第一章『あの夏が飽和する。』
私は目を覚ましていた。それは酷い夏の日であり、私の人生の中で最初で最後の最悪な日であった。これは私の記したある一日の日記である。作業記録にも似た本を今まさに開こうとしている。
私はどうすれば良いのか分からなかった。このまま眠ってしまえば何もかも忘れてしまうことができるであろう。現実から背くことだって出来るであろう。私はひどく疲れており、このまま起きることが苦痛でしかなかった。
目を覚ますのに時間がかかっていた。眼球は動いているのか、瞼は今まさに開こうとしていた。首筋に汗が流れている。空気もジメジメしており、今世紀最大の夏が到来していた。扇風機は誰に対して向けているのか、アサッテの方向に風を送っていた。
暑い夏であった。私はこの街が熱で溶けると錯覚してしまうほどであった。溶けているのは私の方であろう。身体のいたるところが火を消した後の蝋でも触ってるかのように気味が悪くなっていた。このまま私という存在は消えてなくなってしまうのであろう。
ライフゲージを覗いてみると緑→黄→赤へと移り変わっていた。そろそろ目を覚まさないと死んでしまいそうになる。水が欲しい。保冷剤が欲しい。エアコンが欲しい。私は短冊の紙を準備することだけを考えていた。そうすれば少しだけこの世界で息がしやすくなるであろう。何もないはずの一日が少しだけ花を咲かせることができるであろう。
私はようやく身体を起こして、拘束器具に近いベッドから抜け出すことにした。それにしてもこの部屋は暑すぎる。アフリカのサバンナを歩くラクダだってここにいれば、きっと耐え切れずに暴れてしまう。テーブルの上に置きっぱなしにしていた氷の入っていた酒も蒸発してしまって一口も残っていなかった。それは昨日のうちに飲み干してしまったのかもしれない。
テーブルの下にあったノートを取り出している。空白のページを破ってそれを短冊がわりにしおうとしていた。ペンを探そうとしていたが、それはどこにあるのかが分かっていない。昨日のことを思い出そうとしていたが、酒のせいなのか記憶が定かではなかった。ポケットを探ってみるとそれは確かにあった。
紙に文字を書いている音が聞こえてくる。私の願いは叶うのであろうか。きっと叶うはずであろう。私の願いはちっぽけなものであるのだから。この暑い夏から逃げることができないのは、はっきりと理解していた。私はこのまま溶け続けていくのだろう。アイスの棒のように溶けてしまい、骨だけが残ってしまうのであろう。〇〇市のアパートで白骨化死体ありという見出しの新聞が載る。それを空気と一緒に漂いながら俯瞰して見ているのであろう。それはある意味では最高のシチュエーションではある。だが、それは本来望むべきことではないのであろう。今はこの暑さをどうにかしなければならないのだ。
短冊に何枚かの願い事を書き終えて、ようやく私は本来の目的を思い出していた。ここで無駄な一日を過ごすことは許されていない。私にはやらなければいけないことがあった。それは途方もないことであろう。少し言い過ぎたかもしれない。私にとっては「失われた時を求めて」を読んでいるように感じてしまう。他の人から見れば星新一のショートショートストーリーを読んでいるのかもしれない。そんな長いようで短いようなことがこれから起こるはずであろう。それを私は受け止めなければならない。私は花の成長日記のようにここへ書き込まなければならない。誰かに花丸をもらえるよう、ゆっくりと丁寧に書き込んでいく。
暑い。こんなクソみたいな暑い夏に集中なんてできるはずがない。私の手は今も震え続けている。病気なのか。病気なのであろう。こんな暑い日は頭がおかしくなってしまう。私の中枢神経は細くなるばかりである。脳までの伝達がコンクリートのような壁に阻まれているように遅い。こんな厚い壁なんて拳ひとつでぶっ壊してやりたかった。だが、今の私はそんな気力なんてありはしなかった。これも全て夏のせいだった。私はベッドから起き上がることさえも億劫になっていた。どうにかして、この状況を変えなければならなかった。誰かに助けを求めようとしたが、この部屋の中には動ける人なんていなかった。
どうにかしなければならないということだけが分かる。暑い夏を乗り越えるための何かが必要となる。短冊のような願い事ではダメなのだ。行動に移せるようにしなければならない。それが私の役目のように思えてきた。だが、どのようにすればいいのか、今の私には到底分からない。ただ、日記帳を埋めることだけしかできない。空白の部分を意味もない文字で埋め尽くすことしかできない。誰かの救いになればいいと思ってやったことが、何の影響も与えずに無価値となっていく。私は何をしたいのだろうか。私は誰を救いたいのだろうか。今生きている意味すら忘れてしまいそうになる。私はペンを持つことしかできないのだろうか。まともな思考ができなくなってしまう。何もかもが虚構に思えてしまう。真実なんてどこにもない。あるのはシミひとつもない白い世界だけだ。どうすればいいのか分からない。思考が堂々巡りしていく。
私はようやくベッドから起き上がった。何かを思い出したかのように、焦燥感に駆られながら起き上がった。私は何かを忘れている気がする。このまま進めばきっと悪い結果になってしまう。それは死に等しいことなのであろう。いや、死そのものなのかもしれない。暑い夏のはずなのに、服に張り付いていた汗が乾いてしまいそうになるくらいの寒気が私を襲っていた。これは死に対する恐怖であろうか。それとも何が起こるか分からない不安から来るものであろうか。ただ、これから起こることは決して良いことではない。私が不幸になってしまうことは確かなのである。それがいつ起こることなのかは分からない。今すぐなのかもしれない。もしかしたら、もっと先のことなのかもしれない。自ら命を断ち切る方がこれからのことを考えると幸せなのかもしれない。それでも私はその不幸を受け入れなければならなかった。そうしなければ、この世界が終わることはない。不幸が降りかかる前に死んだとしても私は生き続けている。この思考を止めることはできない。できるはずがないのだ。それは現実で言う死とは全く違うものなのだから。私が自ら舞台に降りたとしても、そこに舞台は存在し続けている。シナリオは動き続けているのだ。ここに脚本家がいるのであれば、今すぐにでも名乗り出てほしい。一発だけ殴らせてくれ。
行動を移すだけでどれだけの労力がかかってしまっているのだろうか。早く動いてくれと言っても、私は一向に動くことはない。動きたくてもこれからのことを考えてしまうと躊躇ってしまう。ハッピーエンドになるのであれば、喜んで次のステップに行けるはずなのだが、あるのはバッドだらけの世界。そんな世界で行動を移すなんて、余程の勇気がないとできるはずがない。誰かが促してくれればいいのに。そうすれば思考停止することができる。何も考えずとも事が勝手に運んでくれる。だが、それは同時にあの忌々しいバッドエンドを受け入れることとなる。最悪で最低なあの結末を迎えることになってしまう。私がいまさらこの運命に近い出来事に抗ったとしても、何の意味もないのは分かっている。私はあくまでも観客に過ぎないのである。舞台に立っている私を見ている私に過ぎないのである。ただそれを黙ってみることが許せないのである。ペットボトルのひとつで投げ入れてやりたいのである。そうしなければ、私はその物語を受け入れてしまっているということになる。私は納得していない。こんな物語があっていいはずがない。起承転結がある正しい物語にするのが筋である。それなのに、自分の技量を隠すように、観客には理解しづらい内容にしている。分かりづらくし続けている。その行為に何の意味もないのに、無駄に色をつけ足している。
私は水の入ったペットボトルを取っていた。昨日の酒のせいなのか妙に喉が痛かった。暑い夏のせいなのか、水→ぬるま湯にチェンジしていた。健康的であると自分に聞かせながら、私の唾液の入った水が一日放置されていたことを忘れようとしていた。腹が痛くなってしまったら、こいつのせいであろう。私はようやくベッドから離れて次の行動に移ることにした。とは言っても、自分が何をすればいいのかが分かっていない。とにかく、この部屋から出ることが先決なのかもしれない。そうすれば、この暑い夏から少しだけ逃れることができる。階下には25℃に設定したエアコンが待っているのであるから。だが、私は動けそうになかった。誰かのせいではない。私自身の個人的な問題である。手が震えてしまっている。足が痺れてしまって動けないである。また病気が発症してしまったのである。薬を探してみたのだがどこにもない。きっと昨日酒を飲んでしまったせいだ。そのせいで、私は自分を見失っていた。病気持ちであることを忘れてしまっていた。私は薬が必要なのである。山積みになっているCDから探し出す。一錠分だけが隠れていた。確か一週間分はまだ残っていたはずだ。この部屋のどこかにあるはずだが、それを探し出すよりも今ここにある薬を飲む方が先決だ。そこで私は水を飲んでしまったことを後悔していた。仕方なく水道の水をペットボトルに注いで、薬を口の中に放り込んで水と一緒に流し込んだ。それはゆっくりと胃の中へと消化されていく。もう少しすれば、私の精神も安定してくる。私は病気なのだ。それだけは確かなことなのである。忘れてはいけないことなのである。
「買い物お願い」
階下から母の声が聞こえた。それは死んだ母の声なのかもしれない。その声は二重になって聞こえてくる。電波ジャックされているようだった。頭がおかしくなりそうであった。私が私であるのかを疑ってしまう。この世界すらも疑ってしまいそうになっていた。私が居る世界と母の声がする世界は明らかに隔離されているようであった。私は蚊帳の外の存在なのかもしれない。だから、私が何をしても何の意味もないのかもしれない。頭の中で描いている母の姿が不明瞭になっていく。カラーだったはずのものがモノクロに変化し続けている。母と過ごしている記憶が消しゴムで擦ったように薄くなっていく。確かにいるはずであった。階下から聞こえてくる声は母であるはずであった。それなのに、私は疑ってしまっている。真実が何であるのかが分からなくなっている。思考をするたびにそれが正しいのか自信がなくなっていく。母は今そこにいるはずなのである。階下から声が聞こえているのである。私の耳には届いているはずなのである。
「買い物お願い」
私はその声で自分の震えが止まったことに気付いていた。薬が効いたおかげなのかもしれない。そして、ようやく私は次のステップへ行動を移すことができる。今私にやるべきことが生まれたのである。買い物をしなければならない。床に散らばっている服から比較的に皺の少ないキレイそうなものを拾い集める。上下で色が合いそうな服を探し当てて、今着ている服を脱ごうとした。そこで私は自分がパンツ一枚の状態であることに気付く。私は酔っ払っていたのであった。それも記憶がないぐらいにひどい悪酔いである。どうして、私がそれほどまでに酒を飲んでしまったのかが分からない。昨日は忘れたいほどの苦痛なことが起こっていたのかもしれない。どんなに思い出そうとしても、誰かに頭を押さえられているような頭痛が邪魔をして、記憶を辿ることができない。辛いことであるのならわざわざ思い出す必要はないのかもしれない。それでも、私がこの状況に陥っていしまっていることを知っておきたかった。
階下に降りるべきなのであろう。それなのに、身体は鉛のように重くなっており、なかなか動けずにいた。私は見ているだけで終わってしまうのであろうか。行動に移すことはできないのであろうか。私のそばにあるペンを持ち直している。この白い紙に文字を書き続ける。私のやるべきことは記録を残すことだけである。それ以外のことはできない。私は私のオナニーを見続けて、涙を流しているだけだった。私はこの物語の結末を変えることができないのだろうか。ずっと眺めていることしか出来ないのであろうか。私は動き出さなければならない。このノートを黒く塗りつぶして、次の行動を起こすようにしたい。そうすれば少しでも事態は好転するかもしれない。少しでも私が生きやすくなっているかもしれない。結末は変わらないのかもしれないが、通っていく道が少しでも楽になるかもしれない。茨だらけの道を通らなくても済むかもしれない。私が舗装工事した道で歩くことが出来るかもしれない。そうすればどんなに受け入れ難い結末であっても、私は笑顔で迎えられるかもしれない。
私は服に着替えて母の声がする階下へと向かおうとしたが、私は自分の持ち物がないことに気付く。外出に必要な財布とスマホが見当たらないのだ。昨日のことを忘れようとしたが、やはり無理であった。私の必需品である物を探し出すには、昨日のことを思い出さなければならなかった。だが、どうしても私は思い出すことができなかった。どうして酒を飲んでしまったのか、どこで酒を調達したのかが分からない。私は普段から酒を飲んでいるというわけではない。むしろ、私は酒が嫌いであったはずだった。母の姿を見ていると進んで酒を飲もうという気は起きない。そのはずなのに、私の床に散らばっているのは酒の缶だった。この頭痛は明らかにこのアルコールのせいであった。この状況に陥っているのは不思議で仕方がなかった。私が自ら望んで酒を飲むはずがない。きっと誰かの陰謀に違いない。私を貶めるために誰かが仕組んだことに違いない。一体、誰がそんなことをするのかは見当がつかなかった。私を貶めて誰が得をするというのだろうか。私は何にも持っていない。何の生産性もない。生むのは床に散らばっているゴミだけだ。そんな人間を不幸にしたって、面白いことなんて何ひとつもない。ただ、私が底へ落ちていくだけだ。
私は底辺な人間である。だから、その周りにいる人間も底辺である。父はクレーマーで、母はアル中、姉は知的障害者、兄は精神障害者である。家族全員が少し普通とはズレている。誰もそのことを自覚していない。今存在している家族が異常であることに気付いていない。私も何かの病気なのであろう。きっと救いようのない重度な病気なのであろう。ペンを持つ手が震えてしまっている。足が痺れ始めている。また薬を飲まないといけない。だが、たったその一錠すら見つけることができない。どこに置いてしまったのかは記憶がない。アルコールが未だに吐き出せずにいる。私をもう解放してほしい。死がゆっくりと近づいていく。最悪な結末へと一歩ずつ進んでいく。救いが欲しかった。誰かに知ってほしかった。私は不幸であり、幸せにはなれないことを分かってほしかった。ポケットの手を突っ込んでみる。そこに私がよく知る形状のものがあった。薬はそこにあった。私は急いでそれを口の中に放り込む。床に落ちていたペットボトルを取って、それを飲み干す。妙に苦い味がした。ペットボトルの中身を知りたかったが、もうそれはすでになくなっていた。私は嫌な予感がしていた。急に吐き気が襲ってくる。やはり、私は不幸な人間である。幸せをこの手に掴むことなんてできない。
私の財布とスマホはベッドの下に潜り込んでいた。私は手を伸ばそうとする。だが、ベッドの下の隙間は狭く、奥の方に移動してしまっている財布とスマホを取り出せない。私の腕が短いせいなのか、それとも太いせいなのかは分からない。とにかく私は急がなければならなかった。部屋の中で長い棒を探したが、そんなものはどこにもなかった。代用できるようなものはどこにもなかった。私は階下にいるはずであろう母のことが気になっていた。あの人は人を待つことがあまりできない。一向に降りてこない私に対して怒りを露わにしているであろう。憂鬱であった。私は母の狂っている姿を見たくなかった。母の怒鳴り声を聞きたくなかった。それでも、私は財布とスマホが必要であった。そうしなければ、私は部屋から出ることができなかった。どうにかして取り出さなければならない。方法を探していた。ベッドを動かそうとしても、二段ベッドであり、そう簡単に移動できるものではなかった。何よりも部屋がベッドを動かせるようなスペースなんてなかった。ベッドの横には固定されている長机、もう片方には誰が使うのか分からないピアノが置いてある。後ろは壁であるから、ベッドの移動手段は前だけしかなかった。前に動かそうにも物が多すぎて一筋縄ではいけない。それに財布とスマホが置かれている位置からして、前に動かしても届くかは微妙であった。私は小さな不幸に嘆いていた。どうして、私ばかりがこんな目に遭ってしまうのであろうか。私が何をしたというのであろうか。ただ、普通に息をしていただけではないか。誰かに後ろ指を差されるような人生は送っていないはずであった。私は不幸な人間だ。
最悪な気分であった。状況は何ひとつ好転していなかった。いつまでこんなことをしなければならないのであろうか。私はただ昨日酒を飲んでしまっただけだ。それが原因でどうしてこんな状況に陥らなければならないのであろうか。今あるすべての人生を投げ捨ててやりたかった。何もかもリセットして、こんな人生を終わらせてしまった方がいいのかもしれない。私は母が来ないことを望んでいた。こんな情けない姿を母に見せたくなかった。兄にも姉にも父にも見せたくないのは確かなのであるが、母には最も見せたくなかった。私は真っ当な人生を送っていると伝えてやりたかった。病気持ちではないと打ち明けてやりたかった。真面目に人生を謳歌していると自慢してやりたかった。だけど、そんなエナメルで固めたような嘘を重ねても何の意味もないことを知っていた。すべて見られている。私の中にいる母は私をずっと見ている。頭が狂ってしまいそうだった。自分がどこにいるのかが分からなくなってくる。私はどこの世界にいるのかが分からなくなってくる。母は階下にいるはずなのに、私の中で母は酷く歪な形をしていた。原型が何なのかが分からなくなってくる。人間であることさえも疑ってしまう。それは私が見ている姿なのか、それとも私の中で見ている姿なのかがハッキリとしない。視点が何重にも重なっていく。私の目は正しい世界を見ているのかどうか怪しかった。今私は二つの景色が見ているのであろう。カラーの世界とモノクロの世界。どれが正しいかなんて今の私には到底分からない。
暑い夏のせいである。酒を飲んでしまったのも、財布やスマホがベッドの下に落ちてしまったのも、すべて夏が暑いからである。私は狂ってしまったのだ。だから、不幸なことが起こってしまうのである。私はどうすることもできなかった。財布とスマホがないまま外へ出ることはできない。母がこの部屋へ来るのを待つしかなかった。それは恐ろしいことであった。母がこの部屋に入ることは母を殺してでも避けなければならなかった。ここには秘密が隠されていた。それを曝け出すことは出来ない。暴こうという人がいるのであれば、私はそれを阻止しなければならなかった。私のやるべきことはそれなのであろう。私は酒の酔いが少し醒めたのか、徐々であるが昨日のことを思い出していた。そうだ、この部屋に私の秘密が眠っているのである。それを隠すために酒を飲んでいたのに違いない。本来は思い出す必要のないことだった。このままずっと忘れてしまっていたら語られることなんてなかったであろう。だが、もう語ってしまったのであればそれを追求しなければならない。人にはバレてはならないように、隠しながら語らなければならない。面倒になってしまったと、酒の酔いが醒めてしまったことを後悔していた。私はまた酒を飲もうとしたが、この部屋にそれはもう残っていないことは確かであった。暑い夏のせいだ。私はそう思うことにしていた。
私は秘密を持っている。それを語ることになるのかは分からない。解答編のようなものを作るのかは分からない。それは私の体調次第であろう。すべてが順当に進むのであれば、語ることになるであろう。もしも、私自身がこの物語を終える前に死を迎えているのであれば、それはなかったことになるのであろう。私は早めに死を迎えることを望んでいた。そうすれば、私の労力を割くことなく、無事にエンドロールが流れてくる。ブーイングの嵐になるかもしれないが、それは致し方ない。誰かが悪いというわけではない。私の力不足なのであろう。どうにかして、秘密を語らずに終えることを模索していたが、そういうわけにもいかなかった。これからの私は秘密を語らなければならない。それがどうして生まれてしまったのかを語らなければならない。だが、それは今ではない。この後で語ることになるであろう。それも何百ページも先の話である。私はその前にヒントに近いような欠片をばら撒く必要がある。はたして、私にそんな器用なことができるのであろうか。私は息をすることさえもまともにできない。深呼吸の仕方すら間違えてしまう。吸って吐くという行為ができずに、何かをずっと吐き続けているだけだった。
私は財布とスマホを諦めることにしていた。私は母が来ないことを望むだけだった。だが、それとは裏腹に母が階段を上る音が聞こえてきた。一段一段ゆっくりと音を響かせて、私を追い詰めていた。もうダメだったと思った。私は自分の死を確信していた。母がこの部屋に入った時点でどうなってしまうのかを私は気付いてしまった。この部屋は母の存在そのものを否定していた。これが見つかってしまったら、母は激高してしまうであろう。甲高い声が頭の中に響いていく。私は恐ろしくなっていた。嫌な汗がずっと身体に纏わりついてくる。暑い夏のせいなのではなかった。これは今まで何も行動に移さなかった私だけの責任である。私が真っ当に生きていればこんな状況に陥ることなんてなかったのだ。
私は真っ当に生きたかったのである。そうすればこんな舞台なんて用意する必要なんてなかった。私は観客席にいるだけで済んでいたのだ。笑ったり泣いたりして、幕が閉じられたときに周りの人間に合わせるようにスタンディングオベーションをしていたはずだ。それはもう叶うはずのないことであろう。私は病気なのである。夏のせいではなく、私が積み重ねた時間によって生まれた病気なのである。いまさら後悔をしてしまったとしてももう救いなんてありはしなかった。一度走り出した電車は目的地まで止まることはない。私という人格が死ぬまで走り続けるのであろう。
私は階段を上っている母をどうにかしてこの部屋に近づけさせないようにしなければならない。ここは私だけの秘密の部屋なのである。だから壊れたエアコンも直さずにずっと扇風機の風で一日を凌いでいるのである。外の視点にも気を付けなければならない。窓はいつもシャッターを閉めたままになっている。空気の入れ替えなんて私がこの部屋を独占してから一度も開けていない。もともとこの部屋は兄弟で使っていたのである。もうひとりが仕事の関係上で実家を出てから私だけの部屋になっている。この部屋に踏み入れたものはこの数十年間誰もいなかった。それは私が死を迎えるまで続けなければならない。だから、まず私がやるべきことはこの部屋の鍵を閉めることである。鍵は常に閉めてはいるのだが、昨日の私はアルコールを摂取している。その間の記憶は残っていないのだから、私がこの部屋で何をしたのか怪しいのである。部屋を開けてしまっている可能性は大いにある。私は床に散らばるゴミを蹴り上げながらドアの方に向かう。
母がゆっくりと一段一段と上っていく。足音だけで誰がこちらへ来るのかが分かる。母は体重が少し重いためか、少し床が軋む音がする。父はスリッパを常に履いているためかこつんこつんと音がする。姉は体重が異常に重いため、家中に音が響いていて建物が揺れるような感じがする。兄は骨と皮しかないため、ほとんど音がしない。気付ければ部屋の前にいることがよくある。少し軋む音がするのでこれは明らかに母が階段を上る音なのである。あり得ないはずだと思いながらも、起こってしまっているので私はどうすることもできなかった。この部屋にだけ来ないことを祈るだけである。祈っても母がこの部屋に来ることは変わらないであろう。それはもう決定事項になりつつある。
ドアの前に着くとカギはかかっていなかった。そして母が階段上がる音は消えていたためもう私の部屋の前にいることは確かであった。階段を上って左を向けば私の部屋があるのである。そして、私が鍵を閉める前にドアノブが動いていた。もうすべてが間に合わなかった。今後一切酒なんて飲まないことを誓った。そう空に祈ったところでそもそも酒を飲む機会なんて今後訪れることなんてないのだ。私は死んでしまうのであろう。肉体が死んで火葬されるということではない。私という人格が死んでしまうのである。この部屋自体が私なのである。他人に見られるということは実質殺されるのと同義なのである。
この部屋が崩れ始めている。私が知らない間に事は進み続けている。母は私の部屋へと入ろうとしている。それは変えることのない事実であった。人格の死、それは本当の意味での死よりも辛いことであった。人格が死んだとしても私は生き続けているのだ。ただ私という人格がないため私の惨めな生活は続いていく。私の知らないところでずっと続いていく。
母が部屋へと入っていく。母は醜い顔をしていた。いや、それは私個人の勝手な感想である。痩せればキレイな人になると本人は言っていた。私は母の顔をまともに見ることができなかった。家族からも近所にいる奴らにも言われていることがある。母は私の顔にそっくりなのである。母と一緒に歩けば誰もが親子であるとすぐに気付く。私は自分の顔が醜いと自負しているため、結果的に母も一緒に醜いと感じているのである。母には申し訳ないと思っている。それでも私はどうしても自分がキレイな人間だとは思えないのである。私は瞬間的に学生時代のことをフラッシュバックしていた。いつまでもずっとひどい扱いを受けていたのである。そんな人間が容姿に自信を持つことができなかった。
「何で私の言うことを聞けないのよ!」
母の声はいつも頭に響いてくる。真っ暗な部屋で瞼を閉じようとしたときにいつもその声が頭の中に響いてきて、私はひどく動揺する。ここにはいないはずの人間なのにすぐそこにいるように錯覚してしまう。私は周りを見渡すが誰もいるはずがなかった。身体の震えが止まらなかった。また錠剤が必要になるのであろうか。だが、あれは一日一錠である。それ以上は本来の用途とはかけ離れてしまう。部屋の中に侵入しようとしている母を見ると私は胸の奥が苦しくなってしまう。この胸の痛みは母がこの部屋から立ち去るまで治まることはないであろう。私は今殺してやりたいと思ってしまっていた。
「何で私の言うことを聞けないのよ!」
違うそうじゃないんだ。私は母の言いつけを守ることが出来ないのではない。私は上手くすることが出来ないんだ。やっているのに母の求めていることに到達していないからやっていないのと勘違いしているんだ。他の兄弟のように上手くできない。だから、頼られることがない。料理の手伝いもできない。皿洗いもできない。靴磨きもできない。買い物すらできない。私はこの世界で生きることが苦手なんだ。母はそれを理解してくれない。同じ顔をしているはずなのに考え方はまるっきり違う。私の言葉はいつも誰にも届かない。兄弟は少し理解していると思っていたが、実際に話してみると表面だけしか見ていなかった。私は孤独である。
理解しているかもしれない。それを上手く言葉で表すことができない。文章がちぐはぐで言葉を知らない。読書で学んだことが無駄になっている。それは知っているはずだろう。だから、私はあんな行動をしたのだろう。なあそれだけは分かってほしい。分からないのでもいい。ただ心に刻んで欲しい。母の言葉、父の言葉、兄弟の言葉、それらの言葉は責めているのではない。戯言でもない。罵倒でもない。ただの言葉なんだ。
母と対峙している。今から母はどのような行動をするのであろうか。きっと母は私を怒鳴りつけるであろう。お前は何もできないと責め立てるのであろう。もっとヒステリックなことを起こすかもしれない。死ねという言葉が頭に浮かぶ。それは私を地の底へと貶めることになってしまった。精神が不安定になってきている。ああ、また薬が必要になっている。何回も飲む意味がないことは分かっている。それでも私は薬に逃げていたかった。それで死ねるのであれば本望である。誰かの言葉なんて聞きたくなんてなかった。誰かの言葉なんて心に響きたくなかった。ここには私だけしかいない。私だけで完結することなんだ。だから他人の言葉なんて聞こえない。
どうして聞こえない。心が離れてしまっている。ずっと同調していたはずなのにいつのまにか否定されていた。私が押し付けてしまったからかもしれない。母が目の前で乱れてしまっている。アンテナの位置がズレてしまってテレビの映像が途切れてしまったかのように、母はおかしくなってしまっている。私自身の問題なのかもしれない。目のフィルターの寿命が来たのかもしれない。この映像をすぐに終わらせようとしているのかもしれない。終わりが近付いているのかもしれない。頭が混乱している。それは私ではないからであろう。ちぐはぐになっているから狂ってしまったんだ。最低なことを考え始めようとしている。それだけはダメだと分かっているはずなのに、その黒い何かが私の中で膨れ上がっていく。
母を殺してしまえばいい。そうすればすべてが解決する。こんな気持ちになる必要なんてないんだ。母の言葉で紡ぐあの言葉を聞かなくても済むんだ。私の頭は狂っていない。狂わせようとしている誰かがいるだけだ。私はずっと私である。他の誰にもなることはないんだ。何を悩む必要があったというのであろうか。最初から答えは出ていたじゃないか。何もかも消えてしまえばいいんだ。私はカッターナイフを引き出しから取り出す。このカッターナイフを見るたびにあの大学時代を思い出す。大学に向かう道中、私はずっと胸ポケットにカッターナイフを仕込んでいた。そうすることで私は安心感を得ていた。実際に使うことはなかったが胸ポケットにカッターナイフがあるというその事実だけで私の心を落ち着いていた。ああ、そうだ。私が求めているのは暴力だ。
母は私に一歩ずつ近づこうとしている。何もかが間違っている。こんなことをしても何もならないことを私は知っている。それでもこの破壊衝動を押さえつけることができない。今持っているカッターナイフには殺傷能力なんてない。何年間も放置されていてもうすでにさびてしまっている。紙すらまともに切ることができない。ただの鉄の塊に過ぎない。もうそれ以上は止めてくれと叫んでいるのに届かない。
凶器を持っているような気分になっている。このカッターナイフでは母の分厚い身体に傷をつけることは出来ない。それでも抵抗の意志を示すために、恐ろしいあの母の虚像を壊してやりたかった。殺意だけは増幅していき、カッターナイフをさらに強く握り締めていた。母は私の行動をはじめから知っていたかのように、カッターナイフという凶器に恐れずに近づいていく。誰か助けてほしかった。この秘密の部屋を暴いてもいいからこの状況から逃げ出したい。私には勇気がなかった。いつも肝心なところで病気と言って逃げ続けていた。そうすることで私は何もしなかった。
お願いだから救ってほしい。こんなことしても自分自身を苦しめるだけだと分かってほしかった。本当に死んでほしいと思った人間なんかいない。どんなに苦しいことがあったとしても生きてほしかった。その願いは誰にも届いていなかった。いつも大事なことを伝えるタイミングを間違ってしまっていた。過ぎてしまったときにはじめて気づいてしまうんだ。
私はカッターナイフを母に突き刺そうとした。思った通り、母の分厚い肉には刺さらなかった。肌の表面が少し血で滲んだだけで、錆びていた刃が折れてしまった。母は反撃をするかのように手近にあったフライパンで私の頭を叩き続けた。頭が割れるように痛い。必死になって抵抗をしようとするが、栄養が行き渡っていない私の身体では無理だった。食事を拒み続けていた私の責任であろう。
母にフライパンで殴られ続けている。このまま私が死ぬことは確定してしまっている。これは事実ではない。これはノートの切れ端にある短冊のような言葉に過ぎなかった。それでもこうなってしまっているのはやはり私の責任なのであろう。同調し過ぎてしまうことで、私が私でなくなってしまっている。寄り添うことがすべてではない。否定をすることだって大事なことなのかもしれない。
母は執拗にフライパンで殴ってくる。そしていつしか私は息をしなくなってしまった。
母は執拗にフライパンを殴っていない。そしていつしか私は勘違いに気付く。
私は母に殺された。
私は母に殺されたことにした。