役人と商人
片田商店の店頭に貼り紙が出た。
『当局の御指導に基づき、片田商店堺本店、兵庫支店、尼崎支店での開き入札による鏡台の販売を停止いたします。なお、博多支店での鏡台の開き入札による販売は、これまでどおり、継続いたします。また、鏡台以外の商品は通常通り販売するとともに、相場板もこれまでどおり掲示いたします』
開き入札が問題だ、ということならばそれは止める。それ以外についてはいままでどおりで問題なかろう。そういうつもりだった。
「ちぇ、はるばる堺まで来たのに、売らないのかよ」
「当局の御指導って、なんだよ」
瀬戸内海の商人達が、鏡台を求めて片田商店に来ていた。博多、門司、尾道、鞆、因島、牛窓などの港の商人達である。
今のうちに購入しておいて、遣明船の出発間際に高額で転売しようという者もいるようだ。
「どういうことだよ、大黒屋」商人の一人が大黒屋惣兵衛さんに詰め寄る。
「なんでも、開き入札をして高額で取引するのは、世間を脅かす、だとのことでした。なので、代官様が二百文ですべて買い上げる、とのことです」
「なんでぇ、こちとら納得して高い金出しているのに、脅かす、もねぇもんだろう」
「細川が独り占めしようってことじゃねぇのか」
「そのあたりは、私としてはどうも、で、仕方がないので、博多の片田商店で、いままでどおり開き入札をおこなうことにいたしました。こちらにある商品も、すべて博多に持ち込みますので、商品が不足することはないと思います」
「余計な手間じゃねぇか」
「商品が不足しないって、不足しているから高くなってんだろ」
「それは、私に申されても、いかんとも」
「大内も同じことやるんじゃないのか」
「さて、博多の商店からは、そのようなことは起きていないとのことです。大内様の御用商人も開き入札に参加なさっているそうです」
「そうかい、じゃあ仕方ねぇ博多に行くか。空荷で行くわけにもいかねぇからシイタケか硫安でも仕入れていくか」
「店の表のほうは、どうですか」休憩するために、店の奥に回った惣兵衛さんに片田が尋ねる。さして広い店でもないので、奥にいても表の物音は聞こえる。
「どうも、なにも。皆さん怒ってらっしゃいます」
「そうでしょうね、ご苦労様です」
「これは、私の仕事ですから、かまわないのですが。それより、こんな小手先の方法で大丈夫なんでしょうか」
「だめでしょう」
「やはり、そうですか」
覚慶運河が、堺の堀に流れ込むところに簡易な関所が設けられた。そこで、大和から下ってくる荷が代官所により改められることになった。鏡台が禁制品に指定され、すべて買い上げられることになった。
荷に鏡台があった場合には、一台あたり二百文で堺代官所が強制的に買い上げた。
鏡には人心を惑わす魔力がある、従って市中に出す前に祓い清めなければならない。お祓いを行ったあとで、改めて販売する。このお祓いを行うために山崎の離宮八幡宮に新たに鏡座を設けることとし、鏡台の販売は鏡座の専売とするとのことだった。
関所に、ご丁寧にも離宮八幡の神札が幾つも貼られていた。
片田は、銀を析出させる前のガラスだけの鏡台キットを大和から送らせた。代官所はこれを、危険物になりうる、として無償で差し押さえた。
「鏡を作ることができないのだから、こんなもん押さえてもしかたがないでしょうに」
「もう意地でやっているとしか思えないな。硝酸、希硫酸、アンモニア盆兵衛、カタクリ粉などは、どうでしたか」
「それらは無事でした、何に使うのかわからなかったのでしょう」
「そうですか」
硝酸などがあれば、銀の析出は特段設備も必要のない作業なので、別々にして博多の片田商店で鏡にしようと思ったのだが、無駄だった。
そもそも、堺の代官所は、なぜこんな無理なことを行っているのであろうか。現在考えると無理な行為であるが、当時としてはそれほど無理なことではなかった。
幕府や守護が命令したことは、かなり無理なことでも通ったのである。
なにかの国家的行事が行われるときに幕府が臨時課税をすることがある。段銭、棟別銭などという。段銭は田畑一反ごと、棟別銭は家屋などの棟ごとに臨時に課税された。
足利義満の時代には、年に四回程課税されることがあったようである。
この年、寛正六年(一四六五年)の年末に大嘗会が行われる。大嘗会とは天皇が即位後初めて行う新嘗祭のことを言う。収穫祭のことだ。
この時即位する天皇は後土御門天皇であった。
足利義政はこの大嘗会を行うために、十一月に九度、十二月に八度、特別課税を行った。そのような無理が通ったのである。
また、禁制品に指定、というと恐ろしいものであるかのように思えるが、ありふれたものが禁制品になることもある。
現代でも、個人が海外に米を輸出することはできない。生米は禁制品だからだ。
八幡宮でお祓いをしてから、なども屁理屈のように感じるかもしれないが、当時の座というものが、神仏への捧げ物の余剰品を下げ渡すという建前で出来ているので、当時の人の感覚では不思議なものではない。
魔物がついている、と言ってしまえば、祓うのは神社の仕事である。魔を祓って使えるものにする、という役割が介入する余地を作れば、座を構成することができる。
手間と費用が掛かるが仕方ない、そう片田は考えた。
片田村で鏡台キットを製造し、西の堺ではなく、伊勢街道を東に行き伊勢の大湊の津に出る。いくつかの関に関銭を、馬借に駄賃を払わなければならない。伊勢の守護の一色義直は、海外貿易に手を出していないので、鏡台などに関心はない。
尼崎、兵庫に片田商店を開いたときに伊勢の大湊、若狭、桑名などにも片田商店を開いていた(『砲艦』章)
大湊の片田商店で船積みし、紀伊半島、四国南部沿岸を回り、豊後水道、関門海峡を経て博多に運んだ。
細川氏の領地の港に入港することは憚られたので、やや不便な航海となったが、生産したものは全て博多に運ばれた。
門司のルビ、「もんじ」は誤字ではありません。南北朝までは、このように呼ばれていたので、当時も「もんじ」と呼ばれていたと判断しました。




