京都(みやこ)
夏が立ち、『あや』が、堺の片田商店に来た。
「鏡、あれは大当たりだわ」あやが言う。
「そうかね。石英丸達が良い板ガラスをつくったから出来たんだ」片田が言う。
「で、出歩くのを嫌う『あや』が、なんで堺まで来た」
「実は、京都に店を出そうと思うの」
「京都に、何を売るんだ」
「鏡よ、絶対売れるから。それに鮎とか、他にも考えているわ」鮎というのは眼鏡の縁につける飾りのことだ。
「京都に店をだすのは、勧めないな」片田が言う。
もうすぐ、応仁の乱で京都の北半分が焼け野原になる、などとは言えない。士官学校で応仁の乱については、わずかに習っていた。応仁の乱は、軍事的な歴史資料が乏しいので、戦術面の講義はなかった。なぜ、乱に至ったのか、どのように経過したのか、というような戦略的な側面のみについての講義だった。
「もし、店を出すというのであれば、三条より南にしたほうがいいだろう」
「なぜ」
「特に理由はないが、世の中が物騒になってきたような気がする。幕府の関係者の屋敷近くには店を構えない方がいいだろう、と思う」
「そうなの」
「で、融資が必要なのか」融資とは、片田が百姓向けに作った小口無担保の楽民銀行のことだった。
「そっちの方は、大丈夫。自分ので間に合う。それよりも、番頭になってくれるような商人を紹介してほしいわ」
「西忍さんに頼んでやろう」
『あや』は片田商店を出た。二人の男兄弟と三人で、山崎行の船に乗る。片田が言っていたように、あやは歩くことが苦手だった。とびの村からは魚簗舟で、河内運河を通って堺までやってきた。山崎からは、小舟に乗り換え、桂川から堀川まで、上れる限り船で行こうと考えていた。桓武天皇の堀川は、このころはまだ水運として使われていた。
『あや』は、堀川を一条まで上りきった。慈観寺の好胤さんを通じて逗留を依頼していた近くの寺に入る。
翌朝、寺をでて今出川通りを東に向かう。左に足利義政が住む花の御所が見えてきたところで、室町通りを南に下る。このあたりは御屋敷が多い。
一条通りを過ぎたあたりから商家が増えてくる。人通りも増えてきた。着物の色が多彩だった。臙脂、白藍、翡翠、朽葉などだ。
「『じゅん』の言う、三条まで行ってみましょう」あやが弟達に言う。
左右を見ると、筆や墨を扱う文房具屋、紙屋、香屋、漆器屋などがある。
一条から二条まで、ずいぶんあるわね、とあやが思う。この調子だと三条まで行くのは大変だ。
一条から二条までは、昔の御所の南北の長さだった。二条以降の条の幅の二倍以上の長さがある。『あや』はそのことを知らない。
土倉とみられる大きな建物がある。酒屋や小袖屋、扇屋、箔物屋、太刀屋など、店舗の規模が小さくなり、さまざまな商品を売る店が出ていた。
二条通りにたどり着く。室町通りと二条通りの交差点に甘酒屋があった。甘酒を買い、縁台で休ませてもらうことにした。
「ちょっと、三条通りまで、行ってみてくれない」弟の一人に頼んだ。
休みながら回りを見る。このあたりまで来ると人出が多い。天秤棒を担いだ者や、頭に籠を載せた女などが行き交う。子供達が走り回る。武者だろうか、馬に乗っているものがいた。庶民らしいものが増えて来た。
それでも、どことなくおしゃれだな、と『あや』は思った。
西の方が騒がしくなる。見ると人出が多い。じゃんじゃんという錫杖の音が聞こえる。
人の集団がこちらにやってくる。集団が『あや』の腰かけている縁台を通り過ぎる。
僧兵が四名、先頭に立って錫杖を鳴らしながら歩いていた。驚いたのはその次だった。
たくさんの人が、頭の上に盥ほどの大きさの板を載せている。板の上には、物語の一場面のような造り物があった。板の縁には赤い薄絹が垂らされていて、担いでいる人の顔は見えない。
そのようなものが二十名程も、それぞれ別の場面と思われるような造り物を被って歩いていく。
「あれは、なんですか」あやが甘酒屋の女主人に尋ねる。
「ああ、あれですか、風流というものですよ。明日の夜、糺の河原で勧進猿楽があるので、その前祝でしょう」
「三条までは、そんなにないぞ。いままでの半分くらいだ」帰ってきた弟が言う。
「そう、そうなら行きましょうか」そう言って『あや』が立ち上がる。
食べ物を扱う店が増えてくる。魚屋、米屋、鳥屋、釜屋、油屋、塩屋のような店だ。このあたりに来ると、店の間を持たない店舗が増えてくる。そのような店は、路にむかって棚を差し出し、その上に商品を載せて売っている。
三条通りについた。もうすこし先に行ってみる。しばらく似たような店が続いているようだった。
たまたま馬借があったので、帰りは馬で帰ることにした。
馬に乗って室町通りを上っていくあいだに考えた。
「『じょん』は、三条あたりに店を出せ、と言っていたけど、私の店は三条あたりに構えるような店じゃないわ。一条と二条の間あたりじゃなければ駄目よ」




