義尋(ぎじん)
義政は、最近自分の心持ちが変化していることを感じていた。以前は華やかなものを好んでいたが、落ち着いたものを好むようになっていた。
例えば、源氏物語であれば、以前は初音から野分帖のような、王朝絵巻を好んでいたが、最近では宇治十帖の方をよく読むようになった。
静かな月夜に、池の水面に映る月をいつまでもながめていたい。騒々しいのはもう嫌だ、そんな気持ちだった。
彼は一四四九年、数えで十四歳のときに、将軍になった。当時幕府の主要な税収源であった土倉、酒屋は土一揆の頻発で課税が困難になっていた。そこで徳政にあたり、分一銭を取ることにした。
徳政について、すこし語る。例えば百姓が土地の耕作権を持っている。土地そのものは寺社の荘園だったとしても、代々そこを耕作する権利は別に持っているとされる。その権利を担保に土倉から銭を借りることができる。銭を返せなかった場合、耕作権は土倉のものになり、百姓は土地から追い出される。土倉は、百姓になりたいと考える者や荘園領主に耕作権を売ることが出来る。
この時代、借金をしたのは、百姓だけではない、御家人や困窮貴族なども、債務者になっている。
徳政とは、金を借りた契約を無かったことにする、ということだ。当時の日本では『そもそも、我々は先祖代々その土地で耕作してきたもので、金を借りたからとて、その権利を奪うことは出来ない。為政者は徳をもってこれを守らなければいけない』と考えられた。
契約よりも、あるべき論、ないしは為政者の徳の方が優先されたのである。
現代の我々からすると考えにくいことかもしれない。しかし、急速に金融が発達してしまい、それを為政者が制御できなかったこの時期、社会の安定を維持するために、このようなことが有効であったのであろう。
分一銭徳政令とは、債権債務額の一割を幕府に納めた側の権利を認める。というものだ。先の例で言えば、金を借りた百姓が分一銭を払えば、土地の耕作権は百姓に戻る。反対に土倉が先に分一銭を払えば、耕作権は土倉のものになる、というものである。
従って債権者も債務者も先を争って幕府に分一銭を納めるようになる。
幕府は自身の収入のみを考え、社会の安定の維持は放棄した、といえるであろう。
分一銭徳政令により、幕府の財政は潤った。また、義政は遣明船を再開した。さらに御成と称して寺社や大名館に自身が訪問した。訪問時の贈答品がめあてであった。
義政の努力で税収は増えた。しかし支出も多かった。
関東では、一四五五年の享徳の乱以来、足利成氏の古河公方と、幕府方の堀越公方の二つに分かれて争っている。関東はすでに戦国時代である。
畠山家と斯波家はお家騒動である。義政は彼らを弱体化したうえで支配しようとしていたが、騒動が激化するばかりである。
最近は細川と山名の間の対立も目立ってきた。
加えて、大飢饉であった。
義政には嫌な予感があった。このままでは、非常に良くないことがおこるのではないか。
父、義教の暗殺なども思い出された。
義尋という僧侶が、義政の屋敷を弔問した。
「おお、十郎か、よく来てくれた」義政が迎える。
「このたびは、残念なことでございました」
「うん、うん、ありがとう」
義尋は、義政の弟である。母は異なり、重子ではない。
「物心つかぬうちに僧になり、そのままになっておりました。御母堂にはお会いしたこともありませんでしたが、それが心残りです」
義政の父、義教には十一人の男子がいたが、この時期に生きているのは、義政と、兄で堀越で足止めされている鎌倉公方の政知、そしてこの義尋の三人である。
二人はしめやかに一刻ほど語り合った。義政は、東山にある義尋の寺、浄土寺のたたずまいに関心があるようだった。
義尋の帰り際、義政が言った。
「わしの代わりに将軍にならぬか」
「なにをおっしゃりますか。まだお若いではありませんか」
「いや、もう男子が出来る気がせぬ」
「もし、男子が出来たら、どうなさいますか」
「万が一、生まれたとしても、すぐに僧にする。約束をたがえるようなことはしない」
「いえいえ、御台所様や、その御実家の御意向もありましょう。お受けすることなど、とうていできません」御台所と呼ばれたのは、日野富子のことである。
義尋は帰っていった。




