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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順
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守護(しゅご)

いつも、誤字を指摘していただき、ありがとうございます。

大変助かっております。


誤字を指摘してくださる方への連絡方法がわかりませんので、

ここに書きます


足利高氏>尊氏ではないかとご指摘いただきましたが、


元弘の乱開始時(1331年)には、まだ足利高氏さんでした

高氏さんが尊氏さんになったのは1333年です



 片田達の活動の範囲が広がり、遂に守護と接触を持つようになった。そこで、今回だけ物語を離れて守護について考えてみたい。

 学生時代、守護というものを教科書で知ったが、そのときには理解できなかった。

 理解できなかった理由は二つあると思う。

 一つは、守護の役割が時代とともに変化したから、というものだ。もう一つは、守護がさしたる活躍もせずに、戦国大名にとってかわられてしまったからだ。

 少なくとも学生時代の私には、守護が活躍していたようには見えなかった。

 足利尊氏、新田義貞が後醍醐天皇の元弘げんこうの乱当時、守護であったのだろうか。


 守護とは鎌倉幕府が国毎に一人置いたもので、人事権は幕府にある。守護の役割は、当初は大犯三ケ条だいぼんさんかじょうであったとされている。これは一二三二年に定められた御成敗式目の第三条に、そもそも頼朝公が守護を置いた当初からの守護の仕事であると書かれている。

大犯とは、大番催促おおばんさいそく謀反人むほんにん追捕ついぶ、殺害人の追捕である。

大番とは地方の武士に京都や鎌倉の警護をさせることである。守護が国内の御家人に対してそれを指名催促できる権限をいう。

御成敗式目には、今後は夜討ようち・強盗・山賊・海賊の逮捕も守護の仕事とする、とある。

すなわち、初期の守護の役割は軍事・警察にかかわるもののみであった。


時代が下り、南北朝の動乱時代の一三四六年には、守護の役割に使節遵行しせつじゅんぎょうというものが加わる。

土地訴訟に対する幕府の判決を、現地で強制的に執行する権限のことだ。乱世において、各地で土地の所有権をめぐって争いが起こっているなか、所領を安堵する権限を幕府が持つということを主張している。

守護に行政権限の一部が加えられたといえるだろう。


 各地で起こる紛争に対して、守護が地元の国人を動員する必要が出てくると、その費用を捻出しなければならない、そこで数年後の一三五二年には、半済令はんぜいれいというものが出される。それぞれの国の安全保障のための税である。

荘園が差し出す年貢は、従来はすべて荘園領主や、律令制度における国司が受け取っていた。今後はこれを荘園領主と守護で半分ずつ受け取るというきまりである。

国司とは、朝廷の持つ所領、国衙領こくがりょうの徴税を担当している役人である。

ここにおいて、守護は軍事・警察・行政に加えて徴税権の一部も手に入れたことになる。


 十五世紀に入り、寺社や貴族などの荘園領主、国司が衰え、所領に対する徴税能力が失われていく。この時守護請という制度が出てくる。守護が荘園領主たちに代わって徴税を請け負う、という制度だ。

 守護は地頭などの国人を使い、年貢を全額徴収する。守護、国人がそれぞれ手数料を取り、残りを本来の荘園領主たちに渡すというしくみだ。

 守護は直接的な徴税権を持つことになる。


 やがて荘園領主や国司は、その役割を終え、国の支配は守護の手に落ちていく。南北朝から、室町時代中期までに守護は、このようにその役割を拡大したのである。国を支配した守護を守護大名という。


 ここにおいて、室町幕府は守護大名の連合政権といえるようなものになる。


 では、どのような者が守護職についていたのか。これは圧倒的に清和源氏の流れが多い。

 清和天皇の五代の孫に源頼義よりよしという武将がいる。平安時代中期の人で、前九年の役で活躍した。

 頼義に三人の男子がおり、上からそれぞれ義家よしいえ(八幡太郎)、義綱よしつな(賀茂次郎)、義光よしみつ(新羅三郎)という。

 義家の二人の孫が足利氏と新田氏の祖である。

 足利氏からは、将軍家と三管領である斯波氏、細川氏、畠山氏が分かれる。


 幕府の軍事・警察権を持つ侍所さむらいどころの長官を交代につとめた四職ししきという家柄がある。

 一色いっしき氏は足利の流れである。

 新田氏からは、山名氏が出ている。

他の二家は清和源氏ではない。京極氏は宇多源氏であり、佐々木道誉が有名である。赤松氏は村上源氏だといわれているが、さだかではない。


四職以外に侍所筆頭を務めた家柄の土岐とき氏は頼義とは異なる流れであるが清和源氏の嫡流である。また今川氏も、足利氏から流れた吉良氏の分家である。


 他にも、この時代に守護職についている家柄として、頼義の三男義光から出た武田氏、小笠原氏などがいる。


 異色の守護大名としては、大内氏がいる。彼は百済王の子孫であると称していた。


 伊予の守護、河野通春の河野氏は越智氏の流れをくむとされており、そうだとすると、伊予の国の古代豪族の末裔である。


 以前にも書いたが、このころ武家では、まだ長子相続が徹底されていなかった。

 応仁の乱の直前には、守護たりうる資格を持つ家柄の者が満足に守護になれない、という事態になっていた。そこで幕府は半国守護という役職を与えた。

 例えば物語中では赤松政則が加賀北半国の守護になっている。南半国守護は富樫正親であった。富樫氏は藤原北家の流れをくむ。

 堺のある和泉国は、細川家の分家の一つで和泉守護家という。ここでも細川頼長の子孫(上守護家)と細川基之の子孫(下守護家)が半国守護となっていた。ここでは、和泉を領域で分けるのではなく、共同で行っていたらしい。堺という重要港を抱えていたからだという。




 冒頭に守護の活躍を見たことがない、と書いたが頼朝が守護を設置して以来、応仁の乱まで二百六十年に渡り守護は勢力を拡大し、朝廷や貴族、寺社のもつ国衙領や荘園を蚕食してきたことを見ると、武家の側から見ると成功した制度だといえるのかもしれない。


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