相続
翌年、寛正四年(一四六三年)の四月、ついに畠山義就の嶽山城が落城する。二年四か月の籠城であった。史実である。
背後から越智家栄達の支援があったとはいえ、驚くべき籠城期間である。
近い時代の籠城戦としては、結城合戦がある。
結城氏朝、持朝が、永享の乱で自害した足利持氏の遺児を擁立して幕府に対して反乱を起こしたのが結城合戦である。
幕府軍は永享十二年(一四四〇年)七月末から結城城を包囲し、同城が陥落したのは、翌四月であり、十か月の籠城期間であった。
結城氏朝、持朝親子は落城とともに討死したという。持朝は武田信重により討たれた、とされているが、父の氏朝がどうなったのかは知られていない。
嶽山城を出た義就は高野山に入った。
政長派は義就を追って、南の紀見峠方面ではなく、西を目指し阿弥陀寺のあたりで紀州山脈を越え、粉河寺の裏手あたりに出たらしい。
義就は高野山から出て政長派を攻撃するが、ここでも破れ、高野山、さらには吉野を目指して落ちのびていった。
片田達は、義就の敗北に緊張した。河内の新田や運河はどうなるであろうか。しかし、政長派の軍は京に退いて行った。
嶽山城籠城中も、河内の国人は義就の支配下にあったようである。義就支持が多い河内の内政に手をいれて、混乱を誘起させることを避けたようであった。
畠山の義就と政長は、なぜ争うようになったのか。そもそもは畠山家のなかでの家長権を争っていたのであった。家長権は家族を統率する権利である。
家の勢いが拡大しているときに、相続は兄弟で分け合うことができる。田や荘園などを分けて、それぞれの分家が家長権を主張すればよい。しかし家の勢いが停滞、ないしは縮小しているときにはすべての子で分け合うことができない。そのような場合には単独相続にならざるを得ない。
貴族社会では早くから単独相続に変化していた。貴族の没落にともない、単独相続になっていった。長男以外は、僧になるなどしていた。
尋尊さんが、そのような例である。
尋尊さんは、一条家の一条兼良と、その正妻との間に生まれた六人の男子のうちの一人である。長男の教房が一条家の家長となり、尋尊達は僧侶などになった。
もちろん、家長が亡くなるなどしたときには、彼らのなかの一人が家長を継ぐこともある。
成長している階級であった武家では、この時代、まだ単独相続が浸透していなかった。小規模な武家の家では、鎌倉時代のころから単独相続を始めていたようであるが、守護を努めるような大きな武家では、単独相続を不服に思う考え方が残っていた。
このようなことから、畠山家では、共に可能性を与えられた義就と政長が争っていた。
同様なことは、同時期他の有力武家の中でも起きていた。
信濃の守護小笠原家では、一四四二年に家長の政康が無くなったあと、いとこ同士である宗康と持長との間で家督争いがおこった。
守護職を務めるような有力武家の家督相続には将軍の承認が必要であった。
将軍に認められた宗康を、持長は漆田原の合戦で討ちとってしまう。
加賀の守護富樫家でも、分裂が起きた。
富樫家の家長教家は時の将軍義教の怒りに触れて出奔する。幕府は教家の弟で、僧になっていた泰高に家督を継がせる。出奔した教家は、当時管領であった畠山持国を頼り、家督を奪還する。ところが管領職が細川勝元に変わると勝元は教家を追放して、泰高に戻す。それに対して、将軍義政が教家を支持すると、勝元は管領を辞すと言い出した。
このころから将軍や、その補佐である三管領があいまいな、あるいは不一致な態度をとるようになってきた。
管領とは、中央行政を仕切る役職であり、今で言うと総理大臣のようなものである。政所や、侍所などの中央官庁を統率する。
足利幕府では三管領といい、足利氏の一族である三つの家が交互に管領職を務めることになっていた。
それがすなわち、畠山家、斯波家、細川家の三家である。
斯波家は越前・尾張・遠江の守護であったが、その斯波家でも内部分裂が起きる。
一四五二年に家長の斯波義健が十八歳で死ぬ。実子が無かったため、親族の義敏が家を継いだが、越前の有力な国人であった甲斐氏と不和となり、これを攻撃した。それを見た将軍義政は軍を出して義敏を追い、義敏の子にいったん家督を与えたが、すぐに撤回し、足利一門の中から斯波氏に近い渋川義廉に家督を与えなおした。
義政に追われた義敏は、義政に近い執事の伊勢貞親を頼り、義廉から家督を奪い返すことになる。
斯波氏の後に内部分裂を起こしたのが、畠山家の義就と政長であった。
そして、このあと将軍家自体も相続問題で内部分裂を起こすことになるのである。




