炙り出し(あぶりだし)
興福寺の楠葉西忍さんから手紙が来た。
時候の挨拶に始まって、遣明船の件では世話になった、と書かれており、次に堺の片田商店が順調な様子なので喜ばしいとして、最後に「仍如件」と書かれていた。
とりとめのない、送ってこなくともよいような手紙であった。証文でもないのに仍如件は、ないだろうという文章だ。
これは、西忍と片田との間で決めておいた暗号である。
片田は灯明皿に火を灯し、手紙を炙った。
手紙末尾の白紙の部分に文字が浮かび上がる。いくつかの漢字であったが、一見意味をなさない。
漢字を万葉仮名のようにひらがなにあてたものであるが、普通は使わないような漢字をあてているので、規則をしらないものには読むことが出来ない。
「カ・ワ・チ・ノ・イ・ヨ・ノ・カ・ミ・シ・ヤ・メ・ン・ノ・ミ・コ・ミ」
河内の伊予守とは、畠山義就のことだ。義就が近く赦免される見込みだという連絡だった。
片田は手紙を燃やして、灯明皿に火消をかぶせ、店の表に向かった。
帳場にいた大黒屋惣兵衛さんをつかまえて尋ねる。
「伊予守様から、借金の依頼が来てましたよね」
「え、ええ、少し前にそのような依頼がありましたが」
「いくら貸せ、と言ってきましたか」
「さて、銭で三千貫ほど、とか言っていました。考えておく、といって帰しましたが」
「それ、貸してやりましょう」
「え、伊予守といえば、落ち武者ですよ。吉野の奥の、たしか天川村とかいうところに潜んでいるとか」
「片田銀で三千枚、屈強で信用できる男を十名くらい揃えて送りましょう」
「本気ですか」
「本気です。彼が戻ってくれば、河内に田舎市が復活します。新田も運河も安泰です」
河内の応神天皇陵を守る小山朝基が堺に呼ばれ、守備兵十名とともに吉野に行くことになった。片田銀一枚は一匁(三.七五グラム程度)であるから、三千枚集めても十キログラム程である。
彼らは堺から船で紀伊湊(和歌山港)まで行き、そこから紀ノ川を橋本まで川船で上った。橋本からは陸路で、吉野の山深くに分け入っていった。
いつの時代でもそうであるが、この時代の興福寺も京都の朝廷、幕府、鎌倉、あるいは諸国の情報を集めていた。興福寺にとって最も重要な情報源は一条家であったが、それ以外の市井の情報も集められた。
商人でもある楠葉西忍も興福寺の市井の情報網の一部であった。義就が赦免される、という情報は、西忍が田辺の変人と呼んでいる男から来た。
田辺の変人とは、一休宗純のことである。一休は、数年前から木津川沿いの田辺に酬恩庵という草庵を結んでいた。
西忍と一休の出会いは、西忍の一回目の渡明にまでさかのぼる。三十年程前のことだ。当時、西忍は渡明の準備のために堺にいた。一方の一休は、諸国を行脚して説法をしている最中だった。一休は堺の異国風を好んでおり、たびたび堺を訪れている。
好奇心の強い一休が、流暢に日本語を操る天竺人を見逃すはずがなかった。
西忍の方は、僧の姿をしているにもかかわらず、長い朱色の太刀を抱えている一休に怪しさを感じた。
互いに話してみると、一休は西忍が日本人とはかけ離れた論理性を持っていることを知った。一休は気に入った。
西忍も、一休は普通の日本人ではないが、才があることは疑いないと安心する。
当時、いずれも三十台半ばだった二人は、人の世はどうあるべきか、夜を徹して語り合う仲になっていた。
一休は、銭も取らぬが、印可状も授けぬ。しかし、その説教は高い学識と品性があった。彼は堺をはじめ、大和、和泉、摂津など各所を説法して回り、各地に多様な階層の、多数の信者を持った。
彼のところには自然と情報が集まることになった。
四代目観世太夫(又三郎政盛)は、父である音阿弥の影響で一休に帰依したものの一人だった。
天川村では、片田の使者が帰ったあと、義就がため息をついた。
「ありがたいが、こんな山奥の村で、銀貨が使えるわけねぇじゃねえか。誰か、五條か橋本に両替に行ってこい」
吉野村より奥の民は、片田銀を見たこともなかった。




