ッわたし、わたしどうすれば」
訳もわからず、壊れた機械のようにひたすら繰り返す。沖田さんはそんな私に振り向きもせずこう告げた。
「今はとにかく、屯所へ急ぎましょう。応急処置しかできませんが、それでもほんの気休め程度にはーー」
前をゆく沖田さんの言葉を遮るように、
狐は口からーー大量の血を吐き出した。沖田さんはたちまち、苦虫を噛み潰したような表情になる。
「……く、やはり怨霊化が進んでいましたか。十年、二十年……いや、それ以上かもしれない。僕らがもっと早く気づいていれば……!」
暗闇の中たしかに聞こえたのは、悔しさにわなわなと震える、拳の音。
ふと、沖田さんの冷徹なまでに研ぎ澄まされた瞳を思い出す。
永い間未練を思い出せないと、やがて怨霊化してしまうーー
私ははたと気づく。
しゃんばらにおいて何より重要なのは、未練の"自覚"。だから、未練を解消しようがしまいが個人の勝手……そのはずだった。
だけどそれは、つまるところ安い保険みたいなものでしかなかったのだ、と。
どんなに思考を巡らせても、狐は苦しそうに喉もとを掻きむしるばかりだ。
「くそ、もう時間がない。かくなるうえは!」
沖田さんが着物をまさぐり始める。ぜい、ぜい、と息を切らしていた狐の呻きは、さらにひどいものになっていった。
「し、しっかり!」
私はたまらず耳元で叫び、狐を強めに叩く。
「はっーー」
と、何かを悟った様子の沖田さんに、
「トラちゃん、そのままで!」
私はただ、勢いのまま顎をひく。狐をゆさぶる両手に、いっそう力を込めた。
(まだ、助かる可能性が、少しでも残ってるなら。)
頬を、思いっきり撫でてやる。
「ーー大丈夫。私がついてるから、いい子だから、お願いっ、目を覚まして……!」
それが私にできる、精一杯の祈りだった。
私に被せるように、沖田さんがふーっと、懐にしのばせていた風車を吹きかける。
すると、それまでの狐の苦悶の表情が、みるみるうちに安らいだような表情に変わってゆく。
やがて狐は、淡く光り出してーー
*
狐のぼうやは、今日も元気に野山を駆け回っていた。
小川のせせらぎ。鼻先をくすぐるちょうちょ。
きゃっきゃと自由に飛び跳ねるだけで、お母ちゃんが天真爛漫に笑ってくれる。ぼうやはそれを見ると、どういうわけか、たまらなく嬉しくなった。
「お母ちゃんのにおいが一番すき!」
「あらあら。もう赤ちゃんじゃないのに、しょうがないぼうやだねえ。」
そうは言いながらも、お母ちゃんはぺろぺろ、ぼうやを舐める。ぼうやにとっては、ずうっと昔から、お母ちゃんに頬をすり寄せる時間が、何よりの幸福だった。
お父ちゃんは昔、猟師に撃たれて天国に行ってしまったらしいのだけど、ぼうやは優しいお母ちゃんさえいれば、へっちゃらだった。
それに、ぼうやにはもうじき、弟か妹ができるのだ。だからこそ、いつまでも甘えん坊のままではいられない。
(お父ちゃんの代わりになって、お母ちゃんたちをささえるんだ!)
それは小さなぼうやの、大きな大きな夢だった。
弟が生まれてからはもう、毎日がてんてこまい。いたずらっこの弟は、言うことなんて全く聞かないし、お母ちゃんは、長年の無理がたたって病気がちになってしまった。
「にぃに、いってらっちゃい……?」弟が、おもむろに首を傾げる。お兄ちゃんのぼうやはそれに、優しく頷く。
「いってきまあす」
「ごめんねえ、私の可愛いぼうや。無事に帰ってくるのよ。」
前よりちょっとだけ体が大きくなったぼうやは、今日も今日とて狩りに出る。
大黒柱として、餌のとれない家族のために。
ある程度歳を重ねた長男狐なら、誰だってそうする。頭ではわかっているつもりだったのに、たまに少し、胸がきゅうっとなることがある。だけど、それにはなぜか、気づいてはいけない気がしていた。
ぼうやにだって、時には調子の悪い日もある。
(今日はミミズと木の実だけ……)
「ただいまぁ」
しゅんと肩を落としながら帰宅すると、眼前には、信じられないーー信じたくない光景が広がっていた。
ぼうやの大切な木の棒を、弟が力任せにがじがじ噛んでいたのである。
「にぃに、おかえりい〜っ」
舌ったらずにそう言って、無邪気に笑う弟。
かっと、頭に血が上ってゆくのを感じた。
(返せよ‼︎)
気がついた時にはもう、ぼうやは弟に、噛み付いてしまっていた。
きゃうん、から始まり、しだいに耳をつん裂くくらい大げさになる泣き声が、山中にこだまする。やってしまった、と思った。
でも、でも、どうしても譲れなかった。
たしかに、ぼろぼろの棒切れであることに変わりはないけれど、これは、ぼうやがまだ赤ちゃんだった時、お母ちゃんからもらったものだったのだ。
「お母ちゃん、いたいよう! にぃにがね、いじわるするの!」
「お母ちゃん、ごめん。でも仕方なかったんだよ。だってあれはーー」
「何やってるの! あなたお兄ちゃんでしょう、少しは我慢できないの‼︎」
見たことのない顔だった。目を三角に吊り上げている。
怖い。こんなお母ちゃん、知らない。
ぼうやはたまらず、棲家を飛び出した。
走れば走るほど、だんだん腹が立ってくる。弟はもちろん、母も母だ。ふたりとも、ぼうやの話に耳を傾ける気はなさそうだった。まったく、いったい誰が、家族を支えてやってると思ってるんだ。
(もう絶対に、あんなとこ帰ってやるもんか)
「ふんだ、餓死しても知らないぞ!」
割り切ってみれば、あとは楽ちんだった。
何事も経験だと、たまには住宅街のほうに出てみる。そこはまるで、天の国のようだった。田舎臭さが全然無くって、食べるものにも困らなさそうで、とにかく毎日が新鮮で。
一週間くらい過ごしてみて、さてどこのお金持ちのペットになってやろうかと思い始めた時だった。
がらがらがら、と、何かがぼうやに近づいてくる。反射的に、身を屈めた。
「ん……?」
よく見てみればそれは、仲睦まじい親子の姿だった。
若いお母さんがにこーっとすると、乳母車の中の赤ちゃんもにこーっ。
あぶぶ、と、こちらに気づいた様子の赤ちゃんが、手を伸ばしてくる。
ぼうやはめいっぱい首を振り、駆け出した。
(いいなあ……。)
そんなふうに、思いたくなかった。寂しいのを、認めたくなかった。
だけど。
まだ、間に合うかなあ。
もしかしたら、ぼうやのことなどとっくに忘れてしまっているかもしれないけれど。
お母ちゃんたちは今、何をしているんだろう。捕まえたネズミを持って行ったら、喜んでくれるかな。「ぼうや、よく頑張ったね、いい子だね」って。そう、言ってもらえるといいなあ。
貧しいけれど心豊かな野山での日々を思い出すと、なんだかたまらなく切なくなってきてしまった。早く帰りたい。そうだ、今まで何してたんだろう。長い間馬鹿なことしちゃった。
さ、とにかく帰ろう。ふたりが帰りを待ってるはずなんだから!
そうしてぼうやは勢いよくーー往来の激しい車道に、体ごと飛び出した。




