一、死人に口なし
※自殺をほのめかす描写がございます。苦手な方はご注意ください。
今ならワンチャン、異世界転生できるかも。
一縷の望みをかけ、早いとこ暗闇に呑まれてしまおうと思った。
大丈夫。きっと成功させてやるんだから。
きゅっと、つま先に力を込める。
*
自殺実行前夜、枕元に面白そうな小説を忍ばせておいた。
「人生ドン底のだめニートが、トラックにはねられた後、チート能力でサクッと魔王軍を全滅させて、そんでもって可愛いエルフと結ばれちゃったりする」ヤツ。
小さい頃、大好きなキャラクターたちが出てくる絵本を枕元に隠しては、夢で彼らに会う、というのが日課だった。
とはいえ、私ももう十七歳。子どもじみたおまじないなんてとっくに忘れたはずで、現実と非現実の分別くらい、ついてるつもりだった。
なのに。さいごのさいごに縋ってしまったんだから、やっぱり私は馬鹿だったんだろう。
いっそ、ラノベや絵本の勇者たちみたいに世間知らずなままでいられたら。
もうちょっとだけ……私も楽に生きられたのかな、なんて。
気だるさを演出するべく、いつもみたいに重いため息をついて、静かに瞳を閉じる。仕方ないけど覚悟は決めていた。
足場のない階段を、勢いよく駆け降りる。
「さよなら、"ぶりっ子女豹"ちゃん。」
突風が、私の首すじを噛んでゆく。先月、髪をばっさり切っておいて正解だったかもしれない。お風呂あがりに扇風機を浴びているみたいで気分がいいし。
そのうち、脳のずうっと奥のほうから、ぐしゃとか、ばきとか、聞いたことのない音が鳴り始めた。
動かない体。冷たい鉄筋コンクリートの感触。
トマト缶をぶちまけた時みたいに、額からは生臭い赤が噴き出てくる。
きっとこれが。
私の、最期の記憶。
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つんつん、つんつん。
「ほらほらァー。さっさと名乗って未練を教えてくれないと、野良ちゃんって呼んじゃいますよ?」
「……」
私はふいとそっぽを向いて、さりげなくあたり一面を見渡す。黄金の提灯に、広大な山の斜面をびっしり覆う赤々とした東屋。チベットを思わせるその街並みは、たしかに異世界っぽくて幻想的かもしれない、が……。
目の前の男が手にした猫じゃらしもどきは、さっきから私の鼻を、のんきにくすぐるばかりだ。
その萎れた花みたいなの、どこからどう見ても猫じゃらしじゃありませんよね?と言いたくなるのをぐっと堪える。限りなく彼岸花に近いような気もするが、当の本人はいたって気にしていない様子だし。私とて、これ以上事態がややこしくなるのはごめんだ。
まさか転生早々、見ず知らずの推定成人男性に猫扱いされるとは、思ってもみなかった。
腰あたりまでのポニーテール、加えてヴィジュアル系の顔面、開口一番に君の未練は本名はと、コイツはきっとそうーーまごうことなき、変質者なのである。
なんだか、頭が痛くなってきた。
花粉に反応したのか、男は盛大にくしゃみをする。もちろん、私にも唾がかかった。異世界人のくせにまったく、風情もクソもない男で困ってしまう。私は多分、最初に出会うNPCを間違えてしまったんだろう。
私は"わざとらしく"肩を落としてみせ、バラック小屋のさらに奥へと身を潜ませた。
隙間風に、むわっとした匂いが溶けている。どこかで嗅いだことのあるような、懐かしい匂いだ。でも、何の匂いだったかは、今のところさっぱり思い出せない。
銭湯? 古本? おひな様?
ううん、違う。もっとこう、煙たい感じの。
そうだ。
「ぶつ、だん……」
「ん? ああ。ここら一帯の、梔子の香りのことですか」
暑くなってきたのか、それとも一向に質問に答える気配のない私に呆れたのか、男はさして興味もなさそうに、着物をたすき掛けし始めた。
(ひょっとして。チャンス、かも)
気がつけば、全力で走り出していた。背後から男の呼び声が聞こえてきたが、私はあえて無視をする。潰れかけの屋根が崩壊しようと、それすらお構いなしで。
なんてったって、ロン毛の優男は怪しむべしと、昔から相場が決まっているのだから。
*
……さすがに撒いたか。
注意深くあたりを観察してみても、やっぱりロン毛男はいない。
全身からどっと力が抜けて、私は石階段にへたり込んだ。とりあえず、暫定変質者から無事逃げおおせることができて良かった。これでやっと、やっと、朗らか異世界ライフを満喫できるーーのかなあ。
ふるふると、灯火がいっせいに揺れ出した。黄金の提灯は、さっきよりもずっと高くに昇っていた。私は反射的に、二の腕をさする。
この世界にも、ちゃんと夜はあるんだ。
なんだか嬉しいような、寂しいような。私を見守り続ける月は、どんなに綺麗だろうが、けして孤独に寄り添おうとはしてくれなかった。
まるで「アジアの古都、まるごと全部まとめてみたよ!」……って感じ。ごちゃ混ぜにすればいいってもんでもないでしょう、厳かなシャチホコをのっけた黒い瓦屋根を横目に、ふとそんなことを考えてみる。
"めしや"とかろうじて読めるボロボロの看板に私は釘付けになるが、慌ててよだれを引っ込めた。
だって、無銭飲食なんて試した暁にはきっと、私は豚にされてしまうんだろう。
二度も死んだら元も子もない。あんまり気は進まないけれど、鳴り止まないお腹を満たすためにも、早急に働き口を探さねば。私はまた、踵を返してよろよろ走る。
私はこれから、どこへ向かったらいいのかな。
一抹の不安を消し飛ばすように。耳にこびりついて離れない二胡やら琵琶やらの妖しげな演奏を振り切るように、ただ走った。
(……お化け音楽。)
独特の哀愁漂うこの街からは、容易に木魚が連想できた。全部、お葬式のコマーシャルで知った音色だった。