力積(りきせき)
船底の水位が、船底に重しとして載せている小石よりも上になった。水兵は船倉内の柱に目盛りを付けて、淦の水位を継続して測ることにした。
淦を汲み取る排水機の音が天龍の船内に響く。
「余分な水兵を橘丸に移したらどうだろう」
「いや、停船している時間が無駄になるだけだ」
「帆を少し降ろして、速度を落としたら、浸水の速度が遅くならないかな」
安宅丸は少し考え込んでから答えた。
「船の速度と、浸水速度はあまり関係ないだろう。船の内側と外側の圧力差が主な律速要素だ」
「じゃあ、どうする」
「船体に、水がしみ込まないようにすればいいんじゃないか」磯丸が控えめに言う。浸水の原因が自分だと思っているらしかった。
「それは、そうだが、どうやってやる」片田が磯丸の気持ちを察して穏やかに尋ねる。
「水を通さないもので、船の外側を覆ってしまえば、浸水の速度が遅くなると思う」
「水を通さないもの、ってなんだ」安宅丸が尋ねる。
「予備の下帆だ。帆に木タールを滲みこませて、船体の下側に被せるんだ」
「それは、いけそうだな」安宅丸が検討するような様子で言った。
「いま、喫水はどれくらいだろう。浸水からすると、二間半(四.五メートル)くらいか、急がなくっちゃいけないな。もう半刻もしたら、泳いで船底を潜り抜けることができなくなる」
彼らは、砲甲板にある洗濯用の大樽に、船底から運び上げた木タールを流し入れた。
タールとは、油状の液体で、船では防水に使用される。石炭をコークスにする過程で出来るコールタールと、木材を蒸気室で加熱したり、変形させたりするときに出てくる木タールの二種類があり、彼らは両方とも船に積んでいた。
コールタールは、船体や静索、帆桁に塗り、木タールは動索や帆布に塗っていた。
帆船は、常に予備の帆を積載している。水兵達が船倉から前下帆、主下帆、それに船尾縦帆を持ち出してきて大樽に入れ、木タールを滲みこませた。
「主帆を裏帆にしろ」安宅丸が命令し、天龍が一時停止する。
まず、前下帆の片側二か所の鳩目穴に索を通し、船首に近い右舷側から海面に落とした。風は西風のままで、船体は右舷側が海面に近い向きに傾いている。
泳ぎに自信のある水兵が五人海面に飛び込み、帆布の端を掴んで水中に泳いでいく。
彼らは船体の下をくぐり、左舷側の海面に出てくる。左舷側より索が投げられ、彼らはそれを海面に浮いたまま、帆布の鳩目穴に結び付ける。
しっかり結び付けられたことを確認し、索の反対側を巻き上げ機で巻き上げ、帆布を船体に密着させた。
主下帆と、船尾縦帆も同様に船体中央部と船尾部に巻き付けた。
天龍の船体の八割程度がタールを塗られた帆布で覆われた。
天龍が帆走を再開する。速度が少し遅くなった。
「淦、検査」安宅丸が命令する。
「三尺五寸です」
以降、浸水速度は半刻(一時間)あたり、一寸程度に減速した。これなら、堺にたどり着けるだろう。
日が暮れた。うずくまっている磯丸の隣に灯りを持った片田が来て、座る。
「なんで浸水したのだろう、って考えているのか」片田が尋ねる。
「みんなを危険な目にあわせてしまいました」
「磯丸のせいじゃない。私が気づけばよかったんだ」
片田は砲術将校であったから、発砲の衝撃力に関する知識があった。
「片田村で銃を撃ったことがある、って言っていたな」
「はい、撃った時、かなりの衝撃が来ました」
「たぶん、その衝撃が原因なんだと思う」片田が続ける。
「力積というものがある。今重さMの弾丸を銃で速度Vの速度で発射したとしよう」
「はい」
当直を終えた安宅丸が、一等航海士と交代して、片田の隣に座って話を聞き始める。
「一方で、一様な斜面で同じ弾丸を転がしたとしよう。斜面の傾きが一様ならば、いつかは弾丸の速度が銃で発射した時と同じVになる」
「空気の抵抗がなかったら、というやつですね」安宅丸が相槌をうつ。
「そうだ、銃の時は衝撃があり、斜面の時は衝撃がない。どこが違うと思う」
「斜面の方は、ゆっくりと速度があがっていったからでしょう」
「そうだ、そのゆっくり、というのが大事だ。運動方程式を思い出してみよう。運動方程式は、ma=Fだろう、これは、このようにも書ける」そういって片田が指に水を付けて、甲板に書いて見せる。
ma=m×Δv/Δt=F
「そして、こう変形する」
m×Δv=F×Δt
「左側は運動量の式だ。右側は力と時間の掛け算だ。これがどういうことを意味しているか、というと、質量mの弾丸を加速、つまりΔvだけ速度を増やすためには、力と時間の掛け算が必要だ、ということだ。この掛け算を力積という」
「時間が小さければ、力を大きくしなければならない。小銃の場合はこれだ。反対に時間を長くかけることができれば、力は小さくともよい。斜面の場合だ」
「つまり、銃や砲が発射されたときには、瞬間的ではあるけれども、非常に大きな力がかかる、ということですか」
「そうだ。海水が船に与える力は、総量は多いかもしれない、でもそれはゆるやかな動きだ。だから天龍は普通の航海には十分耐えられる。大砲の場合は、弾丸自体は、たいした重さではないが、瞬間的に速い速度をあたえるため、一瞬の間だけ大きな力がかかる」
「そうですね」
「船に大きな力がかかった場合、弱いところに負荷がかかる。弱い、というのは不連続な部分ということだ。例えば、木材と木材のつなぎ目、曲線ではなく直角に曲がっている所、傷のあるところ、釘と木材の間、などが不連続な場所だ」
「堺に無事戻れたら、船を船渠に引き揚げよう。おそらく、そういったところがゆるんだんだろう。弱いところが見つかったら、そこを強くしてやればよい」
夜が明けるのを待って天龍は堺港に入港した。桟橋の方には向かわず、南の船渠の方に行き、建造中の船の間に停泊させた。
港では、船が襁褓を付けて帰ってきたぞ、としばらく話題になった。




